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第二章 足枷 1

「ねぇ」  可愛い声がする。 「ねぇ……」  幼い。 「ねぇって」  少年の声。 「ねぇ……」 「あのなぁ、瞬」  困ったような、少し大人びた声。 「ここんとこ毎日言ってるだろ。もうちょっと待てって」 「待ってるよ! もう一週間も待ってるよ!」  声は強情だった。 「でも、まだ目を覚まさない!」  苛立ちを隠そうともしない、幼さが愛しい。 「もう傷は完全に治ってる。もうちょっとだよ」  違う声が優しく窘めた。 「声が……、悠の声が聞きたい……」  小さく呟く声は涙で濡れていた。  ――泣かないで。 「大丈夫だよね? 本当に大丈夫だよね?」 「あぁ、もちろん大丈夫だよ」  ――泣かないで。 「手、冷たいよ」  ――泣かないで、瞬。  温かく柔らかい物が肌に触れた。  その瞬間、悠の周りの暗闇が急速に退いていった。  明るい、温かい、心地良い。悠は強ばった指先に、僅かに力を入れた。 「あ……」  耳元で驚きの声があがった。くすぐったい。  尚も指を動かすと、ギリギリとイヤな音を立てて関節が動く。まるで油切れのロボットだ。 「ユウ?」  ためらいがちな瞬の声がする。  その呼びかけに応えるように、悠は目を開けた。 「ユ……」 「おはよう」  そう明るく声を掛けたつもりだったが、声は思うような音声にならず掠れた気味の悪い物になった。  だがそれでも瞬の涙腺を緩めるには充分だったようだ。  大きな瞳から、蛇口を捻ったように涙が溢れ出てきた。 「ユウ、悠、悠……!」  その涙を拭おうと、軋む腕を上げて瞬の頬に指を滑らせた。涙は、まるで湯のように温かい。  と、瞬の声に、全員が悠の周りにどっと押し掛けてきた。 「起きられるか?」  そう言って最初に顔を覗き込んだのは、やはり敬だった。悠が頷くと、首から肩へ腕を差し入れ悠の上体を抱え上げる。  すかさず脇から水の入ったグラスを差し出された。こちらは涼だ。  大して咽せることもなくグラスに五杯の水を飲み、ようやく悠は落ち着いて周りを見回した。真は泣きそうな顔をしているし、瞬は既に泣いている。  悠は、やっと、 「心配かけてゴメンね」  と言って笑った。  暁は改めて驚きの目で悠を見ていた。彼のことで驚くのは一体何度目だろう。  悠は今、暁の目の前に立っている。  一週間の眠りから覚め、一リットル近い水を飲み干した後、ゆっくりとではあるが立ち上がったのだ。  さすがに最初はふらついて、構えていた涼に抱きかかえられたが、すぐに「歩き方を忘れてたよ」と笑って窓辺まで歩いた。  それから、一週間前に折った腕や足の部位を押さえたり捻ってみたりして、その傷が完治していることを皆に証明して見せた。  確かに悠の傷は完治していた。 「たった一週間で……」  暁の呟きは悠に届いたようで、悠はニッコリと笑って暁に言った。 「ちょっと長くかかっちゃった」 「長く……」  まだ声は掠れ気味だが、ほかは至って良好のようだ。一週間の絶飲食で相当やつれて見えるものの、頬は桃色に色づき、怪我の前よりも却って健康そうに見える。 「にいちゃん。アキ兄ちゃん」  ぼんやりと悠を見ていたら、脇から袖を引かれた。真だった。 「お、なんだ?」  真は少しはにかんだ顔で暁を見上げている。悠のことで喜びをどう表現して良いか、戸惑っている風にも見えた。 「あのね、悠、一週間なんにも食べてないでしょう? ……何か作ってあげようよ」  言われてやっと暁は現実に引き戻された。真の言うとおりだ。 「あー……そ、そうだよな」  自分の動揺ぶりに呆れながら、暁は指示を出し始めた。  ――早くいつもの自分に戻らなければ……。 「よし、俺は買い出しに行ってくる。悠に旨い物作ろうな」 「うん!」  真の声が弾む。久しぶりに明るい声が部屋を満たしていく。 「あれ、瞬は?」  真が言った。瞬だけがなぜかおとなしい。  暁が不思議に思って見回すと、瞬は、座ってにこにこしている悠の傍らで、悠にぎゅっとしがみついていた。 「瞬?」  暁が声を掛けると、代わりに悠が答えた。 「もうしばらく、このまま」  時折、瞬の肩がしゃくり上げるように動いた。悠が瞬の頭を優しく撫でるのを見て、暁が言った。 「あぁそうだな、それじゃ敬と俺と二人で買い出しに行ってくる」 「うん、行ってらっしゃい!」  敬は真や悠に手を振ると、晴れやかな顔で暁の後に続いた。  後に残されたのは、四人。 「一度に賑やかになったな」  涼も笑顔だ。 「横になってなくて大丈夫か?」  その涼の言葉に、びくりと反応したのは瞬だった。心配そうに悠の顔を下から見上げる。  だが悠はけろりと笑い飛ばした。 「一週間も寝てたから飽きちゃったよ」 「悠……」 「ごめんごめん。それより涼、お願いがあるんだけど」 「何? お願い?」 「うん、お風呂に入りたいんだ」 「はぁ? 風呂ォ?」 「着替えを持ってきてほしいなーって。ほら、僕の服とかさ」 「……」 「一週間もお風呂に入ってないと、体中べとべとなんだよね。」  そう言いながら、悠は涼に片目を瞑って寄越す。察しのいい涼は、悠の真意にすぐに気付いた。席を外せと言っているのだ。 「分かった。下に行って着替えを探してくるから、マコも来い」 「え、僕も? なんで?」 「なんででもいいから、来いって!」  と、引きずるように真を連れ出した。  扉が閉まってから少しして。  瞬が顔を上げた。 「悠」 「ん?」 「あの……」  悠の手は、瞬の髪を撫で続けている。 「落ち着いた?」 「……うん。泣いてばっかりで、ごめん、なさい」  恥ずかしいのか、視線を合わさずに瞬が言う。 「ねぇ瞬?」 「……はい」 「何か僕に言いたいこと、あるよね」  瞬は驚いて悠の顔を見たが、すぐに俯いてしまった。  仕方なく、悠は瞬を抱く腕に力を込めた。 「ゴメンね。心配かけて」  腕の中で瞬が小さく首を振る。  だが悠は、今回の一件が瞬の心にひどい傷を残したのではないかと恐れていた。  瞬は一番間近で暴力を見た。血だらけの悠を見、その原因が自分にあると思っている。 「手、怪我しちゃったんだね」  悠が、未だ腫れの引かない瞬の手を取った。 「こんなの、悠の傷に比べたら……」 「傷は比べるものじゃないよ」  そうして、その手にそっと唇を寄せた。 「まだ腫れているなんて、ヒビでも入ったのかな」 「……ん、たぶん……。でも、ちゃんと動くし、……平気」 「君に傷一つだって、付けさせたくなかったのに」  ゴメンね、と小さく続ける。瞬が頭を振った。ぬるい飛沫がまた溢れて飛んだ。 「目は?」  瞬が言った。 「暁が言ってた。目が悪くなるかもって」 「あぁ……」  一瞬、どうやって誤魔化そうかと思ったが、すぐにそれをうち消した。瞬は聡い。誤魔化せば、それだけ後で傷つけることになりかねない。  悠は正直に答えた。 「ちょっと見えないかな」  途端に瞬の体が強張る。  ――あぁ、やっぱりこの子は自分を責めている。  悠は愛しさで胸がいっぱいになった。この思いをどうやったら腕の中の子供に伝えることができるだろう? 「大丈夫だよ」 「だって!」 「見えないって言っても、ホントにちょっと薄暗いだけ。瞬の可愛い顔も、ちゃんと見えてるよ」  嘘ではなかった。瞳孔を調節する神経が少々麻痺しているようで多少明るさは足りないが、目に結ばれる像の鮮明さには何ら問題はない。 「それより、ねぇ瞬」 「……」 「ずっと、僕に謝っていたね」 「……」 「僕が眠っている間、ずっと君の声が聞こえていたよ。ごめんなさい、ごめんなさい、って」  瞬はしばらく黙っていた。悠は瞬が話し出すまで待った。  と、瞬はもぞもぞと悠の腕の中から抜け出し、きっちりと正座をして話し出した。 「上手く、言えないけど……」 「うん」  悠は、手持ち無沙汰になってしまった腕を膝の上に投げ出して、瞬に向き直った。 「あの、あの時……」  瞬はその小さな手をぐっと握りしめた。そして息を吸い込む。 「僕がいたから、悠が逃げられなくて、僕がいたから、あんな痛いこと、されて……」 「……」 「それなのに、僕の怪我はちょこっとで、悠ばっかり、痛い思いをして……」 「あのね、瞬」 「……」 「たぶんあのとき、君がいてもいなくても、僕は逃げられなかったと思う。あれだけ人がいたし、僕の力はもう真を逃がした時点でいっぱいいっぱいだった」 「……」  瞬の大きな目が、悠を見つめている。眦に引っかかって零れそうになっている水滴を、悠がそっと指で受け止めた。 「僕が生きて戻れたのは、君のおかげなんだよ。……君を守りたい一心で、僕は耐えた」  あの時、あの部屋の扉を開けた瞬間を、悠は思い出していた。  背中を滑り落ちる冷たい汗の感覚、堅い鉄の扉。  怖かった。大切な命が奪われたのかと。自分が遅すぎたのかと。その時のことを思うと、悠は足下がすぅっと冷えるのを感じた。  ――大丈夫。大丈夫だ。瞬は無事にここにいるじゃないか。 「悠」  瞬は、不意に黙ってしまった悠を首を傾げて見つめていたが、ふと思いついたように身を乗り出した。 「僕、すぐに大きくなるから」 「……?」 「早く大人になる。それで、強くなる。誰にも負けないくらい、強くなる。強くなったら、僕、かわりに……」  最後まで言わせず、悠が小さい身体を抱き寄せた。 「ユ――」 「代わりなんて、ならなくていい」 「ユウ……?」  悠はそれ以上何も言わない。  きつく抱きしめられて、瞬からは悠の顔が見えない。  瞬は、自分が何か不味いことを言ったのかと不安になったが、それにしては悠は怒っている様子でもない。 「あの。僕、何か変なこと言った?」  その問いに、悠は頭を振った。  瞬は、悠の態度に解せない物を感じたが、とにかくこの話題はやめておくことにした。痛む手に気をつけながら、そっと悠の首に腕を廻す。 「悠」 「ん」 「元気になってよかった」 「うん」 「悠」 「うん?」 「大好き」 「……うん」  腕の中の瞬は、ひどく温かい。  あの夢の中の小鳥が、今ここにある。泣き腫らした目の瞬を見て、悠は思う。  自分を好いてくれて、必要とされて、大事に思われて。だから、自分は生きていても良いんだと。  物心ついた頃自分の不思議な力に気付いた。  頭で念じるだけで物を引き寄せることが出来た。転んで怪我をしてもすぐに治ってしまった。  母の顔はもう覚えていないが、悠が力を使った時の彼女の、驚きと恐怖の入り交じった表情だけははっきりと覚えている。  その顔を見た時、悟った。  ――ここにいてはいけない。  不思議なことに、そう悟ってからは戸惑いも、寂しさも迷いも無くなってしまった。  自分の力が何なのか、それすら知らなかったのに。この人の前から消えようと、それだけを何の疑いもなく思った。  その後、家を出てから悪いこともした。汚いこともした。死ぬような目にも何度も遭った。敬達と出会う前も、出会った後も。  でも、どんなひどい傷を負っても、すぐに治ってしまう。  まるで死ぬことは許さないと誰かに言われているような気がして、悠は気分が悪かった。  今回の傷もそうだ。  刺されて殴られた最初はとても怖かった。痛みよりも、自分に向けられている不当な憎しみの方が恐ろしかった。  しかし責め苦が続く内に、それもどうでも良くなってしまった。  死にたいわけではない。けれど、他に何もない自分だから。  『大好き』と言ってもらえる、それだけで。  生きていてもいいかなと、――生きていたいと、思う。 * 「異常に発達した治癒能力か」 「詳細はまだ不明ですが」  所長が手にしているのは数枚の紙だった。不鮮明な写真が数葉添付されている。  それにざっと目を通した後、所長はその束を机上に放った。クリップで留められただけの紙がひらりと広がる。 「他には」 「敬に、瞬間移動の能力が認められます。涼は、物体の温度を操作できるようですが、こちらも詳細は……」 「検査結果は」  そう問われて、机の脇に立っていた女性所員が手元の書類を繰った。 「三人とも、身体機能に関して同年齢の子供との差違は特に認められませんでした。能力としては、悠にサイコキネシス、微弱な予知能力が見られましたが」 「ふぅむ」  所長が深い息を吐いた。検査結果に不満のようだ。しきりに顎を撫でる仕草をしている。 「敬と涼の能力に関しては、追々調べる機会を作ろう。まずは悠の事を知りたい」 「承知いたしました」 「問題はどうやるかだな」 「もう一度、一号室の者にやらせますか」  部屋の中央に立つ所員が言う。  だが所長は首を振った。口の端に笑みを載せている。 「そんなことになったら、今度は暁が殺して廻るだろう。さて、どうするか……」  広いデスクに肘をつき、指を組み合わせて考え込む。 「悠だけを引っぱり出すのは難しいかと」  所員の言葉にちらりと一瞥をくれると、所長は重々しく頷いた。 「敬と涼が邪魔だな」  そう言いながら宙を睨む。沈黙が流れた。 「所長、実は別件がもう一つあるのですが」  話を切り出すタイミングを計っていたのだろう。中央に立っていた所員が、脇に抱えていた分厚い書類を差し出して言った。 「何だ」 「今朝送られてきました。至急とのことです」  所長は紙束を受け取ると、迷わずその中ほどを開いた。しばらく文字の上に目を走らせていたが、その顔を上げた時、顔には不気味なほどの満面の笑みが広がっていた。

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