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2 約束
慈愛院の一階《祈りの間》の横には、独房がある。鉄格子のついた小さな窓と簡素なベッドがあるだけの部屋だ。
ユルはベッドに腰掛けて、朝の祈りを唱えていた。
枕元にはディミタルのハンカチがある。音楽室から独房へ直行したため、ユルの唯一の持ち物だ。
ヒートは三日で落ち着いた。薬のおかげでぼんやりとした熱っぽさを感じるくらいで済み、真の発情期を知らないままでいられている。
ガチャガチャと鍵を開ける音がした。扉が開き、カサエラが部屋に入ってくる。彼の手には盆があり、パンと水の入ったコップが乗っていた。
「おはよう。ごはん持ってきたよ」
カサエラは一歳下のオメガで、ユルと同時期に慈愛院へ引き取られている。幼馴染と言えるだろう。
腹ぺこでパンを手に取るユルを眺め、カサエラはふふと笑った。
「元気になってよかった。まさか、ユルが薬を飲まないなんてね。アルファと事故って引き取られたい子ならともかく、慈愛院に居たい派でしょ?」
「飲んだんだよ。本当なんだ」
「はいはい。どうせこぼしてダメにしたとかでしょ」
「もう……信じてよ」
「だって、飲んでるならヒートしないでしょ」
そう言われてしまうと反論できない。自分が飲み忘れた気さえしてくる。
黙ってパンを噛んだ。
コップの水を飲み干して朝食を終える。
見守っていたカサエラが立ち上がり、部屋の隅にある麻袋を抱えた。
「じゃあ準備するよ。マムの言いつけだから、ごめんね」
「やらないとカサエラが罰を与えられるんだから、やって」
ユルは自ら部屋の隅に立つ。
カサエラはユルの周りに麻袋の中身──石灰を撒いた。冷たい石畳に白い絨毯が薄く敷かれたようになる。
これは慈愛院で行われている懲罰だ。日没まで石灰に触れてはならないというルールで、一歩も動かずに立ち続けなければならない。守れなければ食事抜き。
「二週間だなんて、マムも意地が悪いよ」
「慈愛院でヒートが起きるなんて何年かぶりの失態なんだって。私が悪いんだから、仕方ない。……それより、壁にもたれられるよう隅に立つといいって、教えてくれてありがとう」
「伊達に立たされてないからね」
「あはっ」
カサエラは慈愛院の顔ぶれの中で一番好奇心の強いオメガだった。出入りの業者との交流は禁止なのに、こっそり話しかけては見つかってマムに叱られている。
だから、誰よりも物知りだ。
「ユルは嘘をつく子じゃない。抑制薬を本当に飲んでたなら、《特別》に当たったのかもね」
「特別?」
「《運命のつがい》だよ」
「なにそれ?」
「身体の相性が完璧ってこと。運命のつがいのフェロモンは本能に強く作用するんだとか」
「甘い香りって……フェロモンだったんだ」
──だからあんなにドキドキしたのかもしれない。でも、身体の相性が完璧だとなんなんだ?
きょとんとしていると、カサエラは苦笑しながら肩をすくめた。
「ユルってほんと、音楽以外なんにも知らないよね。アルファが健やかに生きられるように支えるのがオメガの役割だけど、身体の相性が良いことが大前提なの。まぐわうから」
「まぐわう……」
「ここを使うの」
カサエラはエプロンワンピース越しに自分の股あたりを指差す。爪先で軽く叩くと、貞操帯の金属がカンと音を立てた。
「ヒートのとき、このあたりの奥がぎゅうって切なくなったでしょ? ユルの身体は、アルファに反応してまぐわう準備をしてたんだよ」
「詳しいよね、カサエラって」
「僕は早くここを出たいからね。でもこんな顔じゃいつも引き立て役になるだけ。……だから、情報で勝たなくちゃ」
ユルからすればカサエラは充分に美しいが、確かに貴族たちの好みからはズレている。小麦色の肌に、体格が良く筋肉質。それらがコンプレックスな彼はいつも無理な減量や美白を試みていた。
「ヒートになると、僕らオメガの『孔』は濡れるし、孕みもするんだ。アルファはそこにモノを入れると、気持ち良いんだって」
その語り口は秘密の話をするみたいで、いけないことを聞いてしまったような居心地の悪さを感じる。
「……モノって何?」
「フフフ。とにかく、そうやってアルファは癒しを得る。それがオメガにとっての喜びなんだ。司祭様がそう言ってた」
「司祭様が?」
「うん。だから、清い身体を守って励みなさいって。貞操帯は、アルファにお仕えする前に間違いが起きないようにしてるんだ」
ユルは自身の腰に触れた。太いベルトの感触がある。
貞操帯は排泄や入浴のときだけマムに外してもらう。身体の一部に感じていて、存在に疑問を抱いたことはない。そういう意味のものだと知らなかった。
──ということは、貞操帯ってオメガ以外はしないのかな。
「貴族がお披露目に来るのは、運命のつがいを探すためってこと?」
「違うよ。運命のつがいが見つからないから、運命のつがいごっこをするためにお披露目に来てるの。それが側室探し」
「……? もっとよくわかんなくなった」
カサエラは口を縛った麻袋の上に座って、うんと背筋を伸ばした。ハァとため息をつく。
「あーあ、僕もアルファに生まれたかったな。そうしたら、ここじゃなくて貴族の家にひきとられていたのに」
アルファに生まれると貴族の養子になる。オメガは棄てられて神の子になる。
「あの牙、笛を演奏するとき邪魔じゃないかな?」
「気にするとこそこじゃないって。──っと、もう行かなきゃ。日暮れにまた来るよ。がんばって」
カサエラが盆を回収して出ていく。扉が閉まり、鍵のかかる音がした。
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