18 / 29

7 娼館ウィアークテ【1】

 暗闇の中、どこからともなくピアノの調べが聞こえた。耳馴染みの良い音色はやすらかにユルを包みこんでいく。  彼の指が誘う音階のどれもが優しく、愛に満ちていた。  あの日、たった数分でも音を分かち合い、共に歌った喜びは、どんなに長い贅沢よりも尊く忘れられないものだ。 『そんなわずかな記憶だけで、何も彼のことを知らないのに……楽園(キコニア)を捨てるなんて』  マム院長の声が聞こえる。  ──確かに私は、ディミタル様のことをほとんど知らない。  ──だからこそ、私は私のままで、あの人はあの人のままで、ただ、また会いたい。……それだけなのです。それではダメなのですか、マム。 『どちらにせよ、あなたはもう帰れない。あなたのままではいられないのです。ユル』  ピアノの音が止んだ。  振り返ると、音楽室のピアノと、椅子に座っているディミタルの後ろ姿が見えた。あのときの、十九歳のディミタルだ。  ディミタルの隣に、十七歳のユルが歩み寄って座った。  二人仲良く肩を突き合わせて笑っている。  ──あ……。  二人の後ろ姿に向かって手を伸ばす。  すると、二人がこちらを振り返った。  十七歳のユルは不思議そうに目をぱちくりさせている。 『あのオメガは誰?』  十九歳のディミタルもじっとこちらを見つめていた。 『さぁ……知らない』    ■ ■ ■  夢から目覚めると、ユルは知らない部屋のベッドで横たわっていた。ブラウス一枚のほとんど裸の姿のまま、涙で頬を濡らしている。  自分の手が何も握っていないことに気付き、飛び起きて周囲を見た。  エプロンワンピースをそばのカゴの中に見つける。ポケットの中にハンカチがあることを確かめ、ようやく安心するのだった。  ふぅと息を吐いて顔を上げる。自分の状況を把握するべく部屋を観察した。  窓にはカーテンがかかり、外の様子は見えない。茜色の日差しが透けていることから時刻は夕方だろう。  部屋は狭く、必要最低限の家具がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。ベッドに化粧台、背の低い棚、丸椅子とテーブル、コート掛け。壁紙も床も年季が入っていてぼろぼろ。ベッドも使い古されて寝心地が悪く、湿気った臭いがする。  慈愛院とは大違いの、雑然としていて不衛生な場所だ。 「起きたか」  部屋の扉が開いてイザンが現れる。  ユルはとっさにワンピースで身体を隠した。  警戒心をむき出しにされてもイザンは薄ら笑いを崩さない。無遠慮に近づいてきて、涙の粒がついたままのユルの目尻を指先で拭った。捕まえた小鳥の反応を楽しんでいる。 「慈愛院じゃ、俺とおまえが駆け落ちしたことになってるってよ」 「……!」 「のこのこ帰っても中には入れてもらえないだろうな。手垢がついたオメガを引き取りたいと思う貴族はいないんだ。ここで生きていくしかないぜ」 「どの道、帰るつもりはない……。でも、イザン、あなたと生きていくつもりもない」 「つれねぇな。もう乱暴しねぇから、仲良くしようぜ」  そう口では言っているが、当たり前のようにユルを押し倒す。  ベッドに背中をつけたユルは、精一杯の虚勢でイザンを睨んだ。いつかに宣言したように、そのときは舌を噛むつもりだ。 「その目、覚悟が決まってんのは立派だがな、まともに働いたこともないおまえが一人で街に出てどう生活するつもりなんだ?」  ぐ、と奥歯を噛む。衝動的な脱走で無計画だったのは事実だ。どうしたら職を得られるのかも知らない。 「俺に任せろよ。ここでの生き方を教えてやる。それに──」  イザンがポケットから取り出した紙包は、見慣れたオメガの抑制薬の入れ物だ。 「これがなくて困るのはおまえだろ?」  ハッとする。今まで当たり前のように支給されていたが、これからは自分で調達しなければならないのだ。  定期的に飲まなければ……地下牢での経験を思い出して背筋が寒くなる。  だが、ユルも覚悟なく脱走したわけではない。 「働いて賃金を得られれば、薬師から買えるという知識くらいはある。自分でなんとか……」 「抑制薬がいくらか知らないからそんなことを言えるんだぜ。いいもん見せてやる」  起き上がったイザンにエプロンワンピースを投げて寄越された。 「何してんだ。早く着てついてこい。それともこのまま襲われたかったか?」 「っ、すぐ着るから」  頭からワンピースを被り、ボタンを留めて裾の皺を整えた。  部屋を出るイザンについていく。  廊下も同様に古い。歩くたびに木の床がギシギシと鳴った。 「ここはダチがやってる宿屋だ。一階が酒場で、二階が宿。俺たちは二階にいるわけだが……聞こえてるよな?」  しばらく返事に困るが、結局頷いた。  狭い廊下の両側には規則正しく扉が並び、どれからも男の嬌声が漏れ聞こえている。部屋にいたときも、薄い壁の向こうからかすかに聞こえていたが、気付かないふりをしていた。性知識の少ないユルでも、ただならぬことをしていると想像がつくからだ。 「親の都合で棄児院に引き取られなかったり、引き取られたが脱走するオメガってのはそう珍しくないんだぜ」 「この声はどれも……オメガのもの?」  ここは、宿屋とは名ばかりの娼館なのだ。 聞こえている声は、客に身体を売る男娼たちのもの。  ユルのようなオメガの成れ果てを、イザンは教えようとしている。 「オメガは普通の仕事に就けない。抑制薬が高くて買えず、頻繁にヒートが来るから誰も雇いたがらないんだ。だからこうやって、男娼として身体を売るしかない」

ともだちにシェアしよう!