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第38話 告白

 トゥアルセティスはいったいどこへ向かったのだろう。ホルセムは馬車を疾駆っさせつつくちびるを噛み、前方を睨み据えた。  あなたを手放そうと思ったのは、あなたが必要ないからではない、と、眉を(ひそ)めて思う。  自分はトゥアルセティスに手酷い仕打ちをした。辱めを与え、死すら命じた。そんな自分には彼を望む資格がないと思っただけのことだ。  ほんとうは、手放したくなどなかった。  傍にいてほしかった。  だったら――……言えば、よかったのだ。  そう、真っ直ぐに、言えばよかった。  ホルセムはいまさら後悔して、臍を噛んだ。  贖罪などと言い訳をして、結局、トゥアルセティスに決定的に拒まれるのが怖かっただけではないのか。その怯懦が、またしてもトゥアルセティスを追い詰めたのだとしたら、自分は何も成長していない。愚かだった己を悔いたばかりで、また、情けなくも、過ってしまったのだ。  彼に、想いを告げればよかった。  あいしていると言えば良かった。  受けとめてもらえない恐怖に怯えたりせず、素直になればよかったのだ。そうすれば、トゥアルセティスがひそかに去ってしまうことなど、なかったのかもしれない。  ホルセムは忸怩たる想いを噛みつつ、必死で馬車を駆る。  王都を抜けた。  でも、どこへ向かえばいいのだろうか。  ホルセムに望まれていない、自分はもうホルセムにとって不要なのだと思い込んでしまったかもしれないトゥアルセティスは、いったい、どこへ足を向けるだろう。  そのとき、ふと、頭を(よぎ)ることがあった。  ホルセムは、トゥアルセティスへの罪悪感から、自らの気持ちを素直に口にすることが出来なかった。そんな資格はないと思った。  けれども、黙っていたのはトゥアルセティスだった同じなのだ。もしも、トゥアルセティスもまたホルセムと同様に――……引け目のようなものゆえに、己の気持ちを口に出来ないままに去ったのだとしたら。  彼が抱く罪の意識の根源は、いったいどこにあるだろうか。 「……五年前……」  ホルセムはつぶやいた。  トゥアルセティスもまた罪の意識に苛まれているとすれば、その(もとい)は、ホルセムの父セベクヘプを、己にとっても義兄であった人を、自らの手で(あや)めてしまったことにあるのではないか。そのことに対する消えない罪悪感があるからこそ、トゥアルセティスは自分の気持ちを抑えたままで、ホルセムのもとを離れたのではないのか。  だったら、贖罪の意識を抱えた彼が向かうのは、どこだろう。 「――王家の、谷……」  ホルセムは、即位式のその日に、崖の上から王墓を眺めて長く長く祈っていたトゥアルセティスの姿を思い出した。  手綱を引くと、砂塵をあげつつ、一路そこを目指した。 *  いつしか日は暮れ、砂漠に夜がやってきていた。  星々の瞬きの下、ホルセムは必死に馬車を走らせた。砂漠の夜は冷たい。赤茶けた砂を舞い上げつつひとり疾駆するその世界は、静かで、静かで、どこまでも果てがないように思えた。  やがてようやく、王家の谷を見下ろす崖の上へと辿り着く。その突端に、白い人影が、ぽつねんと立っているのが見えた。  その人はこちらに背を向け、眼下に広がる王墓の列の前に、ひとり寂しく佇んでいる。  風ふいて、ふわり、と、その衣の裾を揺らした。 「トゥアルセティス!」  ホルセムはこらえきれず、叫ぶように名を呼んだ。 「トゥアルセティス!」  馬車を降り、声を張り上げつつ、叔父のほうへと一目散に駆け寄った。  はっと振り返ったトゥアルセティスが、ホルセムの姿をみとめて、右目を瞠る。どうして、と、そのくちびるが声もなく呟いた気がした。  夜風がふたりの間を吹き過ぎていった。また、ふわり、と、トゥアルセティスの衣が風を(はら)んだ。  それはまるで翼のようだ。いまにも衝動のままに彼がそこから飛び立ってしまいそうに見えて、ホルセムはひどく焦った。 「トゥアルセティス……こちらへ」  焦燥を抱えて相手のほうへと駆けながら、ホルセムは請う。けれども、トゥアルセティスは崖の端から動こうとはしなかった。 「ホルセム、ホルセム……すまなかった」  彼は静かに詫びの言葉を口にした。 「わたしは、義兄(あに)を……おまえの、父を……殺した。最後にその罪を……つぐなって、いくから……ゆるして、おくれ」  ほう、と、嘆息するように言ったその口許が、ほんのりと笑んだ。  トゥアルセティスが浮かべているのは、紛れもなく微笑みだ。やさしく、おだやかで、限りなくしずかな笑みである。それなのに、その静謐な笑みには、翳があり、深いかなしみが滲んでいた。  まるで無慈悲な砂漠の夜に置き棄てられたもののように、王家の谷を臨む崖に(たたず)むトゥアルセティスの姿は、さびしい。 「先王を手にかけたわたしがおまえの傍にいては、なにかと、さわりがあるよね。アポォピスの災厄が迫っていればこそ、トゥト神の化身として、まだしも価値があったかもしれないけれど……それも去ったいまとなっては、わたしはむしろ、おまえにとっては邪魔でしかない。それくらい、考えれば、わかるのに……」  そう言いつつ、彼はまた、ほう、と、静かに吐息した。 「だったら……おまえの傍から永遠に消えることが、きっと、わたしがおまえのためにできる最後のこと。それで……すこしでも、兄様への贖罪も、かなうといい。――おまえは、わたしを、ゆるしてくれる? 兄様は、わたしを……ゆるして、くれるかな……」  そう言った刹那、トゥアルセティスが一歩、後退(あとじさ)った。 「やめろ……っ」  ホルセムは悲痛な声を上げた。  トゥアルセティスが立つのは崖の(きわ)だ。そして、躊躇(ためら)いの欠片(かけら)もなく、その足は地面を離れた。  細い身体が、ふわ、と、宙へと投げ出される。 「っ、トゥアルセティス!」  ホルセムは咄嗟に叫んでいた。  必死で駆け、必死で腕を伸ばす。  指先が、かろうじて、トゥアルセティスの手首を掴んだ。  がくん、と、腕から肩にかけて大きな衝撃がかかる。ホルセムは崖の縁に這いつくばるような恰好で、歯を食いしばって、全身全霊でトゥアルセティスの身体を支えた。  トゥアルセティスの身体は、ホルセムの腕一本に繋ぎ止められる形で、中空にぶらさがっている。  熱い風が吹いた。  岩肌が崩れ、礫と砂とがぱらぱらと崖をつたって落下していく。 「……ホルセム……?」  どうして、と、トゥアルセティスはまた声にならない声で問うた。  必死でトゥアルセティスの身体を支えるホルセムの頭の中には、瞬時に、様々な言葉が渦を巻いた。  トゥアルセティスはホルセムの王妃だ。即位式の際、ラァ神殿で誓約した、正式な王妃だった。神の前で誓った以上、その事実はそう簡単に(くつがえ)してよいものではない。王族なら、なおのことだ。  それに、と、ホルセムは思う。  トゥアルセティスは先王セベクヘプを殺めた罪について口にしたが、それはホルセムを救うための選択にほかならなかった。ならば、彼の罪は、彼ひとりのものではない。すくなくとも、ホルセムもまた、共に背負うべき咎だった。  そのうえ、もしもトゥアルセティスが自ら命を絶ったと知れば、アヌゥやメネフをはじめ、悲しむ者だって多いはずだ。簒奪以来の五年間、王宮でトゥアルセティスに仕えてきた書記官や兵卒たちだって、心の底では、トゥアルセティスを慕っている。そんな彼らは、物言わぬ遺体となった彼を見たら、どんな想いを噛むだろうか。  あなたは俺の王妃だ。  あなたの罪はあなただけのものではない。  あなたの帰りを待つ者がいる。  ホルセムの脳裡に、そんな理屈が、いくつもいくつも(ひるがえ)る。  けれども、口を突いて出たのは、そのどんな理由でもなかった。  たったひとつの、ホルセムの真実だった。 「……あいしてる……」  喉が詰まり、声はみっともなく震えている。 「あなたを、あいしてる……だから……いかないで、俺をおいていかないで……おねがいだ、トゥアルセティス」  気づけばその声は泣き濡れてさえいた。ぽたぽたと涙をこぼしながら、ホルセムは、あいしてる、あいしてる、と、その言葉だけを繰り返した。  風が止んで、星の瞬く空の下、歴代の王と王妃とが眠る王家の谷は、しん、と、静まり返っていた。  トゥアルセティスは息を呑んでホルセムを見上げていた。神秘的な〈月の眸〉が、刹那、驚愕を浮かべた後、戸惑うようにゆらゆらと揺らいだ。 「……あいしてる……あいしてるよ、トゥアルセティス」  ホルセムは切々と訴えた。 「あなたなしでは、生きられない……俺、は」  そう言ったとき、崖の土が崩れ、ずる、と、身体がすべる。ぱらぱらと音を立てて石が落ちていく中、ホルセムは一瞬、均衡を失った。  がくん、と、身体が沈む。 「ホルセム……ッ!」  トゥアルセティスが悲鳴のような声を上げた。 「は、なせ……手を、はなすんだ……このままでは、おまえまで……」  彼は必死に訴える。 「いやだ、絶対に……!」  しかし、ホルセムも歯を喰いしばり、いっそう強くトゥアルセティスの手首を握った。 「ホルセム……はなし、て……」 「いやだ」 「ホルセム……たのむ、から……おまえは、王なんだよ……こんなところで、死んでは駄目……」 「っ、王だからこそ……! 俺は、あなたを、守らなければ……何にかえても……あいするあなたを守れずに、他の何を守れるというんだ……!」  指先はとうに(しび)れている。けれども、死んでも放すものか、と、ホルセムはさらに腕に力を籠めた。ぐ、と、力を籠めると、皮膚の下で筋肉がうねった。  けれども、相手を引き上げるには、崖はもろく、不安定すぎる。なんとか踏ん張っているのが精いっぱいだった。 「はなす、ものか……ぜったいに」  ぽた、と、汗がこぼれる。ホルセムは顔を歪めた。 「……だれ、か……」  トゥアルセティスが縋るように言った。 「創造を司り、あまねく世を照らす太陽神ラァ……大いなる知恵の月神トゥト……大河神オサイリス、砂漠の神セテス……ケメトを護る、すべての神々……どうか……どうか、ホルセムを、たすけて……」  トゥアルセティスの眸からも、ほろ、と、涙がこぼれた。切実な響きを帯びた声が、夜空へと吸い込まれた。

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