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第六話 「ありがとう」の漢字
秋山の部屋は、昭和の趣きがある古い建物の5階にあった。その一室はお世辞にも今風とは言えないが、丁寧に暮らしている人間の温かみが感じられた。
「秋山さん、これどこに置けばいいですか?」
玄関で長谷川が秋山に声をかける。
秋山はバタバタと長谷川を先導しながら、部屋の奥へと進んで行った。
「んーとね、こっち!」
秋山が振り向いて指を指す。
秋山がそのままベランダのアルミサッシをガラガラと開けると、部屋の空気が動き、涼しい風が流れ込んできた。
薄手のカーテンが風を受けて膨らみ、秋山のオーバーサイズのシャツの袖口がゆらゆらと揺れた。細い手首がのぞいて、長谷川の視線がそこに吸い寄せられる。
長谷川は大きなバッグを指示された場所に静かに下ろし、額の汗を手で拭いながら部屋を見渡す。
「風が通る良い間取りですね」
「でしょ? 古いけど、そこだけは気に入ってるんだよね」
「ありがとう。シーツ、5階まで運んでくれて本当に助かっちゃった。長谷川さんがいてくれて良かったよ。」
そう言って、秋山は柔らかく笑った。
「お茶淹れるね。あ、そこ適当に座ってて。……やっぱり冷たいのがいいよね。麦茶かアイスコーヒー、どっちにする?」
促されるままにローテーブルの前に腰掛ける長谷川。
「それじゃあ、アイスコーヒーで………って、秋山さん、そんな簡単にお礼言っていいんですか?!」
不意打ちで投げかけられた「いてくれて良かった」という言葉の破壊力に、少し慌てたような声を上げる。
「え?別に、長谷川さんを喜ばせようとして言ってる訳じゃないよ?」
秋山は食器棚から、耐熱ガラスのグラスを取り出しながら、キョトンとした顔で振り返った。
「ただね、人にして貰ったことを、当たり前にしたくないだけなんだ。そうだ、長谷川さん、『ありがとう』って漢字でどう書くか知ってる? 有るのが難しいって書いて、『有り難い』っていうんだよ」
「有り難い………」
「そう。めったにない、奇跡みたいなこと。僕はね、誰かが自分のために『時間』を使ってくれることが、一番有り難いことだと思うんだ。その対極にあるのが『当たり前』。だから、ちゃんとありがとうって言いたいんだ」
コーヒーの粉をスプーンですくいながら、秋山は淡々と、けれど宝物について語るような優しい声で言った。
(俺が使った時間を、秋山さんはそんな風に思ってくれるのか………)
長谷川は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
初めて入る秋山の部屋。
まず目を引くのは、何といっても壁一面を埋め尽くす巨大な本棚だった。長谷川は圧倒されながらも、それとなく背表紙のタイトルに視線を走らせる。
(『森のバロック』『陰翳礼讃』『自然現象と心の構造』『楽園のカンヴァス』
南方熊楠、谷崎潤一郎、アインシュタイン、河合隼雄、絵画ミステリー………縦横無尽に美と真理を探し求める、知的なロマンチストみたいだ)
「秋山さん、国語辞典が何冊もあるんですけど……」
「あ、それは‥‥ちょっとずつ解説が違うから、読み比べたりしてて……」
キッチンから、秋山の少しきまり悪そうな声が返ってきた。なぜか耳のあたりがほんのり赤い。
「はぁ」
長谷川は曖昧に相づちを打った。辞書を読み比べる人間を、長谷川は初めて見た
「この『季語事典』っていうのもありますけど、秋山さん、短歌や俳句を詠むんですか?」
「詠まないよ」
とそっけなく短い答えを返す秋山に、長谷川は頭の上に疑問符を浮かべて困惑した。詠まないのに、なぜ何冊も季語の辞書があるのだろうか。
「ただ……綺麗な言葉や、昔の人の感性に触れるのが好きなだけ」 ポツリと付け加えられた照れくさそうな呟きに、長谷川の唇が自然と緩む。
「それにしても、この本棚、すごいですね。」
長谷川が感心してそう言うと、秋山が嬉しそうに話し出した。
「そうなんだ!壁一面の本棚、ずうっと長年の夢だったんだ!思い切って作って良かったよ!古い建物だからさ、本の重さで床が抜けないように厚い補強板を敷くのが大変でね。骨が折れたよ。自分で寸法を測って、ホームセンターでその通りに木材をカットして貰って、ここで頑張ってネジで留めたんだ!」
さっきまでの少し気恥ずかしそうな様子はどこへやら、秋山は目をキラキラと輝かせて、自慢のDIY本棚について身を乗り出して語る。その無邪気な姿が長谷川の視線を捕らえて離さない。
電気ケトルのお湯が沸くと、秋山はインスタントコーヒーの粉が入った耐熱グラスに、ほんの少しだけお湯を注いだ。そして冷蔵庫の中から取り出した透明な氷でグラスの中をいっぱいに満たした。
「はい、どうぞ」
カラカラとティースプーンでかき回してから、長谷川の前にアイスコーヒーの器をそっと置いた。
「ありがとうございます、秋山さん」
長谷川は秋山に目配せをしながら、今度は自分から「有り難う」の気持ちを込めてお礼を言った。
冷んやりとしたグラスに綺麗な右手を沿わせて、長谷川はゴクリと喉を鳴らして一口目を飲む。
「よく冷えていて、美味しいです」
秋山が花が綻ぶようにふわっと笑った。
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