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第37話 失踪
ホルセムが異変に気が付いたのは、翌朝、玉座の間へ向かう途中でアヌゥと行き合った際のことだった。
冥府から戻って以降も、ホルセムはアヌゥに引き続きトゥアルセティスの世話役を任せていた。アヌゥ自身、いつの間にかトゥアルセティスとずいぶん馴染んでおり、心を籠めて世話してくれている。そんな少年を敢えて引き離す理由はなかった。
そのアヌゥは、回廊でホルセムの姿を見かけるなり、足早に駆け寄ってきた。
「おはようございます、ホルセムさま。トゥアルセティスさまは、まだホルセムさまのところででおやすみですか? あの、身支度とかお食事とか、必要なら僕がそちらにうかがいますが」
少年は明るく表情を輝かせて言う。
しかしホルセムには、アヌゥが何のことを言っているのか、よくわからなかった。
「ちょっと待て……どうしてトゥアルセティスが俺の部屋にいると?」
どういうことだ、と、ホルセムは眉を寄せる。なにか、嫌な予感がざわりと背筋を這いあがっていた。
「え?」
アヌゥはきょとんとした。
「だって昨夜、トゥアルセティスさまはホルセムさまのお部屋へいくと仰っていて……それからお戻りにならなかったので、僕はてっきり、そのままおふたりで夜を過ごされたものと……」
夜、トゥアルセティスを送り出した少年は、主がホルセムの部屋で同衾したものだと思っていたらしい。
「ちがうのですか?」
ホルセムの顔が蒼褪めているのに気づいたのだろう。アヌゥもまた、一気に不安そうな表情になった。
「たしかに、訪ねては来た。だが、トゥアルセティスは、近々王宮を出たいと言っていて……どこか遠くで、静かに暮らしたいと」
「それで……ホルセムさまは、それに何とお答えになったのです」
「許す、と……トゥアルセティスが俺の傍にいたくないのなら、引きとめる資格など、俺にはない」
ホルセムは目を伏せ、アヌゥから顔を逸らしつつそう言った。
その途端のことだ。
「っ、ばかですか!!」
顔を真っ赤にしたアヌゥの叱責が回廊に響いた。
「トゥアルセティスさまがホルセムさまの傍にいたくないだなんて、そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
「だが、俺は……」
トゥアルセティスにひどい仕打ちをしてしまった。だからだろう、トゥアルセティスはホルセムを見るといろいろと思い出してしまうのだ、と、昨夜だってそう言っていたのだ。
遠くへ行きたい、と、そう願い出てきたのは、紛れもない事実。そして、ホルセムには、彼がそう望むことは仕方のないことだとしか思えなかった。
「そんなわけ、ないですよ……」
それなのに、アヌゥは憤りを籠めて、低い声で言うのだ。
そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、ウルとメネフとが顔を出した。
「どうかなさいましたか?」
メネフがホルセムを見る。
けれどもホルセムは、何も言うことが出来なかった。
「アヌゥ……何があったのです?」
ウルが、親戚筋の少年を気遣って、そう声をかける。
「トゥアルセティスさまが……いなくなりました」
「なんですって?」
「昨夜、ホルセムさまのところをお訪ねになって、遠くへ行きたいと仰っていたそうです。たぶん、そのまま……ひとりでひそかに、王宮をお出になったのだと思います」
アヌゥがくちびるを噛むようにしてこぼした。それを聞いたウルは、弾かれたように踵 を返した。
「すぐに車を用意します。いちばん足の早い馬に牽かせれば、まだ追いつけるはず……!」
側近の書記官は、すぐさまトゥアルセティスを追うための手はずを整えようと駆け出しかける。しかしホルセムは、そんなウルを引きとめた。
「待て」
「なんです、ホルセムさま? 早く王妃さまをお探しせねば……」
「いや……探す必要はない」
ホルセムが言うと、ウルははっと息を呑んだ。
「ですが……ホルセムさま」
「昨夜、王宮を出たいと言ってきたトゥアルセティスに、俺は許可を与えたんだ」
まさかその足でいなくなってしまうとは思いもよらなかったが、どちらにせよ、遠からずトゥアルセティスはここを離れたことだろう。だったら、遅いか早いかだけの話だ、と、ホルセムは自分に言い聞かせた。
「自ら去ることを望んだ……俺の身勝手な思いで、引きとめることはできない」
眉を顰め、絞り出すように言う。
「トゥアルセティスは、もう、俺の傍にはいたくないんだから……」
自嘲するようにこぼすと、ウルは気遣わしげに黙りこんだ。
「――傍にいたくないと……そう、トゥアルセティスさまが仰ったのですか?」
そのとき、静かに問うてきたのは将軍メネフだった。
「たとえ仰ったのだとしても、それがほんとうに本心であったと……あなたは、お思いですか?」
ホルセムは顔を上げる。
メネフは問い詰めるような強い眼差しで、真っ直ぐにホルセムを見据えていた。落ち着いた低い声には、けれども、抑えきれぬ怒気が滲んでいる。
「だって……」
ホルセムは将軍の眼差しに堪えられず、目を逸らして口籠った。
たしかにいまのホルセムは、トゥアルセティスがこれまでずっと、ひそかに、けれども全身全霊でホルセムのことを護ってくれていたことを知っている。だが、そのこととと、ホルセムが彼に為した仕打ちとは、別の問題だ。
己を手酷く辱めたうえ、最後には死を命じまでしたホルセムを、トゥアルセティスが――理性とは別のところで――許すことができなくても、それは仕方がないことだ。アポォピスの脅威が去り、平穏が戻ったいまだからこそ、かえってその思いが大きくなっていたとしても、ホルセムは驚かない。
ホルセムが答えに詰まったままにてのひらを握り込んだときだった。
「ホルセムさま」
今度はアヌゥがホルセムを見詰めた。
「トゥアルセティスさまは、毎夜……ホルセムさまのお渡りを、お待ちだったのだと思います。だって……風が吹いて、入り口にかかった布が動くたびに、はっと顔を上げられて……それで、なんだ風かって、切なそうに溜め息をついておいでで……あれは、あなたが来られるのを、待っておられたからだと……」
トゥアルセティスの世話役に当てていた少年の言葉に、ホルセムは左の目を大きく瞠った。
「まさか」
思わずこぼす。
「そんなわけが、ない……だって、俺は……」
彼に対して、償い切れない大きな罪を犯した。許してくれと請うことさえおこがましく思えるほどななのに、そんな自分のことを、トゥアルセティスが待っていたわけがないではないか。
ホルセムが続きの言葉を言い倦 んでいると、アヌゥはホルセムの思考を否定するかのように、ふるふる、と、頭 を振った。
「だって、考えてみてくださいよ。トゥアルセティスさまは、誰にも告げずに王宮を出ることだって、出来たのですよ。それでも、あの方は……あなたさまにだけは、会いに行かれました」
そこで一旦言葉を切り、アヌゥは、ほう、と、息を吐く。
「もしかしたら、たしかめに行かれたのでは、なかったのでしょうか……最後に、一度だけ」
「いったい、なにを……?」
トゥアルセティスが、いったい何を、ホルセムに確かめたかったというのだ。ホルセムは少年をじっと見た。
「自分が、ホルセムさまにとって、まだ必要な存在かどうか……あなたさまが、あの方がこれからも自分の傍にいることを、望んでいるのかどうか」
「でも……遠くへいきたい、と、自分で……」
そう自ら言い出したのはトゥアルセティスだ。ホルセムは手放したくなかった。けれども、トゥアルセティスがそれを望むのなら、と、本心を抑え込んで、彼が王宮を離れることに許可を与えたのだ。
「ほんとうは……引きとめて欲しいと、思っていたのかも」
人の心はとかくうらはらなものですから、と、アヌゥは大人びた言葉を口にした。
「そんな、わけが……」
それでも信じ難くて、ホルセムはつぶやいた。
出て行きたい、と、そう言った後、窺うようにじっとホルセムを見詰めていた〈月の眸〉が思い出される。あの眼差しは、ホルセムが彼を引きとめることを期待して、こちらに向けられていたとでもいうのか。そんなものは、ホルセムにとってだけ都合のいい妄想ではないのか。
「なぜそんなわけがないなどと思われるのです」
そこへ、ぴしゃりと言葉を重ねたのはメネフだった。
「あの方には、ずっと、あなただけだった。すべてがあなたのため……真実をお知りになったあなたは、もう、そのことをご存知のはずです。――それなのになぜこの期に及んで、そんなわけがないだなどと、わからないことをおっしゃる? 意気地のない考え方をなさるのです?」
ホルセムは答えられなかった。
そんなこちらを見据えつつ、メネフは言葉を継ぐ。
「五年前のあの日……もしも弑逆の罪を犯したあの方が自分を連れて逃げてくれとひとこと言ってくださったなら、オレはすべてを捨てて、砂漠の果てへでも行きましたよ。あの方と、ふたりで。その覚悟があた。――でもね、ホルセムさま……あの方の頭にあるのは、どこまでも、あなたさまのことだけだった。あんな極限の状態でも……」
メネフが自嘲めいた笑みを口の端に刷いて言った。その表情は、どこか、痛みを堪えるかのようだった。
「あの方にとっては、ほんとうに、あなただけが己の存在意義なんです。――そんなあの方が、あなたの傍を離れてしまって……いったい、どこへ行くと? この世のどこに、あの方にとっての新たな居場所があると? 無責任ではないですか」
問い詰められ、ホルセムは息を呑んだ。
「トゥアルセティス……」
また、血の気が引いていた。
腹の底が冷えて、吐き気がした。
ホルセムは、トゥアルセティスが王宮を離れることに許しを与えた。それを聞いたトゥアルセティスは、ホルセムがもう彼を必要としていないと思い込んだのかもしれない。そんなつもりはなかったのに、むしろ逆だというのに、そう思いこんでしまったかもしれないのだ。
トゥアルセティスは、ホルセムと話をした後、その足でひとり、ひそかに王宮を出ていった。彼がもし、ホルセムに望まれていない以上もはやこの世のどこにも自分の居場所がないだなどと考えたのだとしたら――……次に、いったい、どういう行動に出るだろうか。
この世から、消えてしまおうとするのではないのだろうか。
ぞっとした。
「っ、トゥアルセティス……」
ホルセムは弾かれたように踵を返す。
「すぐに馬車をご用意いたします!」
控えていたウルが言った。
「朝議はこちらにお任せを。そのかわり……必ず連れ戻してきてくださいよ、ホルセムさま」
「ウル」
「あの方はケメトの王妃。いまのあなたさまが、トゥアルセティスさまを措いて他に王妃を迎えるとは思えませんから……彼を失えば、ケメトはこれから、長く王妃不在の状況に陥ります。あなたさまの側近として、それでは困りますから」
「すまない……ありがとう」
ホルセムは己の背中を押してくれた面々に頭を下げると、回廊を駆け出した。
トゥアルセティス、と、心の中でその名を呼ぶ。どうか早まらないで、と、祈るように思いつつ、王宮を飛び出し、馬車を駆った。
砂漠を渡ってきた熱い風が、ホルセムの頬に吹きつけた。
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