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一ヶ月ほどして、慈愛院の門扉が開いた。
「ミリウッド公爵家の馬車だ。カサエラの迎えがきた!」
馬のいななきを聞き、オメガたちがわいわいと部屋から飛び出していく。友の見送りをするためだ。
ユルは相部屋に一人残り、ベッドの縁に座ったまま窓を見ていた。切り取られた空の爽やかな青さとは裏腹に、気持ちは沈んでいる。
廊下を歩くオメガたちのくすくす笑う声が聞こえた。
「カサエラ、自分からキスしたんだって」
「元々決まっていた子から取って代われるキスって、どんな?」
「魔法のキスなんでしょ。郵便屋あたりから教わったんじゃない? みんな噂してる……」
他のオメガからアルファを略奪したカサエラは、退屈な慈愛院で刺激的な存在になった。噂はセンセーショナルに飾られ、どこまでが本当か確かめもせず語られ続けている。
そのせいで、ユルも貞淑さを求められるうちは知る必要のない知識をいくらか蓄えた。
──カサエラやディミタルのそんなこと、考えたくもない。
ユルは耳を塞いで立ち上がり、部屋を出た。みんなとは違う方向、音楽室へと向かう。
「よくあんな怖そうな人に媚びたよね。息子のほうなら優しそうだったのに……」
噂話の続きを、ユルが聞くことはなかった。
渡り廊下からカサエラとオメガたちの笑い声が聞こえた。
貴族が持参した花嫁衣装を着せるのは若いオメガたちの仕事だ。着替えを終えてみんなで玄関に向かっているところのようだ。服の出来栄えについて感想を語り合い、はしゃいでいる。
彼らが向かう先にディミタルがいるのだろう。
「ディミタル様、元気かな……」
ふらりと引き寄せられてしまう。
彼の姿を一目見られたら。もしかしたら、彼も自分を探しているかもしれない。だって、また会いに来ると言ってくれていたのだから。──祈るような気持ちが重い足を突き動かしていた。
建物を出ると淡い風がエプロンワンピースの裾を揺らした。
前庭の先、門扉のほうが賑やかだ。木陰からそっと覗き見る。
見送りのオメガたちが別れの挨拶を済ませて建物へ引き返すところだった。
着飾ったカサエラと、以前出会ったときと同じような格好をしたディミタルが馬車の前に立っている。
──カサエラ、とっても綺麗だ。
完成された外見の美はもちろんのこと、喜びが弾けるような笑顔には誰もが胸を熱くするだろう。
二人は馬車に乗り込むでもなく、立ち話をしているようだった。
風向きのおかげで、ユルのもとまで声が届く。
「ユルも連れていってよ。できるでしょう、ディミタル様なら。だってあの子は……」
自分の名前が聞こえてドキリとする。
ディミタルがどう返事をするのか、知るのが怖いと思いながらも聞き耳を立ててしまう。
「それはできない。ユルはキミと違う。わかるだろう、カサエラ」
カサエラは眉根を下げた。物哀しく微笑み、それ以上なにも言わない。
ディミタルが馬車の扉を開けると、カサエラは静かに乗り込んでいった。
ユルは呆然と立ち尽くす。頭の中でディミタルの言葉が繰り返されて止まらない。
それはできない──カサエラみたいに、たくましく、賢く、魅力的じゃないから?
その場に居ることが耐えられず、弾かれるように道を引き返した。
馬車の中の二人が安全に着席しているのを見届けたディミタルは、外側から扉を閉めた。立ち止まり、慈愛院の建物を見上げる。視線は二階の音楽室の窓辺をさまよっていた。まるで誰かの影を探すように。
目的の人がいないことを認めると、諦めたように踵を返す。そばで控えていた愛馬の背に跨るのだった。
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