12 / 22
第十二話 藤沢さんという女性
店舗へ戻ると、長谷川はご夫婦をカウンターではなく、少し落ち着いた奥の相談ブースへと案内した。
「武中様、本当にお疲れ様でした。三軒も回ってクタクタでしょう。でも、一番良い物件が押さえられそうで本当に良かったです」
長谷川がそう言ったタイミングで、
「失礼します」とトレイを持った女性が静かに近づいてきた。
受付事務の藤沢さんだった。黒髪のミディアムボブを揺らしお辞儀をした拍子に、落ちかけた前髪をすっと片耳にかける。彼女はご夫婦の前に、水滴のついた冷たい麦茶のグラスを、丁寧に差し出していく。
「ありがとうございます、生き返るわ」 と奥さんがふぅと息をつく。
藤沢さんは最後に、長谷川の手元に冷たい麦茶のグラスと、一台のタブレットを置いた。
「お疲れ様です、長谷川さん。タブレット、いつでも入力できますよ」
その声は驚くほどいつも通りで、有能な事務員らしかった。
長谷川が彼女からの告白を断って、まだ一週間程しかたっていなかった。
会社の駐車場へと続く人けの無い外廊下で、長谷川は『嘘』をつかなかった。
「ごめん、好きな人がいるから」
子供の喚き声と女性の涙。それが長谷川の二大苦手なものだった。
どうしようもなく、狼狽えてしまうからだ。
あの時も内心身構えていた。
(もし、泣かれたら………、放っておけなくなる)
けれど、藤沢さんは泣かなかった。
彼女のスッキリとした目元のブラウン系のアイシャドウのグラデーションが崩されることは無かった。
「深刻に取らないでね、ただ言ってみただけだから」
そう言ってピンクベージュの小さな唇の口角をキュッと上げ、冗談めかして、大したことじゃないように装った。
彼女は自身のプライドと長谷川とを綺麗に逃がしてくれたのだ。
(俺は、彼女のこういう有能さと辛抱強い性格に甘えてしまっているな)
そんな苦い自覚が胸をよぎる。しかし、長谷川はすぐにそれを振り払い、ビジネスの顔に戻った。
「ありがとう、藤沢さん。じゃあ旦那様、こちらの画面に、ご住所と勤務先のご入力をお願いします」
ご主人が慣れない手つきでタブレットに文字を打ち込み始める。
長谷川はまだ入力の途中にも関わらず、一刻を争うスピード勝負のために、少し離れたデスクから、管理会社に電話をかける。
電話の用件を終えると同時に、長谷川の端末に通知が表示された。藤沢さんがすでにご主人から預かった運転免許証のスキャンを終え、そのデータを転送していた。
言葉を交わさずとも、長谷川が次に何を欲しがっているかが全て分かっている。その完璧なサポートのおかげで、管理会社へのデータ送信はものの数分で完了した。
間もなくして、管理会社から「一番手で確保しました」とのFAXが複合機に届く。
長谷川はブースに戻ると、パチッと小さく手を叩いて、弾んだ声でご夫婦に告げた。
「お待たせいたしました! たった今、武中様の物件の確保が完了しました。」
ご主人と奥さんの表情が和らぎ、契約確実の温かな歓びの空気がブースを満たしていく。
どんな業務も嫌な顔ひとつ見せずに引き受けてくれる藤沢さん。
今後、彼女と気まずくならないかという不安が、よぎらないわけではなかった。
(彼女はいつまで耐えられるんだろうか、同じ想いが返ってくることは無いというのに)
しかし、長谷川は女性の肉体に全く興味が湧かないのだった。
ともだちにシェアしよう!

