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音楽室に駆け込み、部屋の隅──棚の影にうずくまる。
「オメガだからこんなに苦しい思いをするの? こんなことならオメガに生まれたくなかった」
ぎぃ。扉が開く。
いつかとよく似たシチュエーションだと思った。無意識に想い人の姿を期待して顔を上げる。
だが、部屋に入ってきたのはマム院長だった。優しい微笑みを浮かべて、ユルの隣にしゃがむ。
「花嫁姿のカサエラ、綺麗でしたね。あなたもいつかはああやって送り出されるのですよ」
返事をする心の余裕はなかった。膝を抱えたままうつむいて、殻に閉じこもる。
涙がこぼれた。自分が何に傷付いているのかもわからないまま。
大きな手がふわりと髪に添えられた。親代わりのマム院長に頭を撫でられると少しだけ気持ちが落ち着く。
だが、彼の言葉はユルの心を締め付けるばかりだった。
「嫁げば初恋など忘れます」
「初恋……」
「ユル、オメガの幸せは主人に仕えて子供を育てることです」
飛び交う噂を聞くうちに、側室がどんな存在なのか、カサエラの言う『運命のつがいごっこ』によってオメガの身体に何が起きるのかがわかってきた。それでもユルにはまだイメージが難しい。それがオメガの幸せだと言われると、なおさら。
肩に手を添えられた。顔を上げると、マム院長の真剣な目にじっと見つめられる。
「今から話すことは、とても大事なことです。私とパード司祭様以外に口外してはなりませんよ。……ユル、あなたはもうお披露目に出る必要はありません」
びくりと身体がこわばる。理由もなくお披露目が免除されるなんてありえない。
「それって」
「ええ、あなたに会いたがっている人がいます。王太子殿下です」
「……殿下が?」
王子とは面識があるようでない。お忍びで教会に来た彼の前で歌ったことがあるというだけで、言葉を交わしたことはなく、どんな人かはまったく知らないのだ。
──どうして私に。
「ただの貴族の側室になるのとは話が違う。あなたにとって今後ないほどの幸運ですよ」
マム院長は本心からユルのためを思って言っている。ユルは理解しつつも目を合わせられずにいた。
「っ……でも、私はオメガの幸せなんていりません。ここで歌っていたいだけなのです」
ユルのかたくなな態度を見てマム院長は顔をしかめる。王太子との見合い日にお披露目のときのような脱走をされるわけにはいかないからだ。誓いに等しい「はい」という返事以外必要ない。
「仕方ありません」
ユルが嫌な予感を感じるより早く、マム院長は立ち上がった。ユルの腕を掴み、力任せに引っ張る。
「い、痛いっ、マム院長っ……!?」
嫌がっても離してもらえず、肩が外れそうだった。引きずられるように音楽室から連れ出され、階段を降りていく。
一階の祈りの部屋を抜けて小さな入り口からさらに階段を降りれば地下に着いた。窓がなく暗いため、怪我をしないようオメガは出入り禁止になっている場所だ。
暗がりに目が慣れず、立ちすくんでいるとがちゃんと手元から音がした。冷たい感触がする。
唐突に視界が明るくなった。マムが燭台の蝋燭を灯したのだ。
「……え」
ユルは自分の両手に手枷がはめられていることに気付いた。手枷からは鎖が伸び、壁と繋げられている。動くと鎖がじゃらりと音を立てた。
「いつまでも子供の趣味にこだわっていては大人になれない」
ふと、ユルは甘ったるい匂いに気付いた。蝋燭の蝋が火に溶けるほどその匂いは強くなる。
片手で燭台を持つマム院長は、もう片手のハンカチで自身の口や鼻を覆っていた。そして、燭台をユルの手が届かない位置に置く。
「この蝋燭はヒートを誘発する香が混ぜ込まれています。抑制薬を飲んでいるオメガ用にかなり強い調合がされているので、よく効きますよ」
「マ、マム……」
「アルファのいないヒートがどれほどつらいか……歌より必要なものを身体で知りなさい。ここを出るころには、早く北の棟へ行きたいと思うでしょう。いずれはあなたも私に感謝しますよ、ユル」
マム院長が立ち去り、扉が閉ざされる。
薄暗い空間には、どこかの通気穴から風が抜ける気味悪い音がするばかりだった。
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