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「貴族の屋敷に行けば裕福に暮らせるというけれど、歌わせてもらえるとは限らないなら私は嫌だ」  ユルは一人呟く。  礼拝から帰ってきた後は、お披露目に向けて身支度の時間がある。その間に脱走して二階の音楽室に隠れた。いつものことだ。  窓の外を見れば、一階の回廊を小走りで進むマム院長がいた。医務室やトイレを周ってユルを探しているのだ。 「ごめんなさい、マム院長。お披露目が終わるくらいの時間に戻ります」  窓辺から離れ、ピアノの前にある椅子に座った。ピアノ椅子は大人の高さに調整してあるため、背の低いユルは深く座ると足先が地面から離れる。足をぶらつかせながら、お気に入りの歌を口ずさんだ。  古い木目のピアノを撫でる。本当は楽器と合わせておもいきり歌いたいが、音が届いて見つかってしまうからできない。 「る、るー、らら……」  聖歌のほかにも、街にはさまざまな歌があると聞いている。行事以外での外出を禁じられているため知る機会がない。貴族に選ばれて慈愛院から出れば聴けるかもしれないが、歌う機会を失うくらいなら興味を我慢するほうがマシだった。  ユルは、お披露目で選ばれたオメガがどうなるのか──貴族の側室になることがどういうことなのか──知らない。  お披露目に抵抗するのは、ただただ聖歌隊に残るためだった。  ぎぃ。古びた音楽室の扉が開く音がした。  慌てて部屋の隅に隠れ、棚の影から扉のほうを見る。そこにはマム院長ではなく、同い年くらいの青年が立っていた。  ユルは白いブラウスにベージュのエプロンワンピースを組み合わせた慎ましい修道服を着ている。  対して、部屋に入ってきた青年は絹糸の刺繍が施された濃いブルーのジャケットに長ズボン姿で、明らかに貴族だ。 「誰だ?」  見知らぬ青年が語りかけてくる。  それはこっちのセリフだ、と思いながらユルは棚影から一歩前へと踏み出した。  光の当たるところへ出てきたユルを見て、青年は驚いた顔をする。陽光をきらきらと纏うユルの金の髪や緑の瞳、白い肌──宝石の妖精かと見惚れているのだった。  当のユルは美貌に感心されているなどつゆにも思わず、憂鬱な気持ちで俯いている。慈愛院の関係者としか関わらない生活をしているから、極度の人見知りなのだ。  逃げ出したいのに、唯一の出入り口である扉の前には彼がいる。 「歌っていたのはキミか?」 「……はい」  貴族を怒らせたら慈愛院にもいられなくなるとマムから警告されている。愛想笑いの仕方もわからないユルだが、質問へは素直に答えた。 「名前は? 俺はディミタル」 「ユルです。はじめまして、ディミタル様。お会いできて嬉しいです。それでは失礼します」  一息で挨拶を述べて、足早にディミタルの横を抜けて部屋から出ようとした。  しかし、腕を掴んで引き止められてしまう。 「待ってくれ」  院外の人間に触れられるのは初めてだ。びくりと肩を震わせたが、悲鳴はあげずにいられた。  初めてディミタルの姿を直視する。魔を打ち破るとされる縁起の良い黒は、凛々しい彼の髪のためにあるような色だ。昼の光に負けない艶髪は夜に見ればさぞ魅惑的だろう。青い瞳は深い水面のようで、見つめていると吸い込まれそうになる。  ユルは彼のことを本に登場する騎士のようだと思った。この人の前で悪い行いをすれば見抜かれ、善き行いをすれば頼もしくあってくれそうだ、と。  不思議と、お披露目で会う貴族たちほど恐ろしく思わない。 「朝、教会で歌ってたよな? いつもなら退屈で永遠に感じる礼拝が一瞬だった。キミの……キミたちの歌がとても心地良くて。今の歌も良かった。声に導かれて来たんだ。少し話さないか?」 「ですが……」  慈愛院の子供はむやみに来訪者と会話してはならない。そういうルールがある。 「お願いだ。お披露目の部屋に戻りたくないんだよ。あそこは香水と料理の匂いが混ざって臭い。耐えられない」  ディミタルは父親の目を盗み、お披露目から逃げてきた。アルファでありながら色事に興味を示さない息子を心配した父にむりやり連れてこられたものの、オメガを見ても欲望を刺激されることはなく、ひたすらあくびを噛み締めていた。  切実そうに訴えるディミタルを見て、ユルはくすりと微笑む。望まない見合いに駆り出される気持ちはよくわかるからだ。

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