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第39話 少年神

 トゥアルセティスが神々に祈った、そのときだった。  びゅん、と、一迅の風が吹き上げる。  刹那、ホルセムは、ふわ、と、身体が軽く浮きあがったように感じた。  気付けば、ホルセムとトゥアルセティスの身体を抱えている腕がある。しなやかだが、まだほっそりとした、幼さを残す腕だった。  ばさ、と、力強い羽打ちの音がした。  崖下の、赤茶けた砂の中に(わだかま)る闇が、急激に遠ざかる。ふたりを支えた何者かの腕は、そのままホルセムたちを固い大地の上まで運び、ゆっくりとそこへ降ろしてくれた。 「あ……」  助かったのだ、と、思った。  トゥアルセティスを失わずに済んだ。そう実感した刹那、ホルセムは感極まって、目の前のトゥアルセティスを強く抱き締めていた。  そのまま、その場にふたり、ずるりと崩折れる。 「トゥアルセティス……トゥアルセティス……」  ホルセムは繰り返し呼びながら、その肩口に顔を埋め、もう離すまいとするかのように、その背をきつくきつく抱いた。  トゥアルセティスも、躊躇いがちに、ホルセムの背に腕をまわした。 「トゥアルセティス……!」 「ホルセム……」  ひとしきり抱擁し、無事をたしかめあった後、ホルセムは顔を上げ、自分たちを救ってくれた腕の主の姿を見た。  傍らに立つのは、琥珀色の肌を持つ一人の少年である。  右目は太陽のごとき鬱金(うこん)色、左目は青味を帯びた銀灰色に月舟を浮かべた特徴的な虹彩だ。黎明あるいは薄暮の空のような、明るい紺碧から深い群青へと移ろう神秘的な色味の短髪が、風に吹かれてわずかに揺れた。  胸元には、護符(アンク)のかたち、十字の上に輪をつけたケメト十字の痣のようなものが浮かんでいる。額には、自らの尾を加えた黒蛇を象った飾り(ディアディム)が巻かれていた。  背に立派な(はやぶさ)の翼を持つ少年は、しばらくの間、左右で色の違う眸でじっとホルセムとトゥアルセティスを見詰めていた。 「あ、なたは……」  人間(ひと)ではない。それは明らかだったが、ホルセムには、いま目の前に立つこの少年神の正体に、心当たりがなかった。 「我は天空を支配する神、ケメトの王権を守護する者、ホルスアンクトゥア」  少年神は高らかに名乗ったが、その神名にも、やはり聞き覚えはなかった。  そのとき、ふいに、砂を巻き上げて風が吹いた。 「――ホルス」  砂粒が渦を巻き、そこにひとりの美丈夫が姿を現わす。砂漠神セテスだった。 「セテスおじうえ」  ホルスアンクトゥアを名乗った少年神は、現れたセテスを前に、どこか嬉しそうに呼びかけた。 「このふたりを見まもり、危機があればたすけろと、おじうえは我に言った。言いつけどおり、我はちゃんとやった」  まるでよくやったと褒めてくれと言わんばかりに、ホルスアンクトゥアは、セテス神の前で軽く胸を反らせる。その姿は、かつて幼かったホルセムが、叔父トゥアルセティスの称賛を求める姿とも重なった。 「ケメト王、ケメト王妃。久しいな……というほどでもないか」  セテスがこちらをみて、苦笑めいた笑みを浮かべた。 「偉大なる砂漠の支配者、無慈悲な砂を()てケメトを外敵から守護する神、セテスさま……いったい、この御方は?」  トゥアルセティスが少年神に眼差しを向けつつ、おずおずとセテスに問うた。  砂漠神は、ふう、と、ひとつ息を吐いた。 「ケメト王。冥府(イメンドゥアト)でこの者の身代わりとしてトゥトが作った人形(ひとがた)のことを、覚えているな」  セテスはホルセムのほうに砂漠の夜のごとき眼差しを向けて言う。ホルセムは、こくりと頷いた。  トゥアルセティスを冥府から連れ出すため、邪神アポォピスの目を晦ます目的で月神トゥトによって作られたもの。ホルセムがトゥアルセティスに贈り、トゥアルセティスが肌身離さず持っていた護符(アンク)を核となる心臓(イブ)とし、トゥアルセティスの体内に注がれたホルセムの血と精とを生命力(カー)(バー)として、仕上げに自分たちの左右の眸をひとつずつ嵌め込まれてつくられた、人形(ひとがた)である。  のちに贋物であることは見抜かれたが、最終的にアポォピスを退ける際にはまた、黄金の剣としてホルセムの力ともなったものだった。  冥府(イメンドゥアト)にトゥトが降臨するための形代(かたしろ)となっていたトゥアルセティスは、とのときの記憶を持たず、人形(ひとがた)のことを直接は知らない。が、トゥト神が知恵と力とを貸してくれたことは、互いの目が失われた経緯(いきさつ)とともに、話してあった。 「あの人形(ひとがた)がどうか……?」  ホルセムが訝ると、砂漠神セテスは、今度はホルスアンクトゥアを名乗った少年神のほうへ眼差しを向けた。 「トゥトが力を貸し、おまえたちの間に()ったもの……創造の力を持つ太陽神ラァは、それに、神としての(レン)をお与えになった。――天空神ホルスアンクトゥア、と」 「天空神、ホルスアンクトゥア……」 「ケメトを守護する新しい神が生まれたということだ。――右目に太陽、左目に月、隼の翼を以て大空を翔ける天空の支配者……今後は、このホルスが、ケメト王権の新たな守護者となる。今後は……おまえの次の代からは、ケメト王は、ホルスアンクトゥアの化身と呼ばれることになるだろう。これまでの、ラァの子ではなく」  セテスの言葉に、トゥアルセティスがはっと息を呑む。 「それは……偉大なる太陽神ラァが、ケメトの守護から手をお引きになるということでしょうか?」  不安げに問うた。 「まさか。ラァはアポォピスを退けたおまえたちのはたらきを、たいそうお喜びだった。加護は今後も変わるまい」  セテスは、くすん、と、肩をすくめる。 「だから、ホルスアンクトゥアの誕生は、いわばラァからおまえたちへの、褒美のようなものだろう」 「褒美……」 「おまえたちの互いを想う気持ちが、創造神をも動かしたということだ」  そう言いつつ、砂漠を司る神は、ホルスアンクトゥアのほうを見て、夜色の目を細めた。 「かつて世界は神々が直接治め、その頃、人間は神の奴隷だった。その後、神々と人との共同統治の時代へと移った。が、その時代も、もはや終わろうとしている。――これからは、人の時代。人自身が、人のゆくべき道を選びとって行く時代だ……ホルスは、そんな人間にとって新たな時代の、新しい守護神となるだろう」  そう力強く言われ、トゥアルセティスは、ほう、と、安堵の息を吐いた。  ホルセムもまた、自分とトゥアルセティスとの間に生ったのだという新たなケメトの守護神を感慨深く眺めやった。 「――と、いっても」  ふう、と、セテスが溜め息をつく。 「これはまだまだ生まれたての幼い神。我とオサイリスの兄弟とが養育を任されたが……まあ、おまえたちの治世の間には、なんとか神として独り立ちさせるさ」 「我はちゃんとできる。いまだって王と王妃を救った」 「神は無闇に人に姿を見せるものではないと、オサイリスに口を酸っぱくして言われているだろうが……忘れたか? また叱られるぞ……まったく。――帰るぞ」  呆れたように嘆息すると、セテスはくちびるを尖らせ、不満げに黙り込んだホルスアンクトゥアの頭に、ぽん、と、手を載せた。 「ではな。ケメト王、ケメト王妃」  砂粒が舞い上がって、ふた柱の神を包み込む。一迅の風が吹き抜けると、そこにはもはや何の姿も見えなくなった。 「忘れるな。姿は見えずとも、我らケメトの神々は、いつもおまえたちを守護している」  ただ、何もない空間から、そんな声だけが残響のように聴こえてきた。 * 「トゥアルセティス」  セテスとホルスアンクトゥアが去ったあと、ホルセムはあらためてトゥアルセティスと向かい合った。 「俺たちも……帰ろう、王宮へ」  窺うように、あるいは、請うように、ホルセムは言った。 「でも」  トゥアルセティスは躊躇いを見せる。けれども、ホルセムは相手の言葉を奪うように、有無を言わさず、きつくトゥアルセティスを抱き締めた。 「俺と、帰ってほしい。俺の傍に、いてほしい」  今度こそ、真っ直ぐに告げる。 「あなたを……愛しているんだ。あなたがいなければ生きられない。――こんなこと、俺には言う資格など、ないのかもしれないけれど……」  そこまで言うと、感極まって、ホルセムは肩をふるわせ、嗚咽を漏らした。 「あいしてるんだ、トゥアルセティス……傍にいて、ずっと……どこにも、行かないで。たのむから……」  ホルセムは泣きながら訴えた。情けない涙声で言いながら、トゥアルセティスをきつくきつく抱きしめる。  しばらく黙りこんでいたトゥアルセティスは、やがて、白いてのひらをホルセムの涙でぐちゃぐちゃになった頬に添えた。 「ホルセム……王たるものが、そんな顔を見せてはいけないよ」  諭すように、言う。  でも、と、ホルセムは言いかけた。  トゥアルセティスが大事だ。何よりも大切なのだ。失っては生きていられない、と、それは紛れもなくホルセムの本音だった。みっともなかろうがなんだろうが、隠さぬ真実なのだ。  鬱金の眸で、トゥアルセティスを見詰める。  トゥアルセティスが、ほう、と、息をついた。 「……おまえは王なのだから、そんな顔……」  ふ、と、相手の〈月の眸〉がやさしく細まる。  トゥアルセティスは口許に微笑みを浮かべた。 「見せるなら……わたしだけ、に」  そう言って、彼は涙の痕のあるホルセムの目許に、そっとくちびるを寄せた。  ホルセムは、ぱちぱち、と、目を瞬く。きゅ、と、眉根を寄せる。 「トゥアルセティス……!」  万感を籠めて名を呼んで、ホルセムは衝動のままに、トゥアルセティスに口づけた。

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