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第二章 足枷 3

 最初に目覚めたのは、真だった。寒さで鼻が痛い。  すん、と鼻をすすり上げてから時計を見ると、七時を少し廻っている。  後しばらく、誰かが起こすまでは暖かい布団にくるまっていようと、真は寝返りを打った。  と、その時、隣の布団が空であることに気付いた。  隣には悠が寝ていたはずだ。 「ユウ?」  トイレだろうか、と真は思ったが、部屋のどこからも物音は聞こえてこない。  真は体を起こすと、改めて部屋を見回した。もう一つ既に畳まれた布団が隅にある。これは暁の布団だった。  暁が出かけることは真も知っていた。だが悠がいなくなる理由に思い当たる節はない。  真はそっと敬の布団まで躙り寄ると、彼を揺り起こした。 「敬、敬」  と、すぐに敬が目を覚ました。 「……? どうした」  敬の声に、寝ぼけたような音はない。 「悠がいないよ。どこに行ったか知ってる?」  途端に敬が跳ね起きた。 「いない? いつから?」 「わかんない。僕が起きた時はもういなかった」  言いながら、不安そうにちらちらと時計を見る。  敬はそれ以上何も言わず、脇で眠る涼を蹴り飛ばした。 「起きろ」  静かだが張りつめた敬の声に、すぐに涼も飛び起きた。 「どうした?」  涼も、今し方まで眠っていたとはとても思えない反応を返す。  敬は悠の寝床を探っていた。温もりはあるが、冷めかけている。 「出て三十分ってところだな」 「鍵が開いてる。暁なら鍵を掛けていったはずだ」  涼が言う。敬が頷いた。 「考えられるのは、暁の後を追って行ったって事ぐらいだけど……」 「まさかついて行くはずはないな」 「あぁ……万一そうでも、鍵は掛けていくだろ。すぐに戻るつもりだったんだ」  それを聞いて涼が目を細めた。 「つーことは、だ」 「行こう。真、俺達が探してくるから、鍵掛けて寝てなさい。いいね」  真は大きな目を見開いて、敬を見ている。 「先に行くぞ。俺は二階を探す。お前は一階を頼む」 「わかった」  涼の指示に答えながら、敬は真を安心させるように微笑んだ。 「大丈夫だ。暖かくして、風邪引かないようにな」  真が頷くと、敬も涼の後を追って部屋を飛び出していった。 *  研究所は、北棟と南棟とに分かれている。  敬達があの雨の日にくぐった玄関はその中間に位置し、玄関から左右に延びる廊下が二棟を繋いでいた。  三階建てだが、最上階は所長の個人的な区域だという。  敬達六人の部屋は、南棟二階の一番奥に位置していた。  涼は、二階の北棟の端まで行くと、一番奥の部屋のノブに手を掛けた。  この部屋は、例の子供たちの溜まり場となっているはずだ。もし悠が捕まったとして、この部屋に連れ込まれる可能性が一番高い。  遠くで足音が聞こえたが、その音は階段を下っていった。敬だ。  涼は足音を聞きながら、祈るような気持ちでノブを廻した。鍵は掛かっていない。  一瞬の躊躇いの後、涼は一気に扉を押し開いた。 *  敬は階段を駆け下りた。  階段の正面は、玄関ホールになっている。  ホールには、誰もいない。  そこからは左右に廊下が延び、右手に行けば南棟の食堂、左手に行けば北棟の共同風呂やリネン室、洗濯室や物置がある。  敬は、まず左手に向かった。  この時間には、もちろんどの部屋も開いていない。  その他北棟にあるのは、研究所の職員が日中詰めている事務室と、使われていない布団の積まれた物置、そして空き室が二部屋だけだ。  悠がこの北棟にいる確証などなかったのだが、それでも彼が先に北棟に廻ったのには、訳があった。  南棟の一番奥は食堂で、他に空き室が三部屋、物置が一つある。  問題はその空き部屋だった。食堂のすぐ脇の部屋は、悠がさんざんに痛めつけられ、生死を彷徨った、あの部屋なのだ。  あれ以来、敬は部屋の中に入っていない。食堂へ行く時も出来るだけ顔を背け、足早に通り過ぎるようにしていた。  それほど、あの光景は敬の心に大きな傷を残していた。  ――もう、あの部屋には近づきたくない。   *  その部屋には、饐えたような臭いが充満していた。湿気とカビと、埃と、そして、タバコの煙の臭い。  涼達の部屋とは、中庭を挟んでちょうど反対側に位置している。部屋の作りも、彼らの部屋と対称になっているようだ。  涼がぐるりと見回すと、ほとんど使われた形跡のないシンクがあった。普段、彼らがどこで寝起きしているのか、そういえば知らない。  ここは端部屋のため三方向に窓があるが、どの窓にもぐちゃぐちゃに折れ曲がったブラインドが下ろされ、部屋は薄暗い。  部屋の隅には埃が厚く積もったままだ。その白い上に、点々と黒い何かの足跡を見つけた。おそらくネズミか何かだろう。  部屋は畳敷きだったが、所々に焼け焦げた後が見える。タバコの吸い殻や、何かの包み紙、潰された空き缶や茶色い染み。  涼は、暖かさの欠片もないその部屋に吐き気を覚えた。が、胸のむかつきを無理矢理に押さえつけると、気を取り直して部屋の中へと足を踏み入れた。  埃の上に残る数多の足跡を一つ一つ検分していく。  例の少年達は、全員が涼や敬程の体格と聞いている。多少の差はあったが、床の上に残された足跡は、いずれも悠の物より幾分大きな物ばかりであった。 「ここには来ていないみたいだな」  涼が安堵の息を漏らした、その時。  涼の背後で微かな物音がした。同時に、涼が動く。  振り向きざまに飛びずさると、身を低く屈め、相手の一撃に備え顔面を庇う。が、そこにいたのは、ひょろりとした男だった。  男は、涼の迫力に気圧されて目を白黒させている。 「あんた、確か……」  涼にも見覚えがある男だ。涼達の身体測定の時に見かけた、研究所の職員である。 「何か俺に用ですか」  涼は警戒を解かないまま、男に問うた。  が、当の男は全く意に介さないようだ。最初の驚きが去ると、後は淡々とした表情で口を切った。 「所長がお呼びだよ」 「……は?」 「所長がお呼びだよ」  男は同じ事を繰り返した。 「何で所長が?」  このくそ忙しい時に、と言う台詞は飲み込んだ。 「さぁね。俺は君を捜してくるよう仰せつかっただけだから」  男は事実だけを言っているようだ。それだけを言うと、くるりと後ろを向いて部屋を出た。  が、二、三歩歩いたところで立ち止まると、涼の方を振り向いた。 「ほら、早くしてくれよ」  付いてこい、と言うことらしい。 「俺、今忙しい――」 「そんなこと知らないよ。連れて来いって言われてるんだから。君を連れていかないと、俺が叱られるんだよ」  男は言いたいことだけを言うと、再び後ろを向いて歩いていってしまった。  涼は、男に付いていこうか、それとも探索を続けるか一瞬躊躇ったが、所長の機嫌を損ねると後々やっかいなことになりそうだ、と判断した。  ――敬が見つけてくれただろうか。  祈るような気持ちで、涼は男の後を追った。そして、禁断の三階へと足を踏み入れた。 *  敬は南棟の、食堂のある廊下の突き当たりまで行くと、その部屋の扉の前に立った。  ここまですべての部屋を当たったが、幸か不幸か悠の痕跡は何も無かった。ここが最後だ。  悠が倒れていたあの部屋。中から物音はしない。だが敬は気を抜くことなく、ノブに手を掛けた。  使われていない部屋には鍵を掛けないのが、この研究所の流儀らしい。この部屋にも鍵は掛かっていなかった。  敬は、ゆっくりと扉を開けた。 「……いない」  悠を見つけられなかった失望と、それから僅かな安堵に敬は膝が挫けそうになった。  朝方の薄暗がりで、壁や天井の血痕はよく見えない。  さすがに畳は入れ替えられたらしく、まだ新しい藺草の香りが敬の鼻に届いた。  しかし、その香りの中に混じって、あの日の悠の血の臭いがする。  ――気のせいかもしれない。気のせいだ。  そう自分に言い聞かせ、あの日の記憶を振り払おうとしても、五感に染みついた恐怖が膨れ上がる。  ――手の中で今にも途切れそうな、かすかな鼓動。  ――弱々しい呼吸の音。  ――血の臭いと、鮮血の赤。  ――。  ――フラッシュバックだ。  崩れそうになる膝を押さえつけたが間に合わず、敬は床に座り込んでしまった。  ――ダメだ。今はこんなことをしている場合じゃない!  目の前にちらつく幻影を追い払おうと、敬が大きく首を振った、その時。  敬は背後から、突然肩をたたかれた。

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