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5 【2】
彼は定期的にユルの様子を見に来て、死なないように水を飲ませていく。
「ユルも意地を張るからだぜ。かわいそうに。こんなにしてまで出荷したいなんて、よほどの寄付金が積まれたんだろうな。一体誰に売られるんだ?」
イザンはユルを引き取ろうとしている人間が何者かを知らない。
ふと、蝋燭の甘い香りの他に、かすかに違うにおいがした。イザンからだ。紙を燃やしたような、焦げた臭い。
彼の袖に黒い煤がついている。
「何か燃えたの?」
「いらない手紙を燃やしただけだ。俺が雑用を任されるのはいつものことだろ?」
裾がはだけて露わになっているユルの腿に、イザンの手が触れる。指先が脚の付け根に向かい、貞操帯の縁を撫でた。
「な……に……?」
「すっげぇ濡れてる。これ、汗じゃないぜ、自覚してるか?」
「……!」
ユルは目を見開いて羞恥に震える。腿を濡らす汗だと思っていたものは、知識として知る発情の印──愛液だった。
発情による生理現象とわかっていても、イザンの嘲笑うような目で見つめられると自分がはしたないことをしている気分になって一層苦しくなる。
力の入らない身体を抱き寄せられ、髪の匂いを嗅がれた。
「俺はアルファじゃないから、おまえの発情の匂いがわからないのが残念だ。ま、発情してることくらい見りゃわかるけどな。──逃してほしいか?」
耳元で囁かれた言葉を理解するまで、ユルは数秒を要した。熱で朦朧とする頭が、驚きのあまり少しだけはっきりする。
「なに、言ってるの。マム院長が許さないよ」
「あんな老いぼれ、俺は怖くない。一緒に逃げてくれるなら、手枷を外してやってもいい」
イザンがそんなふうに言い出す理由がユルにはわからなかった。
オメガのフェロモンの匂いがわからないと言っているくらいだから、ヒートに当てられているわけでもない。
小間使いとして長く働いているイザンとは数年の付き合いだが、必要以上に関わったことはない。イザンはマムから、オメガと目を合わせるな、会話するなと命じられている。オメガたちも外部の人間に関わらないよう言いつけられていて、ルールを破るオメガはともかく、ユルはイザンを大して知らない。
「貴族のための鳥籠の天使、その中でもおまえは特別に美しい。俺の女房がおまえみたいなのだったらどんなに自慢だろう」
腰をいやらしく触られて、ぞわりと肌が粟立つ。期待と悪寒が混ざり合った感覚に目眩がする。
「見かけるたび、自分に金がないのを恨んだよ。でもな、金はないけどオメガを満足させるのには自信があるんだ。アルファに負けないくらいに」
発情したオメガを鎮めるのはアルファの役割だが、それ以外でも時間をかければアルファの代わりになれる。
イザンの指先が貞操帯の表面を撫で、鍵穴を爪先で掻いた。
彼がささやく。些細な鍵を開けるくらいのイタズラは子供のころに覚えたと。
「貴族に貰われたくない理由はわかるぜ。暮らしは良くなるが、側室なんてみじめだからな。愛されもしないのに飼われてさ。俺にしろよ、唯一の女房としてかわいがってやる」
「……出てって」
「そう言うな。俺の愛が本物であることを証明してやるから」
押し倒され、背中を床に打つ。
イザンの物言いは真剣に口説くそれではなく、手に入る寸前の景品への勝利宣言だった。
ユルは手枷のついた両腕でイザンを押し除けようと必死に暴れた。
「出ていって! 早く! じゃなきゃ舌を噛んで死んでやる!」
偶然、拳がイザンの頬を打つ。
イザンはユルを押さえつけようとするものの、予想より激しく抵抗されて萎えたようだった。一旦は諦めた様子で起き上がる。
「ヒートのくせに頑固だな。まあいいさ。後悔するのはおまえなんだから」
ランタンを回収したイザンは地下牢から出ていく。
「……うう」
ユルは悔しさで奥歯を噛み締める。
もしイザンに力尽くで身体を暴かれていたら、自分がどう壊れるか想像もしたくなかった。
イザン相手でもこんなに揺らいでしまうのだから、今ここへアルファが来たなら、たとえ見知らぬ男であろうと我を忘れてその足に縋り、欲望の炎に焼かれる身体を差し出すだろう。
発情したオメガの快楽を知れば、自分が自分でないみたいに卑しく肉欲を貪り、マム院長の行った通りに目を覚まして感謝するかもしれない。
疼いて仕方がない身体を抱きしめ、うずくまる。
──そんなことが幸せなら、幸せなんかいらない。
歌が聞こえた。
鮮やかに光を湛えるステンドグラスの風景が見える。
そこにいるのは自分だ。聖歌隊の一員として、幸せに歌う自分。
耳鳴りがする。
声が、姿が、遠退いていく。
消えてしまう。
悩みを吹き飛ばしてくれる荘厳なオルガンの音も、刹那の幸福を高らかに歌う声も。
歌に夢中でいられた無垢な心も。
「ああぁ……」
暗がりに一匹のオメガがいる。
それ以外、何もない。
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