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第一章 入所 2

 涼がまず目にしたのは、コンクリート造りのごくごく簡素な玄関だった。表にはひっそりと『脳科学研究所』とある。  涼は次に腕の中にいる悠に目を移し、最後に敬を見た。敬も涼をぼんやりと見つめている。 「一生分の運を使い果たしたような気がする」  小さく敬が言った。その言葉で涼が先に我に返る。敬の腕を掴むと軒下に駆け込んだ。そしてそのまま、勢いに乗って呼び鈴を押した。  何も考えない。考えても始まらない。今は悠を暖めるのが先だ。  それからいくらかが経った。もう一度涼が呼び鈴に手を伸ばした時、物音ひとつ立てず扉が開いた。そこにいたのは、憂鬱そうな顔をした若い男だった。 「どうぞ。所長がお待ちです」 「あの。この子が熱を……」 「どうぞ」  男は有無を言わせなかった。ゆっくり後ろを向くと、玄関ロビーの正面に見える階段を上って行ってしまう。  涼は小さく舌打ちすると、悠を抱え直して敬とともに後に続いた。 「よく来た」  三階まで階段を上り暗い廊下をしばらく歩かされた後、急に明るい部屋に通されて、一瞬二人は目が眩んだ。  この部屋も玄関と同じく簡素な作りである。無機質な壁に、無機質な蛍光灯の明かり。部屋はそれほど広くない。鉄格子のはまった窓が二つ。  そして部屋に据え付けられた大きな机の脇に、一人の恰幅の良い男が立っていた。年は四十代の半ばぐらいだろうか、髪はまだ黒々としている。グレーのスーツには皺一つない。  研究所の所長、と言う肩書きのせいで、てっきり白衣の頼りない男が出てくるとばかり思っていた涼は、男の堂々とした体躯に驚いた。  ――なんなんだ、ここは。  涼がざっと状況を把握し終わった頃、男が口を開いた。 「雨の中御苦労だったな。所員に案内させるから部屋に行きたまえ」 「あの、この子が熱を出したんです。医者を呼んでいただけませんか」  敬に言われて、男は初めて悠の存在に気づいたようで、視線を僅かに下に落としてからこう言った。 「この辺りに医者はいない」  その声は不気味なほどに無感動だった。 「じゃ、薬を……」 「ここではめったに病人が出なくてな、薬も置いていない。部屋は相部屋だ。前に三人入っている。毛布と着替えは途中で持って行け」  そう言うと、後は勝手にしろと言わんばかりに口をつぐんでしまった。  涼は尚も言いつのろうとしたが敬が止める。三人は、部屋から吐き出されるように廊下へと出た。 「くそっ! くそっ!」  毛布を三枚とペラペラの衣服を担いで物置を出ながら涼が毒づく。傍らには案内の若い所員がいるが、悪態を特に咎めるでもなくぼんやり壁を眺めているだけだ。それを薄気味悪く感じながら、敬は宥めるように言った。 「仕方ないよ。屋根があるだけありがたいと思おう」  涼はなおも悪態を重ねようとしたが、敬を見、その腕の中の悠を見て押し黙った。そして湿気った毛布を担ぎ直すと、歩き出した男の後に続いた。  五号室は南棟二階左翼の突き当たりにあった。廊下に面して扉が一つだけある。鉄製で、見るからに重く、冷たい。それが牢獄のように見えて、敬は身震いした。  物置を出てから二人を先導していた若い所員は、黙ってその扉を指さした。そして無言のまま懐から鍵を取り出すと、扉の鍵を外し、そのまま結局何も言わずに去っていった。 「ちっ、陰気な奴……」 「……入ろう」  敬がノブを捻って押すと、扉は大きな音で軋った。  僅かに出来た隙間から部屋の中へ滑り込む。再び激しく軋りながら扉は完全に閉まり、かちり、という音がした。  二人はどちらからともなく、ほっと安堵の溜め息を吐いた。 「やっと、着いた」 「あぁ……。まず悠を脱がせよう。その着替えを……」  と、敬が悠の襟首に手を掛けた時、誰かが部屋の奥で唸った。 「るせぇぞ! 静かにしろ!」  急に、部屋の明かりが灯った。二人は眩しさに目を細めた。 「今何時か分かってんのか!」  敬や涼よりいくらか年上に見えるその青年の隣では、まだほんの六、七歳ほどの子供が二人、目をこすりこすりこちらを見ていた。 「ご、ごめ、ん……」  敬が雫を滴らせながら言った。土間にはもう、三人の体から落ちた雫で大きな水たまりが出来ている。  そんな三人の様子を見て、青年がすぐに態度を変えた。 「びしょびしょじゃないか」 「雨が、降ってて……」 「傘もささないで来たのか?」  敬が頷くと、青年がさっと立ち上がった。きびきびとした動きで部屋を横断する。 「さっさと着替えろ。おい、そのチビどうした」 「途中で熱出して……」 「そのまま雨の中連れて歩いたのか!? 死んじまうぞ!」  そう言って、部屋の隅の棚から乾いたタオルを山と投げて寄越した。 「早く脱がせろ。お前達もだ。着替えは俺のを使えよ。それ、ここの備品だろ。それじゃ薄すぎる」 「あ、ありがとう」 「悠を先に」 「あぁ」  敬が、もう一度悠の服を脱がせにかかる。 「アキ兄、あの人達だれ?」  子供の一人が彼に聞いた。大きな目が輝いている。 「そう言えば、名前を聞いてなかったな。俺は、暁」  彼は敬の側へ来ると、腰を屈めて悠を覗き込んだ。 「この子は?」 「悠。俺は敬。こいつは、涼」  暁は手を伸ばして悠の頬に触れた。 「毛布だけじゃだめだな。俺の布団に寝かせよう」  そう言うと敬の返事も待たずに悠を抱き上げ、バスタオルにくるんだ。乾いた空気とふわりとした浮遊感に、悠がここに来て初めて目を開けた。 「ここ……」 「研究所、だよ。よく頑張ったな。もう大丈夫だ」  悠が大きな目を見開いて暁を見た。一瞬その目に警戒の色が浮かぶ。だが暁の、あやすような手と声色にゆっくりと緊張を解いた。 「二人とも、着替えたらそこのチビ達を追い出して布団で寝ろよ」 「それじゃ悪いよ」 「疲れてんだろ、遠慮するな。ゆっくり足伸ばして寝な。チビ供は別の布団で一緒に寝ればいいし、俺はこいつを見ててやるから」  そう言って、彼は初めて笑ってみせた。 「ねぇ、きれえな人だねぇ」  新しい清潔な服を着て布団に横たえられた悠を、子供達が取り巻いた。もう眠気などどこかへ吹き飛んだようだ。 「熱があるね?」  おとなしそうな子供が、悠の額に触れながら言った。 「あぁ、とにかく温めてやらなくちゃ」 「薬は?」  見れば、もう既に救急箱を手にしている。 「まずは暖かい飲み物の方がいいか。薬は何か腹に入れてからだな。お前さん達どうせなんにも食ってないんだろ?」  敬と涼が黙って頷くと暁は立ち上がった。そして、部屋に備え付けられた小さな冷蔵庫を開け、中を覗き込んだ。 「あー、あった。よかった」  そして、くるりとこちらを振り向くと、 「カップが足りないから、下に取りに行ってくるな」  そう言って、出入り口の扉をほんの少し開けると、滑るように出て行った。少しも扉は軋らなかった。 「コツでもあるのか?」 「うん、そうみた――」 「ねぇねぇ、お兄ちゃんたち名前なぁに? どこから来たの?」  さっきの子供が聞いて来た。そう言えば彼らの名をまだ聞いていなかった。 「あぁ、ごめん。俺は敬。そっちの意地悪そうな奴が涼。で、寝てる子が悠っていうんだ。君らの名前も教えてくれる?」 「あのね、僕は、マコト。シンジツの真って書くんだって。で、あの頭のくるくる癖っ毛が、シュン。シュンはシュンカンの瞬なんだって」  真はそう言って、にっこり笑った。 「お兄ちゃん、僕の布団で寝なよ。僕ら今日は二人で寝るからさ」  真が言った。 「ごめんな。明日にはちゃんとするから」 「いいよー、気にしないで!」  真は朗らかに笑うと、別の布団を引っ張り出してさっさと敷いてしまった。その手際の良さに感心する。真は厚手の掛け布団も出すとすぐに潜り込んだ。室内でもこの時間になるとやはり肌寒い。  一方、瞬という名の少年は、魅入られたようにじっと悠を見ている。 「悠が気になる? えっと……瞬」 「こんなきれいな子、見たことない」  悠は長い睫毛をぴったり閉じている。瞬が襟元まで布団を上げてやると、少し熱い呼気が指に掛かった。  その時、扉を軽く叩く音がした。 「俺だよ、手が塞がってんだ。開けてくれ」  敬が扉まで行くと、暁が扉の外から言った。 「持ち上げながら開けてくれ。そうすれば軋らないから」  そして、30センチの隙間から滑り込んで来た。両手に三つカップを持っている。 「よく俺が開けるって分かったね」 「チビには、重過ぎて開かないんだ」  それからキッチンに向かうと、あっという間に、甘い湯気の立つ飲み物を拵えた。ふわりとミルクの香りが漂う。  暁は敬にカップを差し出した。 「飲んで寝ろ。ここの暮らしのことは明日説明するから」 「……ありがとう」 「いいって、ほら、あんたも」  涼は軽く頭を下げて無言で受け取った。暁も、にやりとだけ笑って答える。それから彼は悠を抱え起こした。 「おい、しっかりしろ」  カップを一旦床に置いて、優しく悠の頬をたたく。  暁の声に、悠がゆっくりと目を開けた。 「飲んで」  左腕で悠を支え直すと、唇にカップをあてがう。  だが悠は首を振った。 「体が暖まるから。砂糖も入って旨いよ。熱なんかすぐに吹っ飛ぶさ」  そんなことを口にしながら、背をさすったり頭を撫でてやったり、宥めすかして、結局全部飲ませてしまった。  飲ませた後も、飲んだものが落ち着くまで待つ。 「慣れたもんだなぁ」  敬が感心して言った。 「いつもチビのどっちかが、どこか痛くしたり、熱出したりするからな」  その言葉を聞きながら、涼は悠を見た。暁に渡された薬を今度は自分で飲んでいる。少し落ち着いたのか、目つきも先ほどに比べてはっきりしているようだ。  それに安心してやっと手元のカップに口を付けた。温かくほのかに甘い液体が、空っぽだった体に染み渡ってゆく。  すべてを飲み終わる頃には、彼の瞼はもう落ちかかっていた。  暁はそんな涼の姿も見て取ると、ゆっくりと悠を寝かせて布団で包んだ。 「ほら、みんな布団に入れ。電気消すぞ」  暁の号令に、瞬も布団に潜り込む。敬と涼も温かい布団にくるまった。  部屋は闇に包まれた。 *  暁が氷とタオルを持って外から戻って来ると、涼が悠の傍らに座っていた。 「なんだ、起きたのか」 「……気になって」  涼は悠の額に手を乗せていた。まだ少し熱がある。 「俺じゃ心配か?」 「あ、いや……ごめん」 「冗談だよ。謝るなって」  暁も反対側に座った。タオルを湿らす音がする。外は雨が上がったのか、弱々しい月明かりがカーテンの隙間から差し込んで来る。  二人は二言三言言葉を交わしたが、すぐに黙り込んでしまう。  なんとなくもっと話をしたくなって、暁が話を続けた。 「マコたちは、あぁ見えてもなかなか人に懐かないんだ。でもお前さん達は一目で気に入ったらしい。瞬なんか最後までへばりついてた」 「それなら悠もだ。警戒心が強くて、最初は俺達にもびくびくして大変だったんだ。でも、あんた達には安心して任せてた。正直言って、驚いた」  薄い光がほんのり部屋を色づかせている。お互いの顔までは見えなかったが、言葉では言い表せないような不思議な安心感が二人の心を満たしていた。  暁が尋ね、涼がそれにぽつりぽつりと答える。それを繰り返す内、涼の言葉からもようやく堅さが取れ始めた。  と。 「涼」  暁の声色が変わった。 「ここの暮らしで言っておかなきゃならないことがある」 「なに?」 「お前達は運が良かった。別の部屋に入れられてたら、間違いなく嬲り殺されてた」  暁は、できるだけ驚かさないように言葉を選んで語り始めた。しかしそれでも、涼を震撼させるのには十分だった。 「この研究所には俺達の他にも先住者がいる。全員、赤ん坊の時にここに捨てられた奴らばかりで、ここで育てられたんだ。所長は奴らに何の教育もしなかった。あいつらは人間じゃない。ケダモノだ。……これを見ろ」  暁が自分の腕を捲って見せた。少しの明かりでも、深く抉られた傷痕ははっきりと影を落としていた。 「あいつらは程度や限度を知らない。相手がどうなろうと、何も感じないんだ」 「じゃ、どうしてあんた達はまともなんだ?」 「俺達は物心ついてからここに収容されたからな。うちのチビ二人は、前にいた施設で一緒だったのを訳あって俺が引き取った……つーか、連れて逃げてきたってのが本当のとこなんだけど。ま、その辺の事情はお前さん達も同じだろう?」  涼が頷いた。 「俺も敬も施設から逃げ出した口だ。二人で食いつないでた時に、悠を見つけたんだ」  その時悠が少し頭を動かした。額のタオルが、すでにぬるい。 「氷、替えてく――」 「いや、いい」  涼は、立ち上がろうとした暁の手を握った。 「おい……大丈夫か? 妙に冷たいぞ」  しかし涼の手は尚も冷たくなってゆく。たまらず暁は手を振りほどいた。 「これが、ここに呼ばれた理由」 「《力》か?」 「……」  涼はそれには答えず、冷たい右手を悠の額に当てた。しばらくすると、再び微かな寝息が聞こえてきた。  涼の後ろでは敬が静かに眠っている。その気配を感じながら、涼は今し方聞いた話を胸の内で反芻した。敬が聞けば、盛大に眉を顰めるだろう。 「明日から気をつけろよ。お前さんと敬は大丈夫だろう。けど悠は独りにするな。夜は出歩かせるな。部屋には必ず鍵を掛けるんだ。隙を見せたら弄ばれて殺される。あいつらにとって、自分より弱い者は人間じゃない。オモチャなんだよ」 *  悠が目覚めた時、他の者たちはまだ皆眠っていた。  二人の看病が効いたのか、すっかり熱は下がっている。ゆっくりと首を左右に巡らすと、左には暁が、右には涼が、同じような格好で丸くなって眠っていた。  悠は体を起こすと、そろそろと立ち上がってみた。一瞬ぐらりと視界が回ったが、すぐに落ち着いた。足取りもしっかりしている。  ――回復したみたいだ……。  まずは、これ以上迷惑を掛けずに済んでほっとしてから、足音を忍ばせて窓の方へ歩いた。カーテンを細く開け、外界を覗き見る。ここはよほどの高台なのか周りには何も無く、ただ深く青く晴れた空と、重苦しいぐらい濃い緑に繁る樹木が悠の目に映るばかりであった。  悠はその小さな手を胸に当てた。昨日ここに来る途中、誰かに心臓を掴まれたような気がしたのだ。そして意識を失うその淵で、悠は何かを見た。  だが今となってはもう思い出すことも叶わなかった。ゆっくりと記憶を辿ると、悠の視界が再びぐるぐると回り始める。悠は慌ててカーテンを掴んだ。 「大丈夫か?」  後ろから声を掛けられた。 「うん、ごめんね。もう平気」  振り返ってにっこり笑う。いつの間にか悠の後ろに立っていた敬も、つられて笑った。 「でもしばらく寝てた方がいい。まだ顔色が良くない」  悠が笑って頷いた時、ひそひそと話す声が聞こえた。布団の一つがごそごそと動いている。 「ほらぁ、夢じゃなかったでしょ」 「ほんとだ。ちゃんといたね」 「そう言ってるのに」  子供達が起きたようだ。悠が寝床へ戻ると、我慢できずに二人が飛び出して来た。 「おはよう!」  悠の周りが急に騒がしくなった。二人はまるで、可愛らしい声で囀る小鳥のようだ。二人がじゃれ合うのを、悠は少し不思議な面持ちで眺めた。 「……るせぇぞ……」 「あ、アキ兄おはよっ!」 「おはよはいいが、何時だと思ってんだ? まだ五時だぞ」  暁は腕を振り上げて伸びをした。そして、悠に目を止めると言った。 「お、調子よさそうだな」  悠が昨晩の礼を言うと、暁は気持ちよく笑った。 「いいっていいって」  暁の大きな手が悠の頭を撫でた。その両脇に小さな二人がちょこんと座る。  二人のうち、よりおしゃべりなのは真の方ようで、ひとしきり自己紹介をすると、次は瞬、その次は暁と紹介を続けている。一方瞬は、適当に相づちは打つものの、気がつくと悠の顔ばかりを見つめていた。  悠がゆっくりと手を伸ばした。白い指が瞬の巻き毛をくるりと巻き取る。 「かわいいね」  指に絡んだ毛はすぐに解け、丸くふっくらした輪郭を縁取る。それを耳の後ろに撫でつけながら、悠が微笑んだ。 「しゅんちゃんと、まこちゃん」  名前を呼ばれて、瞬は目を大きく見開いた。なぜか、彼の胸が大きく高鳴る。 「これからよろしくね」  瞬は返事をすることもできず、ただ悠を、なんてきれいなひとなんだろう、と思った。

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