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第二章 足枷 2
その日は土曜日だった。
暁が学校から戻った時、部屋は甘い匂いで満たされていた。
「あ、お帰りー」
見れば、敬が台所に立ってフライパンを揺すっている。子供達は目を輝かせて敬を見つめているし、悠と涼はその様子を面白そうに眺めていた。
「何だ?」
暁が鼻をひくつかせて訊いた。どことなく郷愁を誘う、この甘い匂いは。
「今朝ね、食堂の……遠藤さんだっけ? あの人が内緒で卵とバターを分けてくれたんだ。で、俺が学校の帰りにパンケーキの素を買ってきたってわけ」
敬が火加減を見ながら言った。
「おかげでもう、子供らの熱烈な視線を浴びちゃって」
敬はフライパンを右手に、皿を左手に持つと子供達の方をちらりと見た。
軽く揺すり上げるように手を動かす。と、中のパンケーキがくるりと宙を舞って、見事左手の皿に着地した。子供達が一斉に拍手と歓声を敬に送る。
「どうもどうも」
敬は大仰な身振りで、その歓声に応えた。
「はい、どうぞ。まだあるから、慌てるなよ」
黄金色のケーキを、二人に切り分ける。可愛らしい声が揃うと、途端に部屋は静かになった。
「暁は? 食べるよね?」
敬は、もう次の種をフライパンに流し込んでいる。が、暁からの返答は、ない。
敬が顔を上げると、暁はぼんやりと子供たちの顔を見ていた。
よくよく見ると、彼はまだ靴すら脱いでいない。
「アキラ?」
改めて敬が声を掛けると、ようやく暁は我に返った。
「あ、ゴメンゴメン。ぼーっとしてた」
「甘い物、苦手だった?」
「いやそんなことよ。旨そうだなー」
言いながら、やっと暁は靴を脱いで部屋に上がった。
「真、零してる。そんなに零すんなら、俺がもらうぞ」
笑って真の背後から皿に手を伸ばす。途端に真が悲鳴を上げた。
が、真が兄の手を叩き落とすより早く、暁の手が皿からケーキの端切れを浚い上げた。そのまま口に放り込む。
「ん、うまい」
「あー、アキ兄っ!」
「ははは、怒るなよ。後で俺の分をやるからさ。敬、俺の分も頼むな」
暁は制服を脱ぐと手早く着替えた。
壁に据え付けられた棚の脇には二着の詰め襟が仲良く並んで掛けてある。自分の制服をその隣に掛けると、二人の制服が少しだけ小さく見えて、暁は微笑んだ。
「あ、そうそう」
暁が言った。
「なぁ、来週からもう冬休みに入るだろう?」
その言葉に、涼が壁のカレンダーを見た。
「あぁ、うん」
「俺、冬休みの初日から三日間、泊まりがけでバイトなんだ。ちょっと留守にするけど良いかな」
「三日も?」
暁は少々決まり悪そうに笑うと、言った。
「ちょっと遠いらしいから」
「了解。いいよ、こっちのことは大丈夫」
敬が言った。手には湯気の立つ二つのカップがある。それを子供達の前に並べると、年長の三人の方へとやってきた。
「ごくろうさん」
「いえいえ。バイトって?」
「売り子。年末だし、店のセールで狩り出されるんだろ」
そう言うと、まるで興味がないように話を打ち切り、暁は壁に凭れた。
なぜか先刻と同じような複雑な表情を浮かべながら、子供達の後ろ姿を眺めている。
子供達は楽しそうに肩を寄せ合って、食卓を囲んでいた。瞬が何か冗談を言うと、真がくすくすと笑う。暁は、何も言わずに彼らをじっと見つめていた。
「暁?」
それまで黙って話を聞いていた悠が、暁に声を掛けた。
「どうしたの?」
「……」
だが暁は返事をしない。
「アキラ」
悠が暁の手の中にそっと自分の手を滑り込ませた。
「……アキ……」
「いつまで」
暁は視線を動かさず、一人ごちた。
「いつまで俺は……」
不意に、悠の手がきつく握り締められた。
「大丈夫?」
悠が暁の顔を覗き込む。
すると同じくらい唐突に、悠の手は解放された。
「ゴメン、なんでもない」
そしてそれきり、不可思議な表情をどこかに押し込めてしまった。
*
一週間後の週末。
暁は夜明け前に起き出していた。もちろん、子供達はまだ眠っている。
簡単に身支度を整え、少しの着替えを詰めた鞄を手に取る。そして、一人一人の寝顔を見て回ると、そっと部屋を滑り出た。
十二月の朝だ。森の奥にある研究所では、冷え込みも一段と厳しい。
暁は、薄い上着の襟元を掻き合わせると部屋の前を離れ、暗い廊下を辿った。階段を下り、玄関ホールに出ると扉を開けた。
外は今まさに夜明けを迎えようとしていた。冷たいが新鮮な空気が暁の頬を撫でる。その空気を胸一杯に吸い込むと、彼は外へ一歩を踏み出そうとした。
と、後ろから追いかけてくる足音がする。音は、軽い。
暁が振り返ると、駆けてくる小さな白い影があった。悠だ。
「暁」
小さな声が、まっすぐ暁の元へ届いた。
「どうした」
だが悠は答えず、そのまま暁の胸に飛び込んできた。
「ユ、ウ?」
暁の腕の中の悠は、いつにも増して小さく頼りなく感じる。
まだ眠りから目覚めたばかりの温もりを残すその体を、思わず強く抱きしめた。薄いシャツ越しに悠の体温を感じる。
「風邪引くぞ」
「暁」
「うん?」
悠の髪がすぐに冷気を含んだ。悠の小さな体など、あっという間に凍えてしまいそうだ。
まずは悠を部屋に連れて戻ろうと、暁が腕を緩めた時だった。
「無事に――」
悠が顔を上げ、暁の目をまっすぐに見て、言った。
「無事に帰ってきてね」
一瞬、暁の体が強張った。その台詞を笑い飛ばすこともできないほど悠の顔は真剣だった。
「暁、ずっと様子がおかしかったから」
「……」
「僕、聞かないよ。暁が言いたくなるまで、何も聞かないから。だから――」
そこまで言うと、悠は暁の胸に顔を埋めた。
「無事に帰ってきて」
悠の体から僅かな震えを感じ取って、暁はもう一度、悠を抱く腕に力を込めた。
――震えているのは……怯えているのは……どっちだ?
暁は冷たい空気を胸に吸い込むと、同じだけの時間を掛けてゆっくりと吐き出した。そして言った。
「約束する。必ず、帰る」
腕の中の悠が、こくり、と小さく頷いた。
「さ、ほんとに風邪を引くぞ。部屋に戻って、布団に潜り込め」
暁が、ぽんぽんと悠の肩を叩いて悠を離すと、ようやく悠の顔に笑みが浮かんだ。
「うん」
「よし」
そう言って暁が悠の肩に手を廻そうとしたが、悠がそれを遮った。
「大丈夫。一人で戻れるよ」
「悠」
「油断はしてないから。部屋まではすぐそこだし」
そう言って、大袈裟に胸を叩いてみせる。
暁はわずかに逡巡したが、出立の時間が迫っていることを思い出した。
「気を付けろよ」
「うん。……行ってらっしゃい」
「……行ってくる」
暁が悠の頬に手を滑らせると、悠の笑顔がそれに応えた。
奥深い森の木々の、そのわずかな隙を縫って零れ来る陽光が悠の笑顔を照らし出す。陰りのない彼の微笑みを、暁は愛しく、そして美しいと思った。
だが暁は短く言葉を切ると、悠に背を向けた。
後ろは振り向かなかった。
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