7 / 7

第一章 入所 6

 暁が目を開けた時、辺りは薄い闇に覆われていた。  時間の感覚が無くなっている。今が朝なのか夕方なのか、それすら把握できずに、暁は毛布の中でぼんやりと目を開けていた。  頭の芯が、重く疼いている。  部屋の隅では子供達が固まって眠っている。まだ、夜が明けて間もない時間のようだ。  そのまま首を巡らすと、布団の中の小さな体と、その脇に蹲っている二つの影が目に入った。  一つの影は、毛布に包まれて寝息を立てている。  そしてもう一つの影は、壁に凭れたまま動かない。  項垂れたその姿勢からは、濃い疲労が滲み出ていた。  二人とも眠っているのだろう。そう思って暁はそろそろと身を起こした。  が、微かな衣擦れの音を聞きつけて、壁に凭れていた敬が顔を上げた。 「起きてたのか」  暁が小さな声で言うと、敬は黙ったまま頷いた。その顔がひどく青く見える。 「大丈夫か? 少しは寝たのか?」  暁の問いかけに、今度も黙ったまま頷く。とても大丈夫そうには見えない。  暁は立ち上がって流しに向かうと、ヤカンで湯を沸かし始めた。  一方で何かを準備しているようで、やがてしばらくすると、部屋の冷たい空気の中に甘い香りが立ち上った。  暁は湯気の立つカップを片手に敬の傍らに座ると、それを敬の手に握らせた。 「飲んで。……少しは、元気出るから」  蜂蜜とレモンの匂いが、敬の肺を満たしていく。  敬は手の中のカップを少し困惑した顔で見つめていたが、躊躇いながらもゆっくりと甘く酸っぱい液体を口に含んだ。  快い刺激がじんわりと口内に広がる。そこで初めて敬は、自分が空腹だったことに気付いた。 「おいし……」  敬が呟くと、暁はほっとしたように笑った。 「あとで涼にも作ってやらなきゃな」  そして大きな暁の手が、敬の頭を掻き撫でた。 「大丈夫だよ。悠は大丈夫だ」  そう言われて、不意に目の奥がつんとなって、慌てて敬は奥歯を噛みしめた。 「あの」 「ん?」 「ありがとう」  敬の口から素直に感謝の言葉が零れた。 「礼なんて言うなよ」 「ううん。涼も悠も、俺を頼っているから……二人を、不安にさせちゃいけないんだ。だから……」  暁の手が温かい。敬は、ほっと息を吐いた。 「だから俺、誰かに、大丈夫だって言って欲しかったんだと思う」 「そうか。そうかもな……」 「だから」  ありがとう。もう一度敬が言うと暁は笑って手を引っ込め、敬と並んで壁に凭れた。 「年長ってのは気が張るからな」 「暁も?」 「あぁ。時々、めちゃくちゃに不安になるよ」  暁は、敬に顔を向けることなく、独りごちるように言葉を継いだ。 「マコ達のことを第一に考えてやってきた。普通の子供と同じように育って欲しかった。だから、そのためなら何を犠牲にしてもいいと思った」 「……うん」 「でも、自分の選択が本当に正しかったのか、間違っているのか……、取り返しが付かないんじゃないか……、怖くなる」  暁は顔を半ば上げたまま、目を閉じた。 「俺の手の中に、二人の運命がある。小さいウズラ卵みたいな、二つの運命がな。……これを落としたら? 握り潰してしまったら? ……守る手が消えてしまったら?」 「暁……」  噛み締めるように呟く声は微かだ。だが暁が再び目を開けた時、彼はいつもの調子に戻っていた。 「俺とお前さんは、同じ立場だからな」 「そうだね」 「湿っぽくなっちゃったな。すまん」  暁の言葉に答えようとして、敬はふと、視線を落とした。 「悠?」  悠の睫が微かに動いた。 「起きたかな?」  二人が悠の顔を覗き込む。と、ゆっくりと悠の目が開かれた。  ぼんやりとしたその表情からは、苦痛は読みとれない。  悠はしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて暁の方へ手を伸ばした。 「涼?」 「あ……」  暁は戸惑いの声を上げかけたが、そこへ敬が割って入った。 「具合はどう?」  悠の顔が声のする方へ向けられた。 「敬?」 「そうだよ。痛い?」 「ん、大丈夫」  そう言って、悠はほんの少し笑みを浮かべた。 「今、何時?」  その問いに、咄嗟に敬は暁の顔を見た。暁は無言で眉を寄せる。 「まだ夜中だよ」  だがその返事を聞くと、悠は再び微笑んだ。 「ウソ」 「え?」 「ウソつかなくて良いよ。鳥が啼いてる。もう朝だね?」 「あ……」  敬の狼狽が伝わったのか、悠は優しく笑って見せた。 「ありがとう。でも僕、知ってるから。よく見えてないこと」 「悠……」  思わず呟いた暁に、悠が顔を向けた。 「暁? だよね? 間違えてゴメンね」  暁は驚きを隠すことができなかった。重傷どころか、重体と言っても良いような状態だったのに、悠は今からでも起き出してしまいそうだ。 「傷の具合は……」 「良くなってきてるよ」 「あのなぁ……」  無茶を言うな、と言葉を続けようとしたが、その前に悠が言った。 「あ、そうか。暁にはまだ言ってなかったね」 「ん?」  言葉の意味が掴めず首を傾げる暁を、敬が遮った。 「説明は後で俺がする。それより……」 「うん、回復期に入ったみたい」 「今回は長くかかったな」  敬の声に安堵の響きが広がった。表情も目に見えて明るくなる。 「そうだね。目は……どうなるか分からないけどね。見えてはいるから、失明はないと思うよ」  暁は二人の会話に割り込むことはしなかった。だが、悠のその様子にはとにかく絶句するしかなかった。  悠は失明の危機にあった。いや、生命の危機にすらあった。その状況はいまでも何も変わっていないはずだ。  それなのにこの落ち着きぶりはどうだろう。……それだけ慣れている、と言うことなのだろうか?  ――怪我に? 命の危険に晒されることに?  「心配かけてごめんね」 「謝るのはちゃんと起きられるようになってからだ。眠いか?」 「ん……。だいぶん、眠くなってきてる」 「三日、ぐらい?」 「も……ちょっと、かかるかな」  そう言うと大きく息を吐き出した。折れた肋骨が疼いたのか、少し眉を寄せる。 「五日か……一週間」 「そんなに?」  敬が言うと、悠は笑った。 「僕、体中の骨が折れてるんだよ? それくらい、かかっちゃうよ」  そして、ふと真顔になった。 「本当に……大丈夫だから。瞬に、そう伝えて。お願い」  そう言って悠が笑う。  その笑顔に暁はひどく胸を締め付けられた。悠達は、こうやって必死に生きてきたのだ。  恐怖も、悲しみも、寂しさも、全部を笑顔の下に押し込めて。相手のことを気遣って。 「敬……」  呟く声は睡魔に負け、徐々に小さくなっていく。  敬はゆっくりと、しかしはっきりと、悠に囁いた。 「早く戻っておいで」  その声が聞こえたのかどうか、悠は微かに微笑むと、深く柔らかな淵へと落ちていった。  悠の寝息が再び規則正しく刻まれるのを確かめると、ようやく敬は身を起こした。 「ごめん、ちゃんと説明するよ」 「あぁ」  そう短く答えた暁の様子に、僅かな違和感を覚えて敬は首を捻った。どことなく投げやりなのは気のせいだろうか? 「どうかした?」 「ん、あ、いや、説明してくれ」 「うん……、さっき悠が言った回復期のことなんだけどね。どうもこれが悠の力の一つらしいんだ。怪我の程度にもよるんだけど、かすり傷なら二、三時間で完治しちゃうんだよ」 「完治?」 「そう。かさぶたまできれいに取れた状態になるのに、二、三時間。骨折だと太い骨でも三日で治る」 「三日……たった三日で……」 「その代わり、回復期間中、悠は眠り続けるんだ。それこそ死んだみたいにね。ほとんど昏睡状態と言っても良いくらい」 「食事はその間どうするんだ?」 「うーん、前に一度、無理矢理に起こしてお粥を食べさせたんだけど、後で全部吐いちゃったんだよなぁ。水分だけはたまに取らせるけど、それもあんまり必要ない感じだし……」 「動いているのは心臓だけってことか……」 「悠の体の中で、一体何が起きているのか俺達に知る術はないけどね」  敬は肩を竦めて見せた。  暁は、もう一つの疑問をぶつけた。 「今までにあったんだな。こういう事」  一瞬、敬の表情が陰った。が、こう問われるのは分かっていたようで、躊躇うことなく頷いた。 「あったよ。俺と涼が金稼ぎに出てて、帰ってみたら悠が血だらけで倒れてた事もあった」  柄の悪い地域に隠れ住んでいたとき、目をつけられて石を投げられたこともあった。主犯だった少年らが、それを『狩り』と呼んでいたことを思い出す。今も昔も、奴らは悠を貶め蔑む。それが我慢ならなかった。  「とにかく、その時も悠は三日間眠り続けて、起きた時に傷は消えていたんだ」  敬は訥々と語りながら、いつものように悠の髪を掻き上げる。 「傷が早く消えてくれるのはいいんだけどさ……」  洗い落としたはずの髪に、まだ血の塊が残る。 「この体の中で、ものすごい負担が掛かっているんじゃないかと思うと心配だよ」  悠を見つめる敬の様子に、暁は彼らの辿ってきた苦難の道を思った。  ――五つの、小さな、運命の、卵……。  暁は、手を握り締めた。

ともだちにシェアしよう!