39 / 48

16 【3】

 腹を満たした後は、夜の庭を散歩した。  季節の花々が月明かりに照らされ、天上の楽園のようだ。 「花の香りがする……」  横を向けば草丈の高い花と目が合う。花弁に触れれば柔らかい。  ふわりと肩にぬくもりを感じた。夜風で身体が冷えないように、ディミタルが上着を貸してくれたのだ。花の香りに彼の匂いがほんのりと混ざって、くすぐったい気持ちになる。 「来てくれ」  ディミタルのしっかりした手に導かれた先はテーブルと椅子があるガゼボだった。 「俺のお気に入りの場所なんだ」  庭の奥まった場所にあるため、静かで落ち着ける。  椅子に座れば、庭を一望できた。 「小さなころは嫌なことがあるたび逃げてきたものだ」 「ここから草花を眺めていたのですか。なんて品のあるお子様……」 「いや、テーブルの下にちぢこまって、地面を這う蟻とかを見ていた。追いかけて巣穴をいじくったり。泥団子を作って並べたり」 「とても普通の子供」  ユルはディミタルの幼少期を想像してふふふと笑う。  ディミタルは照れくさそうに咳払いをした。  穏やかな風が吹き抜けると、木々がさわさわと会話する。 「月明かりに草木の露がきらめいていて……夜がこんなに綺麗だったなんて知りませんでした」  ユルにとって夜は怖いものだった。夜は危ない、子供は夜に消えるのだ、そう育てられた。闇の向こうで恐ろしいものが息を潜めて、こちらを狙っているような想像をする。大人になってもそれは変わらず、恐ろしいもののイメージが野犬や野蛮な男に変わっただけだ。  それが今、まったく違う印象になった。  ──ディミタル様といると、世界の見え方が変わる。色鮮やかに、優しいものへ……。 「昼間なら、もっと遠くまで見えて壮観な景色なんでしょうね。また来たいです」 「ユルもこの場所を気に入ってくれて嬉しい。こんなふうに、これからもキミを俺の好きな場所に連れていきたい。俺のことを知ってほしい」 「どこへでも。ディミタル様のことならなんでも知りたいです」 「俺はユルが好きだ」 「そ、それは……知っています」  不意打ちの告白に、ユルはうろたえながらディミタルを見上げた。  青い瞳に自分が映っている。ユルはなんだか驚いて、涙ぐんでしまう。  毎朝、鏡越しに見る自分は哀れなオメガでしかなかった。彼の青い瞳越しの自分は、ユルというひとりの祝福された人間に見える。──彼がこんなに愛おしい目で私を見つめてくれるから。  ディミタルが立ち上がった。 「見せたい部屋がある」  屋敷に戻って着いた先は音楽室だった。ピアノを筆頭に楽器が並び、楽譜が整然と保管されている。 「長らく近寄らなかった部屋だが、最近掃除をしてな」  子供のディミタルは、厳しい父に入室を禁じられた。父の死後も、ユルを失った悲しみから部屋の存在を思い出さずにいた。噴水広場でユルと再開したあの日から、扉の鍵を開けた。 「調律もしたが、ピアノにまだ一度も触っていない。音を聞いたら、ユルと遊んだ日を思い出して寂しくなるだけだと思って」  ディミタルは木製の蓋を開け、指先で鍵盤を押した。ぽん、と軽快な音が鳴る。 「……聞かせてくださいますか?」  ユルがそばの椅子に座って微笑むと、嬉しそうな笑みが返ってきた。  ディミタルはピアノ椅子に腰掛ける。初めはぎこちなかった指運びもすぐに軽やかになり、曲が紡がれていく。 「久しぶりでも弾けるものだな。幸せが俺の指を動かしている」  やがて音は懐かしい曲に変わって、ユルは目を輝かせる。椅子から立ち上がって、ディミタルの隣へ行く。  ピアノの音色に歌声が重なった。  ──聖歌を歌う日がまた来るなんて。なんだか照れくさい。でも……楽しい。  孤独で凍っていた喉が溶けるようだった。あの頃の歌を愛してやまなかったわくわくが蘇ってくる。  一曲が終わり、しんと静けさが訪れた。  二人は見つめ合う。生き別れた魂の片割れとの再会を噛み締めて、引き寄せられるようにキスをした。  いつかのように、ピアノ椅子へ二人で座る。ユルが甘えるようにディミタルの肩へ頭を乗せると、髪を撫でられた。 「──俺のことを知ってほしいと言ったが、同じくらい、俺はユルのことを知りたい。好きなことも、そうじゃないことも、全部」 「……私、実は牛乳があまり好きではなくて。おなかが痛くなるから」 「そうだったのか」 「でも、クリームは甘くて好きです。それから、お掃除は好きなんですが、整頓はあんまり得意じゃなくて」 「部屋の本の積み方がそんな感じだったな」  言葉があふれて止まらなかった。今まで伝えられなかった想いのすべてを受け止めてほしい。ディミタルがユルを想うように、ユルも負けないくらいディミタルを想っているのだから。 「子供のころからずっと、歌うことが好きで、ディミタル様が大好きで」 「ああ」 「いま、とっても幸せを感じています」 「……俺もだ!」  立ち上がったディミタルに、勢いよく抱き上げられた。ユルの重さなどないみたいに、喜びのままくるくると回る。 「わあっ、ふふふっ」  二人して子供のように笑う。

ともだちにシェアしよう!