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第十六話 小トリップからの帰還
数十分後、買い出しから帰宅した紗生は、玄関を開けて思わず苦笑した。
トオルは、出かけた時と全く同じ姿勢で、まだ本を読んでいたのだ。
(もう……本当に、本が好きなんだな)
呆れる気持ちの裏側で、じわりと温かい歓びが広がる。自分の部屋でここまで警戒心を失ってくれるのは、それだけ信頼されている証拠だ。
紗生はトオルの邪魔をしないよう、静かにキッチンへと向かった。
まな板の前に立ち、その美しい手で包丁を握る。トマト、胡瓜、モッツァレラチーズ、それらを狂いなく、まったく同じ厚みに切り分けていった。
白い洋皿の上に、カプレーゼの赤、白、緑が美しく整列していく。その隣の青い絵付けの皿には、オーブントースターで衣のサクサクを蘇らせた、黄金色のチキンフライを盛りつけた。瑞々しいレタスとレモンを添えて彩りを与える。
最後に、食器の入った黒い引き出しを開けて、紗生の指先がわずかに迷う。ピンク色の濁り酒に合わせるための、一番美しい薄硝子の脚のついた冷酒杯を選び出した。すべてはトオルに最高の時間を過ごしてもらうための、もてなしの気配りだった。
シアーカーテン越しにろ過された柔らかな光が、部屋を満たしている。
テーブルの上だけを小さなメタルのペンダントライトが照らし出し、煌めくような色彩の食卓がすべて完成した。
その時、かすかな吐息と共に、トオルがようやく本を閉じた。
「……ふう」
パチパチと瞬きをして、現実の世界へ視線を戻したトオルの目が、テーブルの上の華やかな料理を捉えた。
「えっ……これ、紗生くんが……? 美味しそう……! すごく、良い匂い……」
トオルはソファから立ち上がると、弾かれたようにテーブルへ歩み寄ってきた。
トオルが席に着いたのを見計らい、紗生が食前酒をその薄硝子のグラスに注ぎ入れる。ほんのりと桃色の濁り酒は、意外なほど度数が高い。
トオルが手にすっぽり収まるサイズのグラスを高く掲げると、彼の黒目がちの瞳に、ピンクの光が映り込んだ。
「甘口で飲みやすいですよ。トオルさんの口に合うと良いんですけど。どうですか?」
トオルがピンク色の液体に口をつける。
「美味しい……」
紗生は続いてトオルの目の前でカプレーゼにバジルオイルソースを回しかけ、手際よく取り分ける。
「トマトとチーズと胡瓜、いっぺんに口に入れてみてください。美味しいですから」
紗生に勧められるまま、トオルは小さな口を頑張って開けて、三つの具材をいっぺんに頬張った。口の中でバジルとオリーブオイルの香りとトマトの酸味、チーズのコク、胡瓜の食感が完璧なハーモニーを奏で、トオルの顔がパッと幸福そうに綻ぶ。
「紗生くん、スゴイよ! お店みたい!」
完璧主義の紗生にとって、100%報われる褒め言葉だった。
◇
「あぁ……美味しかったぁ。ごちそうさまでした」
満足感に満ちた食卓の上、見事なまでに空っぽになったお皿には、搾られた後のレモンの皮の他には、レタス一切れさえも残っていなかった。
しかし、空になった器を眺めているうちに、トオルの中に持ち前の真面目さと、小さな罪悪感がふわりと頭をもたげてきた。
「……でも、僕、何も手伝わなくてゴメンね。買い出しにまで行ってもらったのに」
申し訳なさそうに縮こまるトオルに、紗生は優しく微笑みかけた。
「トオルさん。そこは『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』ですよ」
紗生がトオルから教わった言葉で嗜める。
「で……あ、うん。ありがとう、紗生くん。本当に美味しかった」
紗生は椅子から立ち上がると、トオルのすぐ傍らへと歩み寄った。紗生の手がトオルの座る椅子の背もたれの上に置かれる。
「……じゃあ、どうしても心苦しいなら」
紗生のもう片方の美しい手が、テーブルの上の空になった皿を重ねていく。
「ランチが終わったこの後も──もう少しだけ、一緒に居て下さい。トオルさんの時間を、俺にください」
紗生はふっと指を止め、トオルの瞳を見つめた。
「えっ……そんなことで、いいの?」
「ええ。俺を放っておいた分、この後はたっぷり構ってくださいね」
少しだけ悪戯っぽく、けれど紗生の本音を強く含んだその言葉に、トオルは「それなら喜んで」と嬉しそうに頷いた。
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