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第二章 足枷 4

「で?」  不機嫌を隠さず、涼は目の前の男に向かった。 「俺に何の用ですか」  相手はもちろん、所長だ。涼が部屋に通されるとすぐに、件の所長が姿を現した。しかも、今日はすこぶる上機嫌に見える。 「わざわざ来てもらって申し訳なかったね」  初日のあの所長と同じ人間とは到底思えない。所長はとても感じのよい笑みを浮かべながら、涼に椅子を勧めた。 「結構です。早く用件を言って下さい」  涼は立ったままいかにも不機嫌な様子で腕を組んでいる。しかし実のところ所長のプレッシャーに負けまいと必死だった。  虚勢を悟られないよう上辺を取り繕っていたが、所長にはすべてお見通しだった。  ――まったくカワイイものだ。 「君にちょっとお願いがあってね。なに、簡単なことなんだよ」  そう言って、所長は濃いコーヒーを啜った。 「ちょっとした検査に協力して欲しいのだ」 「検査なら最初に入所した時に済ませました」 「いやいや」  所長は笑顔を絶やさない。その笑顔に不自然さは感じられなかった。 「もっと本格的な検査でね。ちょっとここの施設では出来ないんだ。それで……」 「お断りします」  間髪を入れず涼が返答した。が、それでも猶、所長の笑顔は崩れない。 「まぁそう返事を急がずに」 「急ぐんですよ、俺は」  涼は相手のペースに巻き込まれないよう、必死に堪えている。 「検査は国の機関の方で行われる事になっていてね。なぁに、そんなに仰々しい検査じゃないんだが、施設と時間と金のかかる検査なんだよ」 「ですから、俺は――」 「検査には二日程かかるそうなんだが、日程が押しているから、君にはすぐに発ってもらわないと――」 「所長!」  ついに、涼が声を上げた。 「俺はこんな所であなたの都合に付き合っているヒマはないんですよ。あいつを捜さないと!」 「あいつ?」  初めて、所長が声色を変えた。 「あいつとは?」 「悠ですよ。あなたが、一番最初の日に見放した」  涼は精一杯の嫌みを込めたつもりだったが、所長は軽く受け流した。 「あぁ、彼か! あの時は済まなかった。先ほども悠君に、先日のことを謝罪していたところだったんだよ」 「……はぁ?」  涼は開いた口を塞ぐことが出来なかった。今、所長はなんと言った? 「悠は……」 「うん? 悠君かね? 彼なら今、別室で私の仕事を手伝ってもらっているが」 「ちょ、ちょっと待って下さい、悠がここにいるんですか?」 「あぁ、そうだよ。なんだ、君が必死になって探していたのは彼だったのかい?」  所長はまたも楽しげに笑った。が、涼には笑うどころではない。 「なんで……っ」 「急を要する仕事があって、人手が足らずに困っていたんだが、その時ちょうど廊下にいた悠君を見かけてね。頼んで手伝ってもらおうと」 「そういうことは早く言って下さい! 今、本当にここにいるんですね?」 「もちろんだよ」  涼は所長の顔色を窺った。だがやはりその真意は、厚い皮膚と狡猾な筋肉に阻まれて判断できない。 「会わせてください」  ――断られたら、一暴れだな。  涼は覚悟したが、意外にもあっさりと、それは受け入れられた。 「あぁ。構わないよ」  所長は軽い調子で言うと、傍らの男に合図を送った。男は小さく頷くと、涼が入って来たのとは別の扉から姿を消した。 「呼びにやったから、すぐに来るよ。……それで検査についてなのだが――」  だが涼はもう何も聞いていなかった。  自分の手元を離れているというだけでこんなにもも不安になるものなのか、と、涼は半ば腹立たしかった。自分はもっと大人だと思っていたのに。これでは親とはぐれた子供と同じじゃないか。  苛々と頭を掻きむしる。と、先刻の扉が再び開いた。男に引き連れられて姿を現したのは、紛れもない、悠だった。 「悠!」  だが悠は返事をしなかった。青ざめた顔で、強ばった笑みを張り付けている。  ぎくしゃくと口を開いたが、音も発せないまま再び口を閉じてしまった。  涼はすぐに悠の元へ駆け寄った。 「突然いなくなるから心配したんだぞ」  言いながら悠の肩に手を置く。悠の体は、涼の手よりも冷たかった。 「こんな薄着で……」  足元を見ると悠は裸足だった。こちらもすっかり血の気を失っている。シャツにジーンズという姿の悠は小さく震え続けていた。 「連れて帰ります」 「それは困る。悠君には大事な仕事を手伝ってもらっているんだ」  しかし涼も引き下がらなかった 「そんなに大事な手伝いをさせるのなら、もっとこいつを大事に扱ってくれませんか」  それだけを吐き捨てるように言うと、涼は悠の手を取ろうとした。  ところが。  悠が、それを拒絶した。 「いいんだ。僕……所長の手伝いをしなくちゃ」 「おい、ユ――」 「心配しないで」  悠の笑顔は、まるで能面だった。録音されたような言葉が唇から流れ出てくる。 「まさか、何か脅さ――」 「涼」  ぴしり、と、悠の声が涼を遮った。 「大丈夫だから。君がいない間、僕と敬で、あの子たちの面倒は見られるから……ね」  そういうと、悠はゆっくりと涼の胸に顔を埋めた。 「心配かけてごめんね」  悠が呟く。もう、涼が口に出来る言葉は一つしかなかった。 「……わかった」  悠の肩に置かれた涼の手に力がこもる。が、すぐに悠は解放された。 「所長の言う通りにします」 「そうか、よかったよ。それじゃすぐに手配を――」  所長は俄に、忙しそうに電話をかけ始めた。  悠も涼も、お互いに視線を逸らせずにいる。  自分にテレパシーの能力があればと、涼は歯噛みした。  だがそのまま二人は口を開くこともなく、やがて悠は再び男に促されて、扉から姿を消した。 「さぁ、急いでくれたまえ! 新幹線の予約はもう取ってあるからな。駅までは所員に送らせる。先方の研究員が駅まで出迎えてくれるはずだから、心配はいらない。それから――」  所長は忙しなく言葉を繋いでいる。  涼は、一番に言いたかったことを飲み込んだ。 *  敬の反応は、やはり一瞬遅れた。  肩に置かれた手を撥ね除け、そのまま手首を掴み上げて捻り込み、相手の体ごと床に叩きつける。  相手は武器を持っていなかった。  ――刃物があったら今頃俺は……。  思ったよりも小柄なその人物を押さえ込みながらも、敬は背中に冷たい汗が滑り落ちるのを感じた。 「ちょ……、痛っ……」  ゲホゲホと咳き込みながら、敬の腕の下の男が呻いた。 「急に何する……っ」  敬にも見覚えのある男だ。何度か、見かけたことのある職員だったことに気付く。  敬がゆっくり戒めを解くと、男はぶつぶつと文句を言いながら起き上がった。 「酷いじゃないか、いきなり!」 「す、すみません」  敬が助け起こすと、男は一気にまくし立てた。 「所長が呼んでるよ。用事があるんだって。出来るだけ早く、敬って子を連れて来いって言われたんだけど、君が敬だよね? 所長が待ってるから早くしてよね。早く行かないと、所長って怒るとものすごく怖いんだ。わかった?」 「……」 「わかった?」 「……はい」  勢いに押されて返事をすると、ようやく男は気が済んだのか口を閉じた。ちらりと腕時計を確認し、敬の腕を強く握る。 「ちょ、自分で行け――」  そう言い募るも、男にギロリと睨まれて黙る。  敬は半ば引きずられるように部屋を出た。そのまま階段を行き、三階へと連れて行かれる。  男の手は意外なほどに強く、徐々に腕が痺れてきた。 「離して」  くれ、と言おうとして、男の背にぶつかった。男が急に立ち止まったのだ。 「お前、何でここにいるんだ」  男が言った。敬にではない。敬が男の背後からのぞき見た、その先にいたのは、あのタダシだった。敬が息を呑んだ。 「おい」 「うるせぇな。呼ばれたんだよ」 「本当か?」 「そいつ、連れてくんだろ? 俺が行く」  男は躊躇っているようで、しばらくの間タダシを見つめていたが、やがて敬の腕を放した。 「奥の部屋だ」 「分かってるよ」  男は敬を前に押し出した。今度はタダシに腕を取られる。 「いい、ちゃんと行くから……」  敬が言ったとき。突然、敬の身体がぞわりと粟立った。思わず腕を振りほどこうとしたが、がっちりと捕らえられて思うようにいかない。 「なんだ、震えてんのか?」  小馬鹿にしたようにタダシが言う。 「違うっ」  タダシの触れているところが、気持ち悪い。ざわざわと肌の奥に何かが這うような不快感に、抑えきれない震えが走った。 「吠えるなって。今は何もしねぇから」  唇の端に嘲笑を乗せて、タダシが言う。 「じゃぁ、頼んだぞ」  男はもう敬に興味を失ったようで、タダシに引き渡すとさっと踵を返して行ってしまった。 「行くぜ」  タダシは敬の意志などお構いなしに、ぐいぐいと引っ張る。  先ほどの不快感は、腕から始まって、徐々に身体を浸食し始めていた。一見普通の青年に見えるのに……この男は何者なのだろう。  敬が黙ったままでいると、タダシが口を開いた。 「こうやってホイホイ付いて来るんだな」 「な……、あんた達が引っ張って来たんだろう」 「まぁ、俺たちも所長は怖いしな」  ――怖い? この男が?  この前悠を殺しかけたのは、この男だ。野獣たちの頭。そんな者でさえ所長を恐ろしいという。  いったい所長とは何者なのだろうかと、初めてこの研究所を訪れた日のことを考えていると、前を行くタダシがくるりとこちらを向いた。 「お前の所のあのおじょーちゃん。もう治ったんだってな」  突然話を振られて、返事に詰まる。 「すげぇな、こんなに簡単に治るんなら、もっと痛めつけてやれば良かった」  タダシが顔を歪めた。笑っているのだと分かるのにしばらく掛かる。 「お前、が」  敬は酷く息苦しさを感じた。相手の毒々しい笑みに、言葉まで飲み込まれたような気がする。 「なんだ、俺の後ろを大人しく付いてくるから、知らねぇのかと思ったぜ」  そう言って、笑った。敬の頭に、急激に血が上る。 「そうだよ、俺がやった。刺したら、おキレイな血が噴き出して。顔の割に強情で嬲り甲斐があったな。チビの方はぎゃんぎゃん泣くばっかりでつまらねぇ」  あの時のことを思い出しているのか、タダシは恍惚とした表情で自分の唇を触った。 「痛いの我慢してさ、悲鳴上げる代わりに体がビクビクするんだぜ」  暁が言ったとおりだった。この男は、悠をただの玩具としか見ていない。 「どうして……」 「あぁ?」 「どうしてあんな、あんな酷いこと――!」  敬は、怒りに突き動かされるように前に出た。タダシに掴みかかろうとする。  だが次の瞬間、敬の指は空を切った。 「え」  眼前にいたはずのタダシの姿が、消えた。そして、後ろから首を絞められた。 「ぅぐ、っ!」  ――今、何が起こった?  その疑問は、すぐに氷解した。 「お前も瞬間移動の力、持ってるって聞いたけど?」  耳元で笑いを含んだ声が問う。  ――そうか、こいつも俺と同じ……。  タダシは腕でがっちりと敬の首を締め上げている。息が、出来ない。 「――跳んで、逃げれば?」  出来ることならとうにそうしている。だが、敬の力はコントロールできるような代物ではない。ただの偶然でしかない。 「つまんね。大したことないのな」  敬は、締め上げられた腕に弱々しく爪を立てることしかできない。やがて目の前の光景が歪み、霞んできた。このままここで殺されるのか、そう思ったとき。  彼は唐突に解放された。  肺に新しい空気がどっと雪崩れ込み、激しく咳き込む。 「殺さねぇよ。所長がお前を要るって言ってんだから、今は殺さねぇ」  腕を捻られ、崩れ落ちた身体を引きずり上げられる。 「自分がどれだけ弱いか、よく分かったか?」  敬は反論しようと口を開いたが、出てくるのは喉を潰された苦しげな呼吸だけだ。 「殺されたくなきゃ、イイコで大人しくしてな。……ほら、そこだ」  ずるずると座り込みそうになる敬を、タダシは無理矢理扉の前に立たせた。 「黙ってハイハイ言ってりゃ、頭から食いちぎられることはないだろうよ」 「どういう意――」 「入んな」  敬の問いかけには答えず、後ろから小突いて促す。渋々ノブを捻ると、タダシは敬を後ろから突き飛ばした。  敬は、室内へと放り込まれた。  そこには、所長と悠、それに何人かの白衣の男がいた。  悠が眼を丸く見開いて、こちらを見ている。  敬は敬で、悠を凝視していた。頭が回らない。なぜ目の前に悠がいるのか咄嗟に理解できないでいた。 「敬……」  先に悠が口を開いた。 「大丈夫? 顔色が……」  そう言って触れようとする指が、なぜか途中でびくりと止まった。血の気のない指は、しばらく宙を彷徨った後、行き場を失って下へと垂れ下がる。  そこまで来て、敬はようやく自分が悠を探していたことを思い出した。 「ユ、ウ? どうしてこんな所に――」  間の抜けた問いかけに答えたのは、悠ではなく所長だった。  滔々と語られる言葉は涼に向けられた物と同じだったが、敬の耳にはまったく届かない。酸欠のせいだろうか、それともタダシの毒気に当てられたからだろうか。彼はただぼんやりと悠を見つめるだけだ。  普段の敬なら、悠の様子がおかしいことにも気づけかもしれない。だが敬は上手く働かない頭を一つ振ると、訳の分からないうちに所長に頷いた。  視界の端で、悠が一瞬泣き出しそうに見えた。  悠はなぜそんな顔をしているのだろう? 何か心配なことでもあるのだろうか。そう問おうとして口を開いたが、それより先に悠が言った。 「――待ってます」  そう言って微笑むと、それきり口を噤んでしまった。  敬は重ねて聞くことも出来ず、大きくうねる波に押し流されるように、その部屋を追い出された。  後には悠だけが一人、残された。

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