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「もっと弾いてほしいです」  ユルがそう願うと、ディミタルは椅子の端に寄り、もう一人分のスペースを作った。しばし悩んで、遠慮がちにちょこんと座る。  始まった即興曲に聞き入りながらハミングを重ねた。 「ピアノだけじゃない。父上には色んなものを禁止されてる。きっと、アルファであることを趣味にしてほしいんだ。父上みたいに。それが男らしいことだから」 「ディミタル様はアルファなんですね」  驚いているユルへ、ディミタルは口を開けて犬歯を見せた。 「アルファなんて、ヘンな歯があるだけさ」 「偉業を成す星の下に生まれた方のことだと司祭様は言っていました」  そんなすばらしい方を癒せるのがオメガである、とも。 「どうかな。父上は偉いけど、別邸のハレムに入り浸りでなんにもカッコよくない。今回も俺のためと言いながら自分がかわいがるオメガを探しに来ただけなんだ。だから俺が抜け出しても夢中で気付きやしない」  ディミタルは怒った顔をしながら、悲しそうな目でうつむく。指は緩やかな演奏を続けていた。  それを見て、なんだかユルも悲しくなる。  ──もし私が、オメガとしてアルファを支えるのなら……ディミタル様がいい。  《支える》という言葉の裏に隠れた意味合いも知らないまま、ユルはディミタルに笑っていてほしいと願う。  なんだか身体が熱い。 「音で見つかるのも時間の問題だろうけれど、ユルはこのあと叱られないか?」 「大丈夫です。歌い手として価値がある私を、司祭様はまだ手放すつもりがないようですから。──こうやって抜け出してくれるほうがありがたいと思っている。だからいつも、そんなに怒りません」  慈愛院には厳しい体罰があるため、ユルも普段は模範的に過ごしている。水曜午後の脱走だけが唯一のわがままだった。 「キミ、小さいのに賢いんだな」 「ちっ……!? 身長で判断しないでくださいっ。同い年くらいでしょう?」 「俺は十九歳だよ」 「む……二個上……。でもっ、十七歳は小さくないです」 「悪かったよ。キミも大人だ。……ユルはオメガなんだよな。話に聞くような感じじゃない。キミは落ち着いているし、話していて楽しい」  ディミタルの知るオメガとは、父の別邸で怠惰に暮らし、アルファを見ればべたべたと触って媚びてくる中身のない男たちのことだった。 「私も、アルファはもっと怖い人だと思っていました」  ユルから見て、ディミタルはお披露目にやってくるどのアルファとも違った。威圧感も、気持ち悪さもない。話していると心地良い。 「……なんだか、甘い匂いがする」  ディミタルが鼻を寄せてきて、恥ずかしさに思わず身体を引いた。 「あ、ありえません。慈愛院の子供は香水禁止ですから」 「でも……いい匂いだ。花みたいな──」  むしろ、良い匂いがするのはディミタルのほうだ。ユルはそう感じていた。  ──あ……れ、なんだろう、この感覚……。  ディミタルの香りに意識を移すと、身体がふわりと軽くなるような感覚があった。同時に、言いようのない疼きが腹の奥でくすぶる。それはどんどん強くはっきりしていき、今までに経験したどの火照りとも違う熱に襲われた。 「汗をかいているな、具合が悪いのか?」  ディミタルのハンカチで額を拭われた瞬間、弾かれるように椅子から転げ落ちた。彼に触れたいと──たまらなく切なくなり、怖くなったのだ。  驚いて立ち上がったディミタルがユルの名を呼ぼうとしたとき、別の大人の声がした。 「ユル!」  人が倒れる音を聞いて只事ではないと思ったのだろう。ばたんと扉が開き、マム院長と大男──服装や顔の雰囲気からディミタルの父親だとすぐにわかる──が部屋に飛び込んでくる。  すぐさま異変に気づいた大人たちは、ユルとディミタルを引き離した。 「こんなところで何をしているんだ、帰るぞ!」  父親に腕を掴まれたディミタルは、手からハンカチを落とす。拾う間もなく頬を打たれ、部屋から連れ出されていく。 「あんな身体の弱そうなオメガと関わるんじゃない。おまえは私の選んだオメガとつがえばいいんだ」 「父上、俺は……! ユル、ユル!」  具合が悪そうにするユルを、ディミタルは最後まで心配していた。二人分の足音が遠のき、聞こえなくなる。  しんと静まる音楽室で、マム院長がユルを抱き起こす。 「マム、ごめんなさい、なんだか体調が変で……」 「この薬を飲みなさい」  丸薬を口の中に押し込まれた。初めて飲む味がする。とても苦い。 「うえぇ……」 「不味くても飲み込むんですよ。あなたのそれはヒートです」  ヒートとはオメガが発情期に入ることだ。ユルも表層的なことは教わって知っている。 「でも、どうして」  ヒートはアルファにも普通の人間にもない習性で、数日から数週間の間はまともに思考することも行動することもできなくなる。  本人だけでなく周囲の人間もフェロモンでおかしくしてしまうため、抑制薬を常用して押さえ込むのが慈愛院での常識だ。  マム院長は残念そうにユルの頬へ触れた。かわいがっていた息子に失望するかのように。 「司祭様のお気に入りだからと甘やかしすぎましたね。脱走に目をつむっていたら、薬を飲むことまでサボるなんて」 「えっ、違います! 薬をサボったりなんて」 「言い訳は無用です。罰として独房で二週間過ごすこと。来なさい」  歩いていくマム院長の背中を見つめていた。  ユルもふらふらな足で立ち上がる。床に落ちたままのハンカチを拾い、ディミタルが座っていたピアノ椅子に振り返った。 「…………」  薬が効いていくらか楽になったが、身体の熱はまだ冷めない。  強くハンカチを握って、マムの足音を追いかけた。

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