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第40話 可惜夜
トゥアルセティスを連れたホルセムは、朝焼けの頃、王宮へ戻った。
親しい臣下たちは、ふたりの帰りを寝ずに待ちわびていたようだ。こちらの姿を見たメネフ将軍は、心からの安堵の表情を見せた。いつの間にかトゥアルセティスとずいぶんと慕うようになって親しんでいたらしいアヌゥなどは、涙まで見せていた。
「俺の王妃は今後もトゥアルセティスだ。それ以外には考えられないし、誰にも文句はいわせない」
神託があるとはいえ、トゥアルセティスが前王を殺した逆賊であることも事実だ。だからもしかしたら万人の納得は得られないかもしれないが、それでも、ホルセムは譲るつもりはなかった。そう、トゥアルセティスもいる場所で、皆に告げておきたかった。
トゥアルセティスに罪があるというなら、それはホルセムの罪でもある。だから自分も、その罪を彼と共に背負い、彼を守り続ける覚悟だ。
ホルセムがそう決意を口にすると、ウルがちいさく息をついた。
「仰せのままに取り計らいますよ。――王の心が穏やかであるなら、それが一番ですからね」
ようやく憑き物が落ちた表情を見せたホルセムに、乳兄弟かつ幼馴染みでもある相手は目を細めた。
周囲の者には、ずっと心配をかけていたようだ。それに改めて気がついて、ホルセムは恥入るような思いだった。
*
そして、その日のその夜のことである。ホルセムはずいぶんと久しぶりで、寝所にトゥアルセティスを訪ねていた。
やってきたホルセムを見たアヌゥは、ごゆっくり、と、笑って言って、すぐに部屋から下がっていった。
トゥアルセティスとふたりきりになったホルセムは、なにをどう切り出したものか迷う。結局、しばらく気まずくその場に立ち尽くした。
窓辺に腰掛けていたトゥアルセティスはそんなホルセムをしばらく無言で眺めていたが、やがて、いまや片方になってしまった目を細めて、ちいさく息をついた。
「どうしたの、ホルセム? こちらに来ないの?」
「あ……」
「昔はわたしの姿を見つけたら一目散にこちらに飛び込んできていたのにね」
そんなことを言って、くすくす、と、笑うトゥアルセティスの表情は穏やかだ。だからこそと言うべきか、ホルセムはますます、どうしていいかわからなくなってしまった。
トゥアルセティスを愛している。けれども、ほんとうに、自分は再び彼に触れてもいいのだろうか。彼は、それを許してくれるのだろうか。
この気持ちを誤魔化したままではいられない。
これから先、トゥアルセティスと生涯を共にしたいと思うからこそ、曖昧なままにはしておけなかった。
ホルセムは、きゅ、と、眉を寄せる。てのひらを握り込み、ひとつ、息をついた。
「トゥアルセティス……俺は、あなたに……ひどいことをした」
まさにこの部屋で、ホルセムは何度もトゥアルセティスを乱暴に陵辱したのだ。その事実は消えるものではなかった。
アヌゥは、トゥアルセティスがホルセムの訪いを待っていたと言った。けれども、それはアヌゥがそう思っただけのことで、トゥアルセティスの本心は違うかもしれない。きちんと、彼の口から聞いたわけではなかった。
ホルセムはまた、ふう、と、息をつく。
視線を逃がすことなく、いまは真っ直ぐに相手の姿を見詰めた。
トゥアルセティスがホルセムを怖いと思うなら、もうホルセムに触れられたくないと思うなら、ホルセムはトゥアルセティスに無理を強いたくはない。否、強いてはならない。
彼を気遣うその思いは真実だ。トゥアルセティスに王宮から出る許可を与えたときと同じように、なにより相手が望むようにしてやりたいという気持ちが、いまも変わらずホルセムの胸のうちにはあった。
これまで気づかぬままに彼の献身に支えられてきたからこそ、これから先はそうであってはならないと思う。つらい思いも、嫌な思いも、もう二度とさせたくないのだ。
無理にこらえずに、ぜんぶ、聞かせてほしい。
背負うものは、共にしたい。
「あなたを信じられなかった愚かな俺を……あなたは、ゆるしてくれるだろうか」
忸怩 たる思いで吐き出したときだった。それまで座っていたトゥアルセティスが、静かに立ち上がった。
さら、と、衣擦れの音がする。トゥアルセティスはゆったりと微笑んだまま、ホルセムのほうへ歩み寄った。
すっと伸びてきた手に、ホルセムはびくりとする。無意識に一歩あとじさっていた。
それを見て、トゥアルセティスは困ったように苦笑した。
「わたしに……仇のわたしに、触れられたくはない?」
「っ、ちがっ」
そんなわけはない、と、ホルセムは慌てて首を横に振った。むしろ自分が触れようと手を伸ばしたとき、相手に拒まれてしまうほうが、ずっと怖かった。
そう思ったとき、ホルセムははっとする。
トゥアルセティスの意思を尊重しているように見せかけて、いまもまだ奥底で逃げ腰のままの自分がいた。それに気付いた。
また傷つくのが嫌で、恐ろしくて、彼に手を伸ばすのを躊躇っている。これからも、ホルセムはこの臆病を引き摺るのだろうか。
そんなのは、嫌だ。自分のためにも、トゥアルセティスのためにも、もう逃げていてはいけないのだ。
「あなたのこと……仇だなんて、俺はもう、思ってはいない」
ホルセムは眉を寄せ、きゅっとてのひらを握り込んで、トゥアルセティスを見た。
「そう」
相手は、あらためてホルセムのほうに手を伸ばすと、そ、と、こちらの頬に触れた。
「それなら、おまえがわたしに触れようとしないのは……復讐のための行為でなければ、わたしに触れる意味はないとおもっているから?」
「っ、そんなことはないっ。そんなわけは……っ! だって、だって……あなたを、あいしてる、から……そう、言ったじゃないか」
触れたいに決まっている。肌をあわせ、深く身を繋いで、身体でも相手を愛したかった。
身体ごと心までいっぱいに抱きしめたい。そして、トゥアルセティスもホルセムをそんなふうに抱きしめてくれたなら、それは、どれほど幸せなことだろうか。
ホルセムは目を潤ませて、それでも怯えるように慎重な手つきで、トゥアルセティスの肩に触れた。
逃げずにこちらを見返している相手に顔を近づける。相手の反応を試みるように、ちゅ、と、軽く啄 むような、触れるばかりのくちづけをした。
すぐにくちびるを離してトゥアルセティスを窺うと、相手は残った片方の目をそっと伏せていた。その目許が、ほんのりと染まっている。
ほう、と、すこし甘さを帯びた溜め息が聴こえた。
「トゥアルセティス……」
こんなふうにホルセムが触れることを、彼は、ゆるしてくれるということだろうか。
「っ、トゥアルセティス」
ホルセムは請うように相手の名を口にしていた。
「ホルセム」
目を開けたトゥアルセティスが、応えるように、こちらの名を呼ぶ。
「イプワトが死者の国へ旅立ったとき……おまえはわたしを抱きしめて、口づけしてくれたね。いましたみたいに、やさしく。――おまえはわたしを憎んでいる。わたしは憎まれて当然のことをした。それはわかっていたけれど、でも、わたしは、あのとき……とても、うれしくて」
はにかむように言って、彼は、そ、と、微笑んだ。
ホルセムは、ああ、と、息をつく。
あのとき、さびしげな顔を見せたトゥアルセティスを慰めたいと思った。そのホルセムの気持ちは、ちゃんと相手に伝わっていたのだ。
それを知って、胸が熱くなる。
「嫌じゃ、ない、か……? 俺に、触れられるの……」
ホルセムはおそるおそる訊ねる。一歩踏み出して、たしかめなければならないことだった。そうしなければ、ホルセムは先に進めない。
「嫌などと、思わないよ」
トゥアルセティスが、ふ、と、口許にやわらかな笑みを刷いた。
「ずっと……わたしに触れるおまえの手を嫌だと思ったことなんか、ないよ。一度だって」
トゥアルセティスの眸が真摯にホルセムを見た。
ホルセムは感極まって息を呑んだ。
トゥアルセティスの背に腕をまわし、彼の細い身体を抱きしめる。ぎゅう、と、力を籠めながら、その耳許に、ほんとうに、と、もう一度だけたしかめた。
「俺のために、無理をしてないか? 嫌なんだ、あなたに我慢させるのは、もう」
「がまんなんて、してない……嘘なんかじゃないよ」
「でも……だって……あなたはいつも、泣いていたのに」
それでも乱暴を尽くした己の行為がまた悔やまれ、ホルセムは眉を顰めて言った。するとトゥアルセティスは、困ったように眉尻を下げる。
「あれは……おまえが嫌で泣いたわけじゃない」
「じゃあ、どうして……?」
「おまえが、いつも苦しそうで……わたしの存在がおまえを苦しめているのが、つらかった、から……それに」
「それに……?」
「浅ましい自分が、嫌だった、から……」
トゥアルセティスはそのときはじめて、逃げるように顔を伏せた。
「おまえがわたしを抱くのは、ただ辱めるため……罰を与えるための行為だとわかっているのに、おまえに触れられれば、どうしても、昂ってしまった。そんなはしたない自分の身体がうとましく、はずかしくて、おまえにも、申し訳がなくて……それで」
消え入りそうな声で紡がれる言葉は、ホルセムにとっては、思ってもみないものだった。
トゥアルセティスはホルセムに屈服させられ、その屈辱感から泣き濡れているのだと思っていた。けれども、そうではなかったというのだ。
こく、と、喉が鳴る。
ホルセムはトゥアルセティスの頬に己のてのひらをそっと添わせた。
「あなたに……もう一度、さわっても、いい……? 許してくれなんて言えないけど、でも、俺は……」
隠しきれない慾が滲んで掠れた声で改めて問うと、一瞬、神秘的な〈月の眸〉をホルセムに向けたトゥアルセティスは、恥じらうように目を伏せた。
「……おまえが望んでくれるなら、わたしは……」
何かを言いかけた相手は、けれど、躊躇うようにそこで言葉を切った。それでも、ホルセムを見詰める眸の中に、拒絶の色はない。
そう思った刹那、ホルセムは体中の血潮がカッと沸騰したかのように感じた。
抱き締めていたトゥアルセティスを、そのまま抱え上げる。
真っ直ぐに寝台まで運んで、横たえ、圧し掛かった。愛を自覚してからというもの、ずっと、慾を抑え込んでいた。もう待てないという気持ちだった。
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