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第一章 入所 4
新入りの三人が研究所の実態を思い知らされるのに、そう長くはかからなかった。
三人が入所して既に二ヶ月が経ち、季節は初冬になっていた。
最初の一ヶ月で、彼らは身体測定と運動能力測定、基礎体力測定、能力値測定を済ませた。
涼は入所初日のあの所長の態度を思い出してイヤな顔をしたが、実際の所、測定の類はすべて職員が行い、最後まで所長は姿を見せなかった。
暁が気を付けろと忠告した少年達も、夕食の時に二三度見かけただけで拍子抜けする程だった。
敬がそう言うと、暁が顔を険しくして言った。
「気を抜くなよ。絶対に」
その表情を見て、敬の顔も引き締まった。
「三人だけで大丈夫かな」
敬が言った。今日は二人が学校へ編入される日だ。暁は高校へ、そして二人は中学校へ行ってしまう。
「大丈夫だよ。俺一人の時も、チビ二人で立派に留守番できてたんだ」
暁が笑って言った。
「それより、この前決めた自分の年と誕生日は忘れるなよ。二人とも、中学生って図体じゃないんだからな」
十四五歳の子供たちに混じるには、二人ともがっちりしすぎている。『慎重にいけよ』と、暁は朝から繰り返し念を押していた。
「今日は昼までに帰れると思うから……」
涼の言葉に、悠が少し緊張気味の顔で頷く。
「僕たちのことなら心配しないで。学校の話をいろいろ聞かせてね」
悠を見ていて、敬はふと、学校に行くのを止そうかと思った。
不安はもちろんあった。悠はあれからも幾度かうなされた。だが敬達の危惧に反して、今日まで何も起こらなかったのだ。
しかしいつまでもこうしている訳にもいかない。
三人は後ろを振り返りつつ出かけていった。
悠が鍵を閉めた。
「これで、よし」
三人のうちの誰かが帰ってくるまで決して開けてはいけないと、暁は堅く言い渡して行った。
「さぁ、しばらくは僕たちだけだよ。暁がいない間、毎日何してた?」
悠の前に、二人が並んで座った。手に手に練習帳をいくつか持っている。
「アキ兄ちゃんが僕たちに一冊ずつ買ってくれたの。毎日やれって」
そして今までの成果を悠に広げて見せた。
「真は、小学校の三年生の漢字と算数を勉強してるよ」
瞬が言った。そして、照れたように自分のノートを見せながら「僕は四年生の国語と算数」と言った。
「じゃあ、今日からは僕がみんなのを見てあげる」
悠がそう言うと二人は歓声を上げて、小さな折りたたみテーブルを引っぱり出してきた。
「僕らの学校だね!」
真が嬉しそうに言った。
それから一時間ほどしてからだった。真が悠の異変に気がついた。
「ここの計算は……」
と話す悠の言葉が、
「こころけーはんわ……」
と聞こえる。呂律が回っていない。
「悠? だいじょうぶ?」
「……」
「ユウ?」
「……え?」
瞬の声に慌てて顔を上げる。だがその視線は焦点が合っていない。
二人は顔を見合わせた。
「ね、具合悪い?」
「……ううん、へーき」
そう言って立ち上がろうとしたが、そのままぺたりと腰を落としてしまった。
瞬がさっと側に寄って、悠の額に手をやった。
「熱はないみたい」
「眠い? 横になる?」
真がそう声を掛けたが、悠は聞こえたのか聞こえなかったのか、緩慢な動きで首を振った。ふらり、ふらりと身体が揺れる。
悠の目に、心配そうに見つめる二人の顔が見えてはいた。だがそれに被さるように、赤い影が視界を覆ってゆく。
「どうしても、僕に、見せたい、のか」
「悠? 今なんて?」
真の声が遠くに聞こえる。返事をしようと口を開いたが、声を出す前に悠の視界は暗転した。
「寝ちゃった……の?」
「たぶ、ん」
瞬と真は、顔を見合わせて呟いた。
仰向けに倒れ込んだ悠を、瞬が辛うじて支えたまでは良かったが、がくりと力なく落ちた頭を支え損なって、結局悠は畳に頭を強打した。
それでも悠は目を開けなかった。
「具合が悪い訳じゃ、ないよね」
「うん、前にもこんな事あったし、たぶん、寝てるんだと思う……」
瞬は心配そうに悠を見ていたが、一度床に彼を横たえて立ち上がり、部屋の隅から毛布を引っ張り出してきた。
「布団に動かすのは無理だから……」
悠は眠りに落ちながらも、手を固く握りしめている。呼吸が少し荒い。とても安寧な眠りには見えない。
瞬は毛布を掛けながら、悠の眉間の皺を優しく指でなぞった。
そのとき。
突然部屋の扉が激しく叩かれた。
*
悠は、悪夢の中にいた。
無理矢理夢の中に引きずり込まれ、見たくもない未来を突きつけられる。
予知の夢は少しずつ形を変え、悠の前に繰り返し現れた。
音も色彩もない世界。明るさを感じないモノクロの世界の中で、黒い影がうごめいている。人なのか、獣なのか、その形すらおぼつかない。
寒い。
悠は自分の廻りを覆う冷気にぶるりと身体を震わせた。腕で身体を抱え込む。
すると抱え込んだ腕の中にほんのりと温かいものを感じた。そこには温かく光る何かがある。悠が目をこらすと、光は小鳥に姿を変えた。
――金色の、小鳥。
羽根があるのに飛び立とうともしない小鳥は、息づくように明滅する光を発しながらじっとしている。暖かい。
その光を優しく抱きしめたとき、悠の頬に雨がぽつりと落ちた。
見上げると、うつろな空からぬるりとした液体が零れ始めていた。
――雨?
悠は水滴に汚されぬよう、光を抱え込んだ。
悠は唐突に夢から解放された。
急に光の中に放り出され、びくりと身体が震える。
堅く握りしめた手を緩めると、掌にはくっきりと爪の跡が残っていた。
ほっ、と息を一つ吐く。
身じろぎすると、身体に掛けられた毛布に気付いた。
「ありがとう、シュ……」
思わずこぼれた微笑みとともに出した声は、しかし静寂の中に溶けて消える。
「……瞬? ……マコ?」
身体を起こして部屋を見回す。いつもそこにあるはずの暖かな笑顔が、どこにもない。
「二人ともどこ? かくれんぼ?」
悠は立ち上がると、子供二人が隠れられそうな陰を探す。
しかし無駄だったことはすぐに分かった。気配の欠片もない。
悠は迷うことなく、部屋を飛び出した。
*
瞬と真は、食堂に一番近い小部屋に連れ込まれていた。
悠たちの部屋の半分ほどの広さに、少年が五人いる。ほとんどが敬と同じくらいの年に見えるが、一人だけ、やや年嵩と見える青年が奥の椅子に座っていた。二人はその中に放り込まれた。
部屋は南側にあったが、ブラインドを降ろしてあって薄暗い。
瞬は身を固くして恐怖に耐えようとしている。真は既に目に涙をためていた。
「暁は、どこ?」
瞬がなんとか言葉を押し出した。
「暁? ……なんのことだ?」
一人が、言った。
「アキ兄が事故にあったって……」
真が弱々しい声で言うと、全員がどっと笑った。
「まさか引っかかるとは思ってなかったぜ!」
「ここまでおバカちゃんたちだとは思わなかったな~」
ことさら耳障りな高い声ががなり立てる。
「簡単すぎてつまんなくね?」
「こういうシンプルな嘘のほうが引っかかりやすいんだって」
真の目が見開かれる。
「……う、そ?」
「そーそー。お前らを引っ張り出す、う、そ」
「じゃ、じゃぁ、暁は、無事?」
真がほっとして言うと、更に馬鹿にしたような笑いが起こった。
「ほんっとに、おバカちゃんたちでちゅねー?」
「暁より、自分たちの心配をした方が良いんじゃありませんかね?」
全員が笑う。瞬はその笑顔の下に狂気を見た。笑っているのに、そこには何も感じられない。感情のない歪んだ笑みに、肌が粟立つ。
少年の一人が横から真に手を伸ばした。髪を一束つかむと思い切り引っ張る。
「ひゃっ!」
「触るな!」
咄嗟に瞬が手を払う。真を庇うように前に出た。
「おー、コワイコワイ」
全員が口々に侮蔑の言葉で囃し立てる。虚勢を張ってはみたものの、瞬は体の震えを抑えることができない。今までこんな悪意にさらされたことなど一度もなかった。いつも大きな存在が傍らにあったから。だから安心していた。安心しきっていた。歯を剥き出して笑う、こんな醜悪なものが存在するなんて思いもしなかった。
逃げだそうと思うものの、足は竦むばかりで動いてくれない。
真は瞬の背にあって、同じく震えている。
「泣かねぇかなぁ」
「アキラちゃんたすけてぇ、って泣かねぇの?」
「あー、でもおにーちゃんはガッコ行ってて助けに来てくれないかぁ」
耳を塞ぎたいのに、身じろぎした途端、瞬の腕は少年たちに拘束された。
二人が怯えれば怯えるほど、少年たちのサディスティックな欲望は膨れ上がった。
「なぁなぁ、タダシぃ、もうちょっとさぁ、いじめてもいいか?」
誰かが言った。
「いいぞぉー」
奥にいた青年が初めて口を開いた。
瞬の腕を押さえていた少年が頷くと、別の者が瞬の頭を押さえた。顔を背けようにも、相手の力が強くて身動きできない。
煙臭い匂いが鼻をついて吐きそうになる。
「いや……っ!」
瞬は藻掻いたが、目の端に光る物を捕らえて身を堅くした。もう一人が尻のポケットから刃物を取り出したのだ。
「これはよーく切れるんだ。そんなに震えてると、俺の手が滑って、その大きな目を抉っちまうぜ」
薄く笑いを浮かべながら、少年が刃物を近づけてくる。
「やめて……やめて……!」
真が、ぶるぶると震えながら叫んだ、その時。
「そこにいるの!?」
聞き覚えのある声と共に、激しく扉が叩かれた。
奥の青年が仲間に顎をしゃくった。
鍵が開けられ、悠が中に飛び込んできた。
「瞬! マコ!」
「よぉー、新入りじゃーん」
青年が言う。
「待ってたぜ」
重々しい音と共に、扉が閉められた。悠を少年たちがあっさり取り囲む。
「二人を返してもらうよ」
悠が言った。
「はいどうぞー、なんて言うと思う?」
青年は腕を組んだまま、馬鹿にしたように言った。つられて周囲も下卑た笑い声を上げる。
「この餌で暁を釣るつもりだったが、毛色の違う獲物が釣れたな」
周囲の少年がますます囃し立てる。悠は息を詰めて、奥の青年を睨み付けた。周りの者達は雑魚だ。後ろに控えている青年が、彼らを束ねている。
逃げるための算段を必死で巡らせる。どうせ勝てやしない。一瞬の隙さえあればいい。
「……気に入らねぇなぁ」
青年が、組んでいた腕を解いて悠に近づいてきた。
「タダシぃ、自分でやるか?」
「そうだな」
言いながら、脇に立つ少年からナイフを受け取った。
「こいつの目が気にいらねぇ」
タダシは、ナイフを持った手を悠の眼前まで持ち上げると、そのまま刃を悠の頬に滑らせた。途端に瞬が悲鳴を上げた。
表皮が裂け血が零れる。悠の白い頬に、一筋の赤い線が出来た。
しかし、悠は微動だにせずタダシを睨み付けている。
タダシは口の端に笑みを浮かべた。すると、突然悠が手を振り上げた。そのままタダシに平手打ちを食らわせる。
だがタダシはそれも予想していた。振り下ろされた手を掴む。
悠はそれには構わず、腕を捕まれたままタダシの胸元に飛び込んだ。同時に掴まれていた相手の手をひねる。
そして、タダシの鳩尾に《力》を叩き込んだ。
強い力ではない。軽く押された程度のものだ。だが不意を突かれたタダシがよろめいて尻をつくのには十分だった。
まさか悠がそんな反撃に出るとは誰も予想していなかった。取り巻きがタダシに駆け寄ろうとする。
彼らの注意の逸れたその瞬間を悠は見逃さなかった。
突然扉が開け放たれた。
誰もが驚いて動けない。
「逃げろ!」
悠が叫んだ。
「逃げろ!」
扉の近くにいた一人と、瞬を押さえていた少年が、何かに突き飛ばされるように転がった。
「早く!」
瞬と真は、訳も分からないまま走り出した。
真が先に扉にたどり着く。
瞬は、悠を振り返って一瞬遅れた。
真は廊下に飛び出したが、瞬は追いかけてきた少年に腕を取られてしまった。
「瞬!」
「行って!」
「いや……いや!」
「行って! アキ兄に……」
転んでいた少年が真を捕らえようと立ち上がったのを見て、悠は、もう一度扉に見えない手を伸ばした。
扉が、閉じられた。
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