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第三章 実験 2
悠が通されたのは、銀色の機械が並ぶ部屋だった。
それほど広くはない。悠たちの部屋二つ分ほどだ。天井も壁も真っ白に塗られている。床は暗緑色のラバー製だ。
壁の白さに目を射られ、悠は思わず目を細めた。
入ってきた扉とは別に扉が二つ。部屋の中央には簡素なスチールの寝台が一つ。そして一番目を引いたのは、悠の正面の壁の中央上部にはめ込まれたガラスだった。
ガラスは一見して分厚いことがわかる。
ガラスの向こうは照明が落としてあったが、こちらの部屋と同じだけの広さがあることが見て取れた。その中では、白衣の人物が数人、忙しなく動き回っている。顔までは判別できなかったが、男も女もいるようだ。
と、悠の腕を握ったままの男が壁のブザーを押した。途端にガラスの向こうの動きが止まった。
全員が悠の方を凝視している。悠の背に、ぞくり、と悪寒が走った。
反射的に男の陰に身を隠そうとしたが、逆に男に腕を捻り上げられ、そのままガラスの前に歩み出る格好になってしまった。
「うぅ……っ」
鈍い痛みが左腕に走る。ついさっきまでとは違う。男は本気だ。
このまま腕を折られる……、悠がそう思った時、唐突に部屋に声が流れ出た。
「離してやれ」
男の声だった。悠はその声を一度だけ耳にしたことがあった。
――所長だ……。
あの時、初めて研究所にやってきた時、悠は夢うつつの中で所長の声を聞いていた。
男は所長の命令にすぐに従った。悠の腕を解放する。声が続けた。
「悠君、自己紹介が遅れたね。私がここの所長だ」
声は部屋の隅のスピーカーから流れていた。悠は目を細めて暗い部屋を見やった。ガラスの中央に、ひときわ恰幅のよい人影が映っている。
その様子を見て取って、所長は楽しげな口調になった。
「そうだよ、君の目の前にいる」
「僕に何のご用ですか」
どうせ聞こえるはずがないと思いつつも、悠は言葉に出して問うた。と、意外にも返事が返ってきた。
「君について知りたくてね」
この部屋にもマイクロフォンが設置してあるらしい。
「知っての通り、当研究所では国の助成を受けて、人間の持つ特殊かつ希少な能力について、厳密に、そして客観的に調査研究している……この話し方でも意味は通じるね?」
最後の問いには、頷くことで返事を返す。
「よろしい。君の知能は最初に調べさせてもらったよ。なかなかの結果だ。もちろん知能指数が高いだけでは、ただ賢い事とイコールではないがね。君の学習能力、習熟度、判断力、すべての要項から総合的に判断して、君とは『大人の会話』をしたいと思っているし、それができると信じているよ」
所長は淀みなく言葉を並べてくる。その表情は厚いガラスと暗闇に阻まれて読み取れない。悠にとって圧倒的に不利だった。
「……つまり、取引ですか」
「結構!」
悠はその形のよい眉を顰めた。
「私は君の能力が知りたい。そのためには、多少の無理をしてでもと思っている。単刀直入に言おう。君が全面的に協力してくれるなら、君の大事なルームメイトの検査は紙の上だけのモノだ」
「わかりました」
間髪を入れず、悠が答えた。所長もその返答は意外だったようで、しばらく声が途切れた。
「素直なのはいいことだ……だが……」
「僕は駆け引きは苦手です。あなたが何をするつもりなのか、僕にはわかりません。でも取引をするだけの危険とその見返りがあるんでしょう?」
悠には、ガラスの向こうの所長が肩を竦めたように見えた。
「その通りだ」
「口約束ですか」
「我々の間の契約に、書面など不要だろう?」
「あなたが約束を守るという保証はありますか?」
「それは私を信頼してもらうしかないだろうねぇ」
所長の声には、明らかな嘲笑が含まれていた。意図的な物なのか、それともこの男の癖なのか。
「君には、我々の検査対象、実験台になってもらう」
ガラスの向こうの陰が動いた。歩きながら、所長は続けた。
「あらゆる検査だ。下界なら、人権保護団体からクレームが来そうな内容の調査だがね」
所長の声が揺れた。笑っているのだ。
「だが君は大事な対象だ。生命の危険に及ぶまでのことは無いだろうから安心したまえ」
所長の声を聞きながら、悠はひどく冷静だった。最初の驚きと恐怖が去ると、後に残ったのはただ一つ、諦めだけだった。
「なにかね?」
黙る悠に、所長が言う。ため息をつきたかったが、代わりに別のことを尋ねた。
「僕がいなくなれば、他のルームメイトが気付きますよ」
「あぁ、そのようだな。君たちは……本当に仲がいいようだ」
そういって一旦言葉を切ると、所長は近くの男を二人呼び寄せた。何事かを耳打ちする。男たちはすぐに部屋から姿を消した。
「その友情を利用させてもらうのだから、この馬鹿馬鹿しい関係にも利用価値があるというものだ。さて」
と、悠の目の前の扉が音もなく開いた。
「この部屋で、治療を受けてくれ」
「治療?」
「君の手首……だいぶ暴れたようだね」
「あぁ、手錠の」
「まったく、跡が残らないようにしろとあれほど言っただろう」
最後の台詞は悠に向けられた物ではなかったらしい。
悠の背後に控えていた男の気配が揺らいだ。
「申し訳あり――」
「もういい、おまえは職務に戻れ」
「はい」
男は短く返事をすると、そのまま部屋から出ていった。
「改めて、治療を受けてくれたまえ。今から君にやってもらいたいことがある」
「……」
「君に関して、邪魔な人物がいるのは分かるね。そう、君と一緒に収容されたあの二人は君の保護者気取りだ。どうも今現在も、君を探して館内を駆けずり回っているらしい」
所長が笑う。悠は、たまらず呻いた。
「あの二人に乱暴なことは……!」
「あぁ、分かっているとも。君の検査の間、ちょっとよその施設へ行ってもらうだけだ。だがおそらく、素直には聞かないだろう」
悠は再び目を閉じ、静かに息を継いだ。仕方ない、仕方ないのだ。
「君には彼らを説得してもらいたいんだが、その格好で出ていっては、彼らに疑念を抱かせるだけだと思わないかね」
「わかりました」
そう言うと、悠は所長の返事も待たず、隣の部屋へと足を向けた。もう何も聞きたくなかった。
*
別室で治療を受けた後、傷跡を隠すような厚手の長袖シャツに着替えさせられた。それからまた別の男に連れられて治療室を出る。
そのままどこをどう歩いたか、廊下の突き当たりにあるエレベーターへ乗せられた。エレベーターはすぐに上昇を始める。
エレベーターが止まったのは、悠にも見覚えのあるフロアだった。
――研究所の……三階?
今までのフロアとは違う、固い絨毯張りの廊下が続いている。あの日、朦朧とした意識の中、この廊下を通った。
――ということは、今までいたのは、地下研究所……ってことか……。
悠は初めてこの建物の構造に合点が行った。
研究所とは名ばかりの、子供たちだけが暮らす居住空間。普段立ち入ることのない三階に何かあるのかと考えたこともあったが、建物の広さから言ってもそれはあり得なかった。研究施設が入るには狭すぎるのだ。
だが研究所の心臓部は、地下にあった。悠が歩いた限りでは、地下研究所は地上の建物よりも広い面積に及んでいるようだ。エレベーターの表示によると、地下数階まであるらしい。
これだけの施設を、数人の研究員だけで使っているということはないだろう。悠たちが今まで見た研究員は、表向きの人員なのだ。だが、表の建物では、それだけの人数の出入りを見たことはない。
――別の所に入り口があるんだな。
悠がぼんやりとそんなことを考えていると、悠をここまで連れてきた男が、先を促すように悠を小突いた。
向かうのは、おそらく所長の部屋。
そしてそこにいるのは……。
最初は涼だった。
「悠!」
悠が所長の部屋に入るや、涼は悠の元へ飛んできた。
「突然いなくなるから心配したんだぞ……」
だが悠はまともに涼の顔を見ることが出来なかった。
悠にはポーカーフェイスなど無理だ。目を合わせれば、すべてを知られてしまう。そんな漠然とした恐怖を、悠は感じていた。
「こんな薄着で……」
涼の温かい手が、肩に置かれる。悠は思わず身を固くした。
――何かを悟られてしまっただろうか?
だが幸いにも、悠の体の震えが、すべてを押し隠していた。
「連れて帰ります」
涼が言う。
「それは困る。悠君には大事な仕事を手伝ってもらっているんだ」
「そんなに大事な手伝いをさせるのなら、もっとこいつを大事に扱ってくれませんか」
そう言って、涼は悠に手を伸ばした。
帰りたい。
心の声がそう叫ぶ。
けれど悠は、無理矢理にその声を押し込め、涼の手を遮った。涼が驚いた顔を悠に向ける。
悠の視界の端で、所長がにやりと笑った。
「いいんだ。僕……所長の手伝いをしなくちゃ」
「おい、ユ――」
「心配しないで」
――僕は上手く喋ることが出来ているのだろうか?
「大丈夫だから。君がいない間、僕と敬で、あの子たちの面倒は見られるから……ね」
覚悟は決めたはずなのに。涼の顔を見たら、その決意も簡単に揺らぐ。
ちゃんと涼を見ろ。――笑え!
悠は、辛うじて笑みを浮かべた。
――大丈夫、大丈夫……。
涼はしばらく困惑した様子で悠を見つめていたが、やがて、出立を了承した。
*
「……まぁまぁか。だいぶぎこちない演技だったがな」
涼が発った後、所長が言った。
「まぁいい。とりあえず三日間消えていてもらえればいいことだ」
「本当に、二人に危険はないんですね」
悠が念を押すと、所長は嘲笑するように言った。
「外部の連中に一体何が出来ると言うんだね? 計器を捏ねくり回して時間を浪費するのがオチだ。そんなことよりも次の事を心配したまえ」
そして、こう続けた。
「失敗は許さないからそう思え」
*
敬は、最初から様子がおかしかった。
それがなぜなのか、悠には理由が分からなかった。敬は悠の姿を見ても状況が飲み込めないようで、しばらくぼんやりとしていた。
何かあったのだろうか。何かされたのだろうか。悠の心がざわめく。
ろくに言葉を交わさないうちに二人の間に所長が割って入り、涼と同じく、敬にも検査のことを通達した。
悠は、涼に語ったことと全く同じ台詞を繰り返した。
「大丈夫だから。君がいない間、僕と涼とで、あの子たちの面倒は見られるから……」
だが本当にあの子供たちは大丈夫なのだろうか。
敬と涼が消え、悠は拘束され、暁は遠い地にいる。敬も涼も、それを知らない。
二人はこれから部屋に戻ることも許されず、直接職員に連れられて研究所を出て行くはずだ。
子供たちは何も知らされず三日間を過ごすことに……。
「悠?」
顔を上げると、そこには気遣わしげな敬の顔がある。
今、敬にすべてを語ったらどうなる? 子供たちだけは生き延びることが出来るのか?
だがその時、あの大男の言葉が脳裏によみがえった。
『命が惜しかったら、所長の前でさっきのような態度はとるな』
――命が惜しかったら。
『所長は……恐ろしいぞ』
――あぁ……。
「……なんでもない」
悠は、精一杯の笑顔を敬に向けた。
――僕は、僕の出来る限りのことをしよう。それが……。
「待ってます」
それが、どんな結末を迎えようとも。
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