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第三章 実験 1

 悠は、腕の痛みに目を覚ました。  だが自分の置かれている状況が飲み込めない。  椅子に座っていることは分かったものの、目を開けていると視界がぐるぐると回り始め、ひどい吐き気と頭痛に襲われる。  慌てて目を閉じ、代わりに痛む腕を何とかしようと身じろぎしたその時、悠は自分の腕が後ろ手に拘束されている事に気づいた。  少し動かすと軽い金属音がした。手錠のようだ。椅子の背に回るように両手がつながれている。椅子につながれているかは……分からない。足は拘束されていない。  この状況を何とか改善しようと、悠は上半身を動かしてみた。が、相変わらずのひどい吐き気と思ったよりも固い拘束に、体勢を立て直すことすらままならない。上手く明るさを調節できない悠の目には、その部屋は暗すぎた。広さすらもよく分からない。悠の知らない部屋だ。窓もない。足に触れる床の冷たさは、畳ではない。  立ち上がって、なんとかこの不自由な態勢から逃れよう。  そう思って悠は足に力を込めた。体が椅子から離れる……次の瞬間、悠の足は突然力を失った。  そのまま椅子ごと床に横倒しになる。  激しい音が、暗い部屋に響いた。 「うっ……ぐぅ……っ」  強かに肩を打ち付けた。息が詰まる。足は、床に投げ出されたままがくがくと震えていた。  ――薬……?  それまで必死に押さえ込んでいた吐き気が、肩の痛みとともに再び悠を襲う。  悠はたまらず、激しく咳き込みながら、胃の中の物を吐き出した。  と、その時。部屋の扉が開いた。 「気が付いたか」  椅子の倒れた音が、外まで響いたのだろう。  悠は霞む目で男を見上げた。今まで一度も見たことのない、がっちりした体躯の男が、横たわる悠の側に立っている。 「薬がきつかったか?」  そう言うと、男は悠を軽々と持ち上げた。手錠がかかったままの悠の腕をとり、立たせようとする。  しかし悠の足は言うことを聞かず、くたりとその場にへたり込んでしまった。  男は小さく舌打ちすると、悠を部屋の隅へと引きずって行った。  部屋の隅には、小さな洗面台があった。  男はその蛇口を勢いよく捻ると、迸る水流の中に悠の顔を突っ込んだ。 「ぐ……はっ!」 「顔を洗え」  そして、悠の背後から彼を抱え上げると、両手で胃の辺りを押さえ上げた。 「や……やめ……」  男は、とにかく全部吐かせてしまいたいらしい。  男が強く押さえると、悠はたまらず残りの胃液までを吐き出した。 「吐けるだけ吐け」  言われるまでもない。  悠は時間をかけてすべてを吐ききると、脂汗と胃液と涙に汚れた顔を流れる水で洗い流し、ようやくまっすぐに立つことが出来るようになった。 「水は飲んだか」 「……」  今この状態で水を入れたら、また戻してしまいそうだ。 「水を飲めば、薬が消える」  男はそう言い、顎をしゃくった。飲めというのだ。  ――自分で薬を嗅がせておいて……!  そう、悠はようやく思い出していた。  暁を見送った後、部屋に戻るその直前の扉の前で、いきなり悠は背後からこの男に押さえ込まれたのだ。  抵抗しようにも彼はあまりに非力だった。何とか男の手の甲に引っ掻き傷は残したが、それきり声を上げる間もなく薬を嗅がされ、この部屋に連れてこられた。  悠はきつく男を睨んだが、相手は全く意に介さず悠の側へ歩み寄った。そのまま悠の髪を鷲掴みにする。 「言うことは聞いておけ」  そう言って、男は再び悠の頭をシンクの中に突っ込んだ。すかさず上から冷水を浴びせかける。 「……!」  声にならない悲鳴とともに、冷水がどっと悠の気管に雪崩れ込んでくる。  悠は内臓を絞り上げるように激しく咳き込んだ。 「分かっ……離……て……!」  それだけをなんとか口に出す。それは男の耳にも届いたようで、男は責め苦を中断した。 「飲んだか?」  男は尚も問う。咳き込みながらも悠が頷くと、男はようやく悠の頭から手を離した。 「世話を焼かすな」  男は、再びへたり込みそうになる悠の腕を捕らえ、無理矢理に立たせた。  悠は水責めと薄着のせいでがたがたと震えている。そんな悠の姿が男の目にどう映ったのか。  男はそれ以上何も言わず、再び悠の腕を掴み上げると扉の外へと引きずり出した。そのまま廊下の右手へ歩き出す。 「ちょ……どこ、い……く……!」  その悠の問いかけも途切れ途切れだ。男は有無を言わさず、悠を引きずって歩き続ける。  後ろ手に手錠をかけられたままの腕が、引き千切られそうに痛む。 「離せ!」 「キンキン喚くな」 「離せってば!」  藻掻いて男の拘束から逃れようとするが、男はがっちりと悠の腕を捕らえたまま少しの隙もない。  代わりに冷えて感覚を失った足を床に取られ、よろめいて腕を捻り上げてしまった。またも激痛に息が詰まる。  そんな悠を見ようともせず、 「おとなしくしていろ」  とだけ言って、男は立ち止まった。  普通の扉だ。男が開けると、石鹸と消毒液の混じった匂いがした。 「入れ」  男が先に悠を中に入れた。その理由はすぐに分かった。  この部屋はリネン室なのだろう。壁一面に作りつけられた棚には、タオル類を始め、ガーゼ、白衣、包帯などの布類がぎっしりと納められていた。  部屋の天井はそれほど高くなく、広さもない。悠を連れてきた男が入るには、少々窮屈なほどである。  案の定、男は部屋の外に立ったまま悠に言った。 「脱いで、着替えろ」 「……」 「脱げ、と言ったんだ」 「これで?」  呆れたように、言ってやる。 「これでどうやって脱げって言うんですか」  と、後ろを向いて、ずっと悠の腕を繋いだままの手錠を見せた。 「外してもらわないと、脱げませんよ」  男はもう一度小さく舌打ちすると、忌々しそうに懐から小さな鍵を取り出した。 「変な気を起こすなよ」 「あなたがそこにいちゃ、出たくても出られませんよ」  悠がそう言った途端、手錠が外された腕を男に捻り上げられた。 「ぅ……」 「生意気言うなよ、嬢ちゃん」  男の声が、すぐ耳元で囁かれる。 「所長のお声掛かりでなきゃ、こんな細腕握りつぶしてやる」 「……やれば?」  悠も負けじと睨む。だが、男はそれ以上何もせず悠を解放した。 「さっさと済ませろ」 *  冷え切った体を温める間もなく、ぶかぶかのシャツとスウェットパンツを着せられて、悠はまた男に連れ出された。  次の行く先は、悠にもおおよその見当が付いていた。  男に腕を取られながら、ぺたぺたと冷たい廊下を歩く。男はもう手錠をかけなかった。  先ほどのリネン室から少し先の扉の前で、男がもう一度立ち止まった。 「おい」 「……」 「忠告しておく」 「今更……」 「黙って聞け! いいか、命が惜しかったら……」  男はそこで一旦言葉を切った。が、すぐに小さな声で続けた。 「命が惜しかったら、所長の前でさっきのような態度はとるな」  悠は、驚いて男の顔を見上げた。 「なにを――」 「所長は……恐ろしいぞ」  それきり男は口をつぐんだ。 「どうも」  悠が小さく答えると、男はそれを合図に目の前の扉を開けた。

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