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第36話 夜明け前
太陽が厚い雲に覆われ姿を消していた悪夢のような日々から、ふた月ほどが経った。
太古の邪神アポォピスの危機が去ったケメトには、再び平穏が戻っていた。
水 の四月 は終わりを告げ、土 の月を迎えている。大河イテロの氾濫がもたらした肥沃な大地の上に種を撒き、耕作を営む時期だった。
あまねく大地を照らす太陽のもと、人々は畑仕事に精を出していた。また、神殿では日々、神々のために供物が捧げられ、香が焚かれ、音曲が奏でられている。神々の偉大さを讃え、その加護に感謝する神官たちの声は、絶えることがなかった。
同じように、王宮も活気を取り戻している。政 にあたる書記官や警護のための衛兵たちが、それぞれに忙しく立ち働いていた。
ただ、王宮の最奥だけは喧噪も届かず、日々ひっそりとした静寂に包まれていた。
ホルセムはトゥアルセティスを西の冥府 から無事に連れ帰った。しかし、いったんは毒を呑み、また、アポォピスの巣食う闇の世界で数日を過ごしたトゥアルセティスの身体は、ひどく消耗していたようだ。地上へ戻ったとはいえ、寝台から起き上がれない日々が長く続いた。
トゥアルセティスが床についている間、ホルセムは足繁く見舞いに通った。それでも、訪ねるたびに次第に顔色も良くなって、順調な回復ぶりに安堵の息を深くしていたところだった。
そして、ひと月ほど前には、ようやく床上げもかなった。
以来、トゥアルセティスは、後宮で穏やかに日々を営んでいるようだ。最近では、時折、王宮に下働きとして入っている子供たちに字や算術などを教えていることもあるらしい。
また、もともとこの五年の間にトゥアルセティスに仕えていた書記官や兵卒たちも、彼を訪う機会が増えているという。そんなとき、トゥアルセティスは彼らのちょっとした相談に乗ったり、にこやかに談笑したりしているのだと、世話役につけたままのアヌゥからは、そう報告を受けていた。
これらの情報が伝聞なのは、ホルセムがトゥアルセティスを訪れる回数が、床上げ以降は極端に少なくなっていたからだ。様子見程度にしか、顔を出していない。
特に夜ということになると、ホルセムはトゥアルセティスの寝所を一度も訪れてはいなかった。冥府 から戻って以来、叔父の身体が癒えてからも、一度も同衾していない。
ホルセムはすでに、トゥアルセティスへの愛を自覚していた。
けれども、それゆえにこそ、手酷くトゥアルセティスを辱めた自分への自責の念は強かった。自分には、二度と彼に触れる資格などないような気がしていた。
毒を呑んだ後のトゥアルセティスが、駆けつけたホルセムに最後に見せた表情――……穏やかすぎるほどに穏やかだった、その、微笑み。その顔が、ホルセムの中に、苦い記憶として深く刻み込まれている。
あれは安堵の表情だったのではないのか、と、改めて思い直したときに、そう考えてしまったのだ。
トゥアルセティスはもしかすると、ホルセムによる凌辱から解き放たれることを、ホルセムの手酷い仕打ちから逃れて死者の国へゆけることを、あのとき、どこかで救いのように思っていたのではないのか。
そう考えると、どうしたって、トゥアルセティスの寝所にのこのこと出掛けてはいけなかった。どれほど望んでいようとも、もう自分は二度と叔父には触れない。そのほうが、自分たちにとっては良いのではないのか。ホルセムはそう思っていた。
トゥアルセティスの望まないことは、したくない。しない。
もう絶対に、彼を傷つけたくはない。欠片 ほども。決して傷つけない。
それが、自分に出来る、精いっぱいの贖罪だ。ホルセムは、トゥアルセティスに対して犯した罪の償いを、せめて、そういう形でなそうと思った。
そして、愛ゆえに身の内に籠る熱をもてあましつつ、今宵も自室の窓辺でひとり月を眺めている。
「トゥアルセティス……」
葡萄酒 を片手に、トゥアルセティスを想って無意識に切ない溜め息をついた、そのときだった。
「――ホルセム……まだ、起きている?」
ひっそりと訊ねる声は、紛れもなくいままさに想っていた人のものだった。
ホルセムはどきりと心臓を跳ねさせつつ、弾かれたように部屋の入り口へと向かう。布扉を持ち上げると、そこには叔父が静かに立っていた。
幼い頃に憧れたそのままにうつくしい姿を前に、鼓動はますます高鳴った。
「トゥアルセティス……いったいどうした、こんな夜更けに」
それでも、なんとか平静を装って問う。トゥアルセティスは、うん、と、曖昧に頷いてホルセムを見上げた。
「すまない……起こしてしまった?」
窺うように問われ、ホルセムは、ふるふる、と、頭 を振った。
「起きていた……なんとなく、寝付けなくて」
あなたへの劣情に身を焦がしてとはもちろん言えず、ホルセムはさらに努めて平静を装った。
「とりあえず、中へ……葡萄酒 は?」
「そうだね、いただくよ」
トゥアルセティスはゆっくりと部屋の中へ入ると、ホルセムの勧めに従って、卓の前に腰を下ろした。
ホルセムは酒瓶から杯に葡萄酒を満たすと、トゥアルセティスの前に置いてやる。自分の杯にも酒を満たして、もとの窓辺のところに腰掛けた。
杯にくちびるをつけ、中味をひとくち呑む。トゥアルセティスも、白い指で杯を持ち上げ、口をつけた。
ほう、と、お互いに、しずかに息を吐いた。
しばらく沈黙が落ちる。白い月光が部屋に注いでいた。
「――なにか……あったのか?」
やがて、ホルセムは何も言おうとしないトゥアルセティスに、意を決してそう訊ねた。焦れたわけではなかったが、なんとなくそわそわして、間が持たなかったのだ。
トゥアルセティスは杯を置くと、右だけになってしまった〈月の眸〉で、真っ直ぐにホルセムを見た。口許に穏やかな笑みを刷いて、ゆっくりと口を開く。
「ホルセム……わたしは、王宮を出たいと思っているんだ」
「え……?」
唐突なその言葉に、杯を持つホルセムの手はわずかに震えた。
それでも、動揺をなんとか抑え、ホルセムは鬱金の左目でトゥアルセティスを見詰め返した。
「どうして……どういうことだ?」
「うん、なんというか……」
トゥアルセティスは微笑んだまま、わずかにうつむいた。
「邪神アポォピスは退けられたのだし、わたしを王妃にして災厄を避けよというあの神託は、もう、果たされたと考えてよいのではないかと思って……それなら、わたしがおまえの傍に居続ける理由も、もう失われているだろう? だったらここを離れて、どこか遠いところで、静かに暮らしたいなと」
トゥアルセティスは、ほう、と、息を吐いた。
「おまえをの顔を見ると……いろいろと、思い出してしまうから」
紡がれた相手の言葉に、ホルセムは目を瞠って絶句した。
いろいろとは何だろう。ホルセムに夜毎、凌辱されたことだろうか。それとも、無慈悲にも毒を与えられたことだろうか。
たとえ二度と触れあうことはかなわずとも、それでもトゥアルセティスは、ケメトの王妃として、これからもずっとホルセムの傍らにいてくれるものと思っていた。だったらそれだけで満足すべきだ、と、そう自分に言い聞かせていたというのに、そのささやかな希望すら粉々に打ち砕かれる。
否、そんな希望を密かに抱いていることすら、厚かましくおこがましいことだったのかもしれない。
ホルセムはくちびるを引き結んだ。
許可できない、あなたは王妃なのだから、と、言いたい。
てのひらを握りしめ、眉根を寄せる。
いやだ、そばにいてくれ、と、みっともなく縋りついて請いたい。
くちびるが、わなないた。
それでも、ホルセムはやはり――……駄目だ、行くな、とは、言えなかった。
彼が遠くへ行きたいと言うなら、自分にトゥアルセティスを止める資格などないのだ。トゥアルセティスがホルセムの傍で過ごすことを望まないなら、彼を解放してやらなければならない。
それが、彼のたゆまぬ献身を受けていながら、彼をこの上なく傷つけたホルセムが、せめてトゥアルセティスのためにしてやれる唯一のこと。贖罪だ。
ホルセムはきつく奥歯を噛んだ。いますぐにもトゥアルセティスを抱き締め、口づけ、行くなと叫びそうになる己を必死に堪えるためだった。
そんなホルセムを、トゥアルセティスがじっと見ている。右だけになってなお神秘的にうつくしい〈月の眸〉が、なにかを切実に願うような、祈るような請うような色を滲ませている――……叔父が願うのは、きっと、ホルセムからの解放だ。
目頭が熱くなるのを自覚しつつ、必死でこらえた。ほう、と、ひとつ息をついて己を落ち着けた。
「……わかった」
絞り出すように、言う。
「あなたが望むなら、止めない」
ホルセムの返事を受けて、トゥアルセティスの肩から力が抜けたように見えた。ふ、と、その口許がゆるむ。
「ありがとう……すまない」
しずかに、叔父はわらった。
その表情を見ていると泣きそうだから、ホルセムは相手から目を逸らしつつ、いいや、と、短く答えた。
「世話役を何人か見繕おう。護衛の兵卒もつける。ほかにも、必要なものがあるなら言ってくれれば……」
「いや、なにもいらない」
ホルセムの言葉を遮るように、トゥアルセティスはきっぱりと言った。
「馬に牽かせた車を一台、貸してくれるだけでいい」
「しかし」
「それだけで十分だよ。ほかには、なにも必要ない。――……ホルセム」
しん、と、名前を呼ばれて、ホルセムは無言でトゥアルセティスのほうへ眼差しをやる。
視線が交わると、やっぱり、あいしていると告げてしまいたくなった。だから、必死で、くちびるを引き結んだ。
トゥアルセティスは目を細めて、あたたかくやさしい眼差しでホルセムを見詰めていた。
「すまない……ありがとう」
最後にそう言うと静かに席を立つ。
ホルセムは踵 を返して部屋を出て行こうとする叔父の背中をじっと見詰めた。気を抜くと、待ってくれ、と、叫び、その背を後ろから抱き締めてしまいそうだったから、じっと黙って、てのひらを握り込んでいた。
腕の中に抱きすくめ、口づけ、肌を重ねて、そのひとに愛を告げられたらどんなに素晴らしいか。そんな誘惑に、ふらりと歩み出しそうになる足を、持ちあがりそうになる腕を、必死で抑えた。
くちびるが、細かくふるえた。
そのとき、ふと、入り口のところでトゥアルセティスが止まった。ホルセムはどきりとする。
「ホルセム」
振り返った相手は、またこちらの名を呼んだ。
〈月の眸〉がやさしく細まっている。
「おまえはきっと、良い王になる。――きっと」
まるで予言のようにそう言うと、そのまま、ホルセムの返事を待つことなく再び踵 を返した。
そして、明くる朝にはもう、誰にも何も悟らせることなく、トゥアルセティスの姿は王宮からひっそりと消えていた。
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