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第九話 お友だちを食べないでください
「良かった。卵の賞味期限、切れてなかった」
秋山がホッと安堵の声を上げると、さっきまで大人しく椅子に座って待っていた長谷川が、すくっと立ち上がって狭い調理場にやって来た。
「今、めちゃくちゃ不穏なセリフが聞こえてきたんですけど」
「だから、賞味期限切れじゃ、なかったんだってば」
眉を八の字にして怯えてみせる年下の上品な顔に、秋山は必死に弁明をする。
手際良く料理を始める秋山の背中にまとわり付くようにして、紗生が尋ねる。
「ねぇ、秋山さんの下の名前、教えてください。秋山さんだけ俺の名前を知ってるの、ズルいです」
「紗生くん、別にズルくはないよ。………ほら、カタカナでトオルだよ」
「どうして漢字じゃ無いんですか?」
紗生が不思議そうに首を傾げる。
「画数が少なくて書きやすいから、とかじゃない? 親に理由を聞いたことはないけど、小さい頃からこれが当たり前だったからさ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ」
さも当然といった様子で応じる秋山は、少し申し訳なさそうにフライパンを握り直した。
「チャーハンくらいしか、出来なくてゴメンね。せめて、目玉焼き付けるよ」
秋山は2つのフライパンをコンロの上に並べ、チャーハンと目玉焼きを同時に調理し始めた。
「そうだ、せっかくのお客さんだから、活躍の機会がなかった再生ネギを使っちゃおう。
ずっと水に挿して育ててたら、なんだか愛着が湧いてきて、友だちみたいになっちゃってたんだよね」
そう言って、秋山は調理バサミを手に取り、窓辺のネギを容赦なくチョキチョキと収穫していく。
「わぁぁぁぁぁ!トオルさん、お友だちを食べちゃわないでください!」
「おいおい、大袈裟だな!」
本気で頭を抱える紗生を尻目に、トオルは刻んだネギとおじゃこを、熱した油の中へ勢いよく投入した。ジャァァッ、と油が弾ける小気味いい音とともに醤油の芳ばしい香りが立ち上がる。
「トオルさんは、お友だちを食べちゃうんですか?」
キッチンに立つトオルの肩越しに、恨めしそうに紗生がすっと端正な顔を近づける。
「――じゃあ、俺のことも食べますか?」
トオルの耳朶に寄せた紗生の唇から、低く湿った声が漏れる。
あからさまな誘惑の香り。
だが、ピュアすぎるトオルの脳内変換は、色っぽい展開を綺麗に無視して、全く別の方向へすっ飛んでいた。
「紗生くんにそんな酷いことしないよ!」
トオルはバッと振り返り、大真面目なまっすぐな目で紗生を見つめ返した。
「………ですよね。残念」
紗生は苦笑して降参したように両手を上げると、ぱっと身を引いた。
「あ、そうだ。紗生くんは目玉焼き、半熟がいい? それとも固め?」
「半熟が良いです」
何事もなかったかのように尋ねるトオルに、紗生は大人しくテーブルに着いて答える。
「半熟はね、こうやってフライパンを揺すって、黄身がぷるぷるしたら……ほら、最高の半熟!」
トオルは得意げな笑みを浮かべ、香ばしくパラパラに炒め上がったおじゃこチャーハンの頂へ、ぷるぷると震える黄金色の半熟目玉焼きを器用に滑らせた。
「さぁ、召し上がれ」
「頂きます」
トオルのどこか狂気じみたクッキングスタイルに圧倒されつつも、紗生は目の前の出来立てのチャーハンの山を崩し、スプーンの上にトロトロの黄身と一緒に乗せて口に運んだ。
「……ウマい!」
「だよね!おじゃこチャーハン、美味しいよね」
トオルは満足気に胸を張る。
「トオルさん、これ凄く美味しいですよ!」
紗生が目を輝かせて絶賛する。
「おじゃこが油でカリッと揚がってて、すごく歯応えがあります。トオルさんのお友だちも、めちゃくちゃ良い味出してます!」
「えへへ、ありがとう。嬉しいな」
頬っぺたをいっぱいにして素直に喜ぶ紗生の笑顔を見て、トオルの胸がくすぐったくなる。けれど同時に、ふと手元に視線を落とした。
(一人暮らしを始めた頃は、頑張って自炊してたんだけどな。最近は自分のためだけに作るのが面倒で、あんまり作らなくなってた………)
誰かのためにフライパンを握った自分の手の平が、まだほんのり温かくて、トオルは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
◇
トオルの手料理をきれいに完食した後、玄関先で、二人はスマートフォンの画面を向け合って連絡先を交換した。紗生はデキる営業マンらしく抜かりなく次の約束を取り交わし、二人の関係をしっかりと繋ぎ止めてから帰っていった。
「じゃあ、またすぐ連絡しますね、トオルさん」
そんな、甘い余韻を耳の奥に残して。
パタン、と静かにドアが閉まる。 紗生がいなくなった和室に、一人きりで取り残されたトオルは、かつて味わったことのないような強烈な寂しさに胸を締め付けられていた。
さっきまで二人分の笑い声と、炒めたての香ばしい匂いで満ちていた部屋は、一瞬にして元の狭くて冷たい空間に逆戻りしている。テーブルの上に二人分の空になったお皿がぽつんと佇んでいる。
(この部屋、こんなに静かでガランとしてたっけ?)
(――僕はいつの間にか、一人ぼっちの空間に慣れすぎてしまっていたんだ。)
紗生という存在が舞い込んだことで、トオルは自分の世界の寂しさを、知ってしまったのだった。
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