10 / 37
第二章 足枷 3
最初に目覚めたのは、真だった。寒さで鼻が痛い。
すん、と鼻をすすり上げてから時計を見ると、七時を少し廻っている。
後しばらく、誰かが起こすまでは暖かい布団にくるまっていようと、真は寝返りを打った。
と、その時、隣の布団が空であることに気付いた。
隣には悠が寝ていたはずだ。
「ユウ?」
トイレだろうか、と真は思ったが、部屋のどこからも物音は聞こえてこない。
真は体を起こすと、改めて部屋を見回した。もう一つ既に畳まれた布団が隅にある。これは暁の布団だった。
暁が出かけることは真も知っていた。だが悠がいなくなる理由に思い当たる節はない。
真はそっと敬の布団まで躙り寄ると、彼を揺り起こした。
「敬、敬」
と、すぐに敬が目を覚ました。
「……? どうした」
敬の声に、寝ぼけたような音はない。
「悠がいないよ。どこに行ったか知ってる?」
途端に敬が跳ね起きた。
「いない? いつから?」
「わかんない。僕が起きた時はもういなかった」
言いながら、不安そうにちらちらと時計を見る。
敬はそれ以上何も言わず、脇で眠る涼を蹴り飛ばした。
「起きろ」
静かだが張りつめた敬の声に、すぐに涼も飛び起きた。
「どうした?」
涼も、今し方まで眠っていたとはとても思えない反応を返す。
敬は悠の寝床を探っていた。温もりはあるが、冷めかけている。
「出て三十分ってところだな」
「鍵が開いてる。暁なら鍵を掛けていったはずだ」
涼が言う。敬が頷いた。
「考えられるのは、暁の後を追って行ったって事ぐらいだけど……」
「まさかついて行くはずはないな」
「あぁ……万一そうでも、鍵は掛けていくだろ。すぐに戻るつもりだったんだ」
それを聞いて涼が目を細めた。
「つーことは、だ」
「行こう。真、俺達が探してくるから、鍵掛けて寝てなさい。いいね」
真は大きな目を見開いて、敬を見ている。
「先に行くぞ。俺は二階を探す。お前は一階を頼む」
「わかった」
涼の指示に答えながら、敬は真を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ。暖かくして、風邪引かないようにな」
真が頷くと、敬も涼の後を追って部屋を飛び出していった。
*
研究所は、北棟と南棟とに分かれている。
敬達があの雨の日にくぐった玄関はその中間に位置し、玄関から左右に延びる廊下が二棟を繋いでいた。
三階建てだが、最上階は所長の個人的な区域だという。
敬達六人の部屋は、南棟二階の一番奥に位置していた。
涼は、二階の北棟の端まで行くと、一番奥の部屋のノブに手を掛けた。
この部屋は、例の子供たちの溜まり場となっているはずだ。もし悠が捕まったとして、この部屋に連れ込まれる可能性が一番高い。
遠くで足音が聞こえたが、その音は階段を下っていった。敬だ。
涼は足音を聞きながら、祈るような気持ちでノブを廻した。鍵は掛かっていない。
一瞬の躊躇いの後、涼は一気に扉を押し開いた。
*
敬は階段を駆け下りた。
階段の正面は、玄関ホールになっている。
ホールには、誰もいない。
そこからは左右に廊下が延び、右手に行けば南棟の食堂、左手に行けば北棟の共同風呂やリネン室、洗濯室や物置がある。
敬は、まず左手に向かった。
この時間には、もちろんどの部屋も開いていない。
その他北棟にあるのは、研究所の職員が日中詰めている事務室と、使われていない布団の積まれた物置、そして空き室が二部屋だけだ。
悠がこの北棟にいる確証などなかったのだが、それでも彼が先に北棟に廻ったのには、訳があった。
南棟の一番奥は食堂で、他に空き室が三部屋、物置が一つある。
問題はその空き部屋だった。食堂のすぐ脇の部屋は、悠がさんざんに痛めつけられ、生死を彷徨った、あの部屋なのだ。
あれ以来、敬は部屋の中に入っていない。食堂へ行く時も出来るだけ顔を背け、足早に通り過ぎるようにしていた。
それほど、あの光景は敬の心に大きな傷を残していた。
――もう、あの部屋には近づきたくない。
*
その部屋には、饐えたような臭いが充満していた。湿気とカビと、埃と、そして、タバコの煙の臭い。
涼達の部屋とは、中庭を挟んでちょうど反対側に位置している。部屋の作りも、彼らの部屋と対称になっているようだ。
涼がぐるりと見回すと、ほとんど使われた形跡のないシンクがあった。普段、彼らがどこで寝起きしているのか、そういえば知らない。
ここは端部屋のため三方向に窓があるが、どの窓にもぐちゃぐちゃに折れ曲がったブラインドが下ろされ、部屋は薄暗い。
部屋の隅には埃が厚く積もったままだ。その白い上に、点々と黒い何かの足跡を見つけた。おそらくネズミか何かだろう。
部屋は畳敷きだったが、所々に焼け焦げた後が見える。タバコの吸い殻や、何かの包み紙、潰された空き缶や茶色い染み。
涼は、暖かさの欠片もないその部屋に吐き気を覚えた。が、胸のむかつきを無理矢理に押さえつけると、気を取り直して部屋の中へと足を踏み入れた。
埃の上に残る数多の足跡を一つ一つ検分していく。
例の少年達は、全員が涼や敬程の体格と聞いている。多少の差はあったが、床の上に残された足跡は、いずれも悠の物より幾分大きな物ばかりであった。
「ここには来ていないみたいだな」
涼が安堵の息を漏らした、その時。
涼の背後で微かな物音がした。同時に、涼が動く。
振り向きざまに飛びずさると、身を低く屈め、相手の一撃に備え顔面を庇う。が、そこにいたのは、ひょろりとした男だった。
男は、涼の迫力に気圧されて目を白黒させている。
「あんた、確か……」
涼にも見覚えがある男だ。涼達の身体測定の時に見かけた、研究所の職員である。
「何か俺に用ですか」
涼は警戒を解かないまま、男に問うた。
が、当の男は全く意に介さないようだ。最初の驚きが去ると、後は淡々とした表情で口を切った。
「所長がお呼びだよ」
「……は?」
「所長がお呼びだよ」
男は同じ事を繰り返した。
「何で所長が?」
このくそ忙しい時に、と言う台詞は飲み込んだ。
「さぁね。俺は君を捜してくるよう仰せつかっただけだから」
男は事実だけを言っているようだ。それだけを言うと、くるりと後ろを向いて部屋を出た。
が、二、三歩歩いたところで立ち止まると、涼の方を振り向いた。
「ほら、早くしてくれよ」
付いてこい、と言うことらしい。
「俺、今忙しい――」
「そんなこと知らないよ。連れて来いって言われてるんだから。君を連れていかないと、俺が叱られるんだよ」
男は言いたいことだけを言うと、再び後ろを向いて歩いていってしまった。
涼は、男に付いていこうか、それとも探索を続けるか一瞬躊躇ったが、所長の機嫌を損ねると後々やっかいなことになりそうだ、と判断した。
――敬が見つけてくれただろうか。
祈るような気持ちで、涼は男の後を追った。そして、禁断の三階へと足を踏み入れた。
*
敬は南棟の、食堂のある廊下の突き当たりまで行くと、その部屋の扉の前に立った。
ここまですべての部屋を当たったが、幸か不幸か悠の痕跡は何も無かった。ここが最後だ。
悠が倒れていたあの部屋。中から物音はしない。だが敬は気を抜くことなく、ノブに手を掛けた。
使われていない部屋には鍵を掛けないのが、この研究所の流儀らしい。この部屋にも鍵は掛かっていなかった。
敬は、ゆっくりと扉を開けた。
「……いない」
悠を見つけられなかった失望と、それから僅かな安堵に敬は膝が挫けそうになった。
朝方の薄暗がりで、壁や天井の血痕はよく見えない。
さすがに畳は入れ替えられたらしく、まだ新しい藺草の香りが敬の鼻に届いた。
しかし、その香りの中に混じって、あの日の悠の血の臭いがする。
――気のせいかもしれない。気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、あの日の記憶を振り払おうとしても、五感に染みついた恐怖が膨れ上がる。
――手の中で今にも途切れそうな、かすかな鼓動。
――弱々しい呼吸の音。
――血の臭いと、鮮血の赤。
――。
――フラッシュバックだ。
崩れそうになる膝を押さえつけたが間に合わず、敬は床に座り込んでしまった。
――ダメだ。今はこんなことをしている場合じゃない!
目の前にちらつく幻影を追い払おうと、敬が大きく首を振った、その時。
敬は背後から、突然肩をたたかれた。
ともだちにシェアしよう!

