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第一章 入所 6
暁が目を開けた時、辺りは薄い闇に覆われていた。
時間の感覚が無くなっている。今が朝なのか夕方なのか、それすら把握できずに、暁は毛布の中でぼんやりと目を開けていた。
頭の芯が、重く疼いている。
部屋の隅では子供達が固まって眠っている。まだ、夜が明けて間もない時間のようだ。
そのまま首を巡らすと、布団の中の小さな体と、その脇に蹲っている二つの影が目に入った。
一つの影は、毛布に包まれて寝息を立てている。
そしてもう一つの影は、壁に凭れたまま動かない。
項垂れたその姿勢からは、濃い疲労が滲み出ていた。
二人とも眠っているのだろう。そう思って暁はそろそろと身を起こした。
が、微かな衣擦れの音を聞きつけて、壁に凭れていた敬が顔を上げた。
「起きてたのか」
暁が小さな声で言うと、敬は黙ったまま頷いた。その顔がひどく青く見える。
「大丈夫か? 少しは寝たのか?」
暁の問いかけに、今度も黙ったまま頷く。とても大丈夫そうには見えない。
暁は立ち上がって流しに向かうと、ヤカンで湯を沸かし始めた。
一方で何かを準備しているようで、やがてしばらくすると、部屋の冷たい空気の中に甘い香りが立ち上った。
暁は湯気の立つカップを片手に敬の傍らに座ると、それを敬の手に握らせた。
「飲んで。……少しは、元気出るから」
蜂蜜とレモンの匂いが、敬の肺を満たしていく。
敬は手の中のカップを少し困惑した顔で見つめていたが、躊躇いながらもゆっくりと甘く酸っぱい液体を口に含んだ。
快い刺激がじんわりと口内に広がる。そこで初めて敬は、自分が空腹だったことに気付いた。
「おいし……」
敬が呟くと、暁はほっとしたように笑った。
「あとで涼にも作ってやらなきゃな」
そして大きな暁の手が、敬の頭を掻き撫でた。
「大丈夫だよ。悠は大丈夫だ」
そう言われて、不意に目の奥がつんとなって、慌てて敬は奥歯を噛みしめた。
「あの」
「ん?」
「ありがとう」
敬の口から素直に感謝の言葉が零れた。
「礼なんて言うなよ」
「ううん。涼も悠も、俺を頼っているから……二人を、不安にさせちゃいけないんだ。だから……」
暁の手が温かい。敬は、ほっと息を吐いた。
「だから俺、誰かに、大丈夫だって言って欲しかったんだと思う」
「そうか。そうかもな……」
「だから」
ありがとう。もう一度敬が言うと暁は笑って手を引っ込め、敬と並んで壁に凭れた。
「年長ってのは気が張るからな」
「暁も?」
「あぁ。時々、めちゃくちゃに不安になるよ」
暁は、敬に顔を向けることなく、独りごちるように言葉を継いだ。
「マコ達のことを第一に考えてやってきた。普通の子供と同じように育って欲しかった。だから、そのためなら何を犠牲にしてもいいと思った」
「……うん」
「でも、自分の選択が本当に正しかったのか、間違っているのか……、取り返しが付かないんじゃないか……、怖くなる」
暁は顔を半ば上げたまま、目を閉じた。
「俺の手の中に、二人の運命がある。小さいウズラ卵みたいな、二つの運命がな。……これを落としたら? 握り潰してしまったら? ……守る手が消えてしまったら?」
「暁……」
噛み締めるように呟く声は微かだ。だが暁が再び目を開けた時、彼はいつもの調子に戻っていた。
「俺とお前さんは、同じ立場だからな」
「そうだね」
「湿っぽくなっちゃったな。すまん」
暁の言葉に答えようとして、敬はふと、視線を落とした。
「悠?」
悠の睫が微かに動いた。
「起きたかな?」
二人が悠の顔を覗き込む。と、ゆっくりと悠の目が開かれた。
ぼんやりとしたその表情からは、苦痛は読みとれない。
悠はしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて暁の方へ手を伸ばした。
「涼?」
「あ……」
暁は戸惑いの声を上げかけたが、そこへ敬が割って入った。
「具合はどう?」
悠の顔が声のする方へ向けられた。
「敬?」
「そうだよ。痛い?」
「ん、大丈夫」
そう言って、悠はほんの少し笑みを浮かべた。
「今、何時?」
その問いに、咄嗟に敬は暁の顔を見た。暁は無言で眉を寄せる。
「まだ夜中だよ」
だがその返事を聞くと、悠は再び微笑んだ。
「ウソ」
「え?」
「ウソつかなくて良いよ。鳥が啼いてる。もう朝だね?」
「あ……」
敬の狼狽が伝わったのか、悠は優しく笑って見せた。
「ありがとう。でも僕、知ってるから。よく見えてないこと」
「悠……」
思わず呟いた暁に、悠が顔を向けた。
「暁? だよね? 間違えてゴメンね」
暁は驚きを隠すことができなかった。重傷どころか、重体と言っても良いような状態だったのに、悠は今からでも起き出してしまいそうだ。
「傷の具合は……」
「良くなってきてるよ」
「あのなぁ……」
無茶を言うな、と言葉を続けようとしたが、その前に悠が言った。
「あ、そうか。暁にはまだ言ってなかったね」
「ん?」
言葉の意味が掴めず首を傾げる暁を、敬が遮った。
「説明は後で俺がする。それより……」
「うん、回復期に入ったみたい」
「今回は長くかかったな」
敬の声に安堵の響きが広がった。表情も目に見えて明るくなる。
「そうだね。目は……どうなるか分からないけどね。見えてはいるから、失明はないと思うよ」
暁は二人の会話に割り込むことはしなかった。だが、悠のその様子にはとにかく絶句するしかなかった。
悠は失明の危機にあった。いや、生命の危機にすらあった。その状況はいまでも何も変わっていないはずだ。
それなのにこの落ち着きぶりはどうだろう。……それだけ慣れている、と言うことなのだろうか?
――怪我に? 命の危険に晒されることに?
「心配かけてごめんね」
「謝るのはちゃんと起きられるようになってからだ。眠いか?」
「ん……。だいぶん、眠くなってきてる」
「三日、ぐらい?」
「も……ちょっと、かかるかな」
そう言うと大きく息を吐き出した。折れた肋骨が疼いたのか、少し眉を寄せる。
「五日か……一週間」
「そんなに?」
敬が言うと、悠は笑った。
「僕、体中の骨が折れてるんだよ? それくらい、かかっちゃうよ」
そして、ふと真顔になった。
「本当に……大丈夫だから。瞬に、そう伝えて。お願い」
そう言って悠が笑う。
その笑顔に暁はひどく胸を締め付けられた。悠達は、こうやって必死に生きてきたのだ。
恐怖も、悲しみも、寂しさも、全部を笑顔の下に押し込めて。相手のことを気遣って。
「敬……」
呟く声は睡魔に負け、徐々に小さくなっていく。
敬はゆっくりと、しかしはっきりと、悠に囁いた。
「早く戻っておいで」
その声が聞こえたのかどうか、悠は微かに微笑むと、深く柔らかな淵へと落ちていった。
悠の寝息が再び規則正しく刻まれるのを確かめると、ようやく敬は身を起こした。
「ごめん、ちゃんと説明するよ」
「あぁ」
そう短く答えた暁の様子に、僅かな違和感を覚えて敬は首を捻った。どことなく投げやりなのは気のせいだろうか?
「どうかした?」
「ん、あ、いや、説明してくれ」
「うん……、さっき悠が言った回復期のことなんだけどね。どうもこれが悠の力の一つらしいんだ。怪我の程度にもよるんだけど、かすり傷なら二、三時間で完治しちゃうんだよ」
「完治?」
「そう。かさぶたまできれいに取れた状態になるのに、二、三時間。骨折だと太い骨でも三日で治る」
「三日……たった三日で……」
「その代わり、回復期間中、悠は眠り続けるんだ。それこそ死んだみたいにね。ほとんど昏睡状態と言っても良いくらい」
「食事はその間どうするんだ?」
「うーん、前に一度、無理矢理に起こしてお粥を食べさせたんだけど、後で全部吐いちゃったんだよなぁ。水分だけはたまに取らせるけど、それもあんまり必要ない感じだし……」
「動いているのは心臓だけってことか……」
「悠の体の中で、一体何が起きているのか俺達に知る術はないけどね」
敬は肩を竦めて見せた。
暁は、もう一つの疑問をぶつけた。
「今までにあったんだな。こういう事」
一瞬、敬の表情が陰った。が、こう問われるのは分かっていたようで、躊躇うことなく頷いた。
「あったよ。俺と涼が金稼ぎに出てて、帰ってみたら悠が血だらけで倒れてた事もあった」
柄の悪い地域に隠れ住んでいたとき、目をつけられて石を投げられたこともあった。主犯だった少年らが、それを『狩り』と呼んでいたことを思い出す。今も昔も、奴らは悠を貶め蔑む。それが我慢ならなかった。
「とにかく、その時も悠は三日間眠り続けて、起きた時に傷は消えていたんだ」
敬は訥々と語りながら、いつものように悠の髪を掻き上げる。
「傷が早く消えてくれるのはいいんだけどさ……」
洗い落としたはずの髪に、まだ血の塊が残る。
「この体の中で、ものすごい負担が掛かっているんじゃないかと思うと心配だよ」
悠を見つめる敬の様子に、暁は彼らの辿ってきた苦難の道を思った。
――五つの、小さな、運命の、卵……。
暁は、手を握り締めた。
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