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16 【3】
腹を満たした後は、夜の庭を散歩した。
季節の花々が月明かりに照らされ、天上の楽園のようだ。
「花の香りがする……」
横を向けば草丈の高い花と目が合う。花弁に触れれば柔らかい。
ふわりと肩にぬくもりを感じた。夜風で身体が冷えないように、ディミタルが上着を貸してくれたのだ。花の香りに彼の匂いがほんのりと混ざって、くすぐったい気持ちになる。
「来てくれ」
ディミタルのしっかりした手に導かれた先はテーブルと椅子があるガゼボだった。
「俺のお気に入りの場所なんだ」
庭の奥まった場所にあるため、静かで落ち着ける。
椅子に座れば、庭を一望できた。
「小さなころは嫌なことがあるたび逃げてきたものだ」
「ここから草花を眺めていたのですか。なんて品のあるお子様……」
「いや、テーブルの下にちぢこまって、地面を這う蟻とかを見ていた。追いかけて巣穴をいじくったり。泥団子を作って並べたり」
「とても普通の子供」
ユルはディミタルの幼少期を想像してふふふと笑う。
ディミタルは照れくさそうに咳払いをした。
穏やかな風が吹き抜けると、木々がさわさわと会話する。
「月明かりに草木の露がきらめいていて……夜がこんなに綺麗だったなんて知りませんでした」
ユルにとって夜は怖いものだった。夜は危ない、子供は夜に消えるのだ、そう育てられた。闇の向こうで恐ろしいものが息を潜めて、こちらを狙っているような想像をする。大人になってもそれは変わらず、恐ろしいもののイメージが野犬や野蛮な男に変わっただけだ。
それが今、まったく違う印象になった。
──ディミタル様といると、世界の見え方が変わる。色鮮やかに、優しいものへ……。
「昼間なら、もっと遠くまで見えて壮観な景色なんでしょうね。また来たいです」
「ユルもこの場所を気に入ってくれて嬉しい。こんなふうに、これからもキミを俺の好きな場所に連れていきたい。俺のことを知ってほしい」
「どこへでも。ディミタル様のことならなんでも知りたいです」
「俺はユルが好きだ」
「そ、それは……知っています」
不意打ちの告白に、ユルはうろたえながらディミタルを見上げた。
青い瞳に自分が映っている。ユルはなんだか驚いて、涙ぐんでしまう。
毎朝、鏡越しに見る自分は哀れなオメガでしかなかった。彼の青い瞳越しの自分は、ユルというひとりの祝福された人間に見える。──彼がこんなに愛おしい目で私を見つめてくれるから。
ディミタルが立ち上がった。
「見せたい部屋がある」
屋敷に戻って着いた先は音楽室だった。ピアノを筆頭に楽器が並び、楽譜が整然と保管されている。
「長らく近寄らなかった部屋だが、最近掃除をしてな」
子供のディミタルは、厳しい父に入室を禁じられた。父の死後も、ユルを失った悲しみから部屋の存在を思い出さずにいた。噴水広場でユルと再開したあの日から、扉の鍵を開けた。
「調律もしたが、ピアノにまだ一度も触っていない。音を聞いたら、ユルと遊んだ日を思い出して寂しくなるだけだと思って」
ディミタルは木製の蓋を開け、指先で鍵盤を押した。ぽん、と軽快な音が鳴る。
「……聞かせてくださいますか?」
ユルがそばの椅子に座って微笑むと、嬉しそうな笑みが返ってきた。
ディミタルはピアノ椅子に腰掛ける。初めはぎこちなかった指運びもすぐに軽やかになり、曲が紡がれていく。
「久しぶりでも弾けるものだな。幸せが俺の指を動かしている」
やがて音は懐かしい曲に変わって、ユルは目を輝かせる。椅子から立ち上がって、ディミタルの隣へ行く。
ピアノの音色に歌声が重なった。
──聖歌を歌う日がまた来るなんて。なんだか照れくさい。でも……楽しい。
孤独で凍っていた喉が溶けるようだった。あの頃の歌を愛してやまなかったわくわくが蘇ってくる。
一曲が終わり、しんと静けさが訪れた。
二人は見つめ合う。生き別れた魂の片割れとの再会を噛み締めて、引き寄せられるようにキスをした。
いつかのように、ピアノ椅子へ二人で座る。ユルが甘えるようにディミタルの肩へ頭を乗せると、髪を撫でられた。
「──俺のことを知ってほしいと言ったが、同じくらい、俺はユルのことを知りたい。好きなことも、そうじゃないことも、全部」
「……私、実は牛乳があまり好きではなくて。おなかが痛くなるから」
「そうだったのか」
「でも、クリームは甘くて好きです。それから、お掃除は好きなんですが、整頓はあんまり得意じゃなくて」
「部屋の本の積み方がそんな感じだったな」
言葉があふれて止まらなかった。今まで伝えられなかった想いのすべてを受け止めてほしい。ディミタルがユルを想うように、ユルも負けないくらいディミタルを想っているのだから。
「子供のころからずっと、歌うことが好きで、ディミタル様が大好きで」
「ああ」
「いま、とっても幸せを感じています」
「……俺もだ!」
立ち上がったディミタルに、勢いよく抱き上げられた。ユルの重さなどないみたいに、喜びのままくるくると回る。
「わあっ、ふふふっ」
二人して子供のように笑う。
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