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第三章 実験 4

 悲鳴は、上げなかった。  麻酔をかけないままの悠の腹をメスが裂いた時、悠は唇を噛み切ることで耐えた。  それが唯一の、そして最後の抵抗だった。  口元から溢れた血液が顎を伝う。血圧と心拍数を計る電子音が、うるさいほどに耳に付く。  だがメスが皮膚の更に奥を探りはじめた時、悠の喉はあっけなく、悲鳴と許しを求める言葉を絞り出していた。 「痛いか?」  遠くで所長の声がする。その単純な問いさえも意味が分からず、悠は激痛に翻弄されていた。  涙が勝手に溢れ、全身から冷たい汗が噴き出す。 「痛いか?」  もう一度問われ、悠はようやく頷き返した。 「その割に心拍数が安定しているな……。ショックはないのか?」 「血圧もまだ正常値内です。痛みに強いのでしょう」  所長の脇で、モニターをチェックしていた所員が答えた。 「……」  所長は無言だった。続けろということなのだろう。  白衣の男たちは、痛みから逃れようとする悠を押さえつけ、なおも切り口を広げていく。  悠は、酸素を求めて大きく喘いだ。  気を失えればどんなに楽だろう。気が狂うほどの激痛。メスが動くたびに、悠の体が魚のように跳ね上がった。 「う……ぐぁ……!」  首を振って痛みから逃れようとすると、別の男に頭ごと押さえつけられた。  血が溢れ、体を伝って零れて行くのが分かる。  内臓を晒されても、悠は意識を手放すことが出来なかった。それどころか、五感がどんどん冴え渡って行く。  血が滴り、床に血溜まりを作る音が聞こえる。  唇から溢れた血の、錆びた鉄のような味や、涙の塩辛い味。  噎せるほどの血の臭いと、男たちの白衣から漂う漂白剤の匂い。  悠の体の奥で悠を苛み続ける、メスの冷たい感触。  そして、暴かれた内臓を見つめる、所長の視線。  悠は頭を押さえつける手を振りほどくと、ガラスの壁を見た。所長は今、間違いなく悠を見ている。  言葉を発しようと口を開けたが、代わりにひときわ大きな悲鳴が口をついて出た。 「ひ……ぃぁぁぁ……っ!!」  メスはもう、悠の胸までを切り開いていた。 「すごいな……まだ意識があるのか」  所長が独りごちた。  と、実験室内部でメスを握っていた男が驚いたように手を止めた。  ガラスの向こうの所長に顔を向ける。何かを伝えたいらしい。 「なんだ?」  白衣の男は悠の腹部……一番最初にメスを入れた辺りを、盛んに指さしている。  所長は手元のモニターを注視した。  別段変わったところはないように見える。 「どうしたというんだ」  所長が苛だたしげに言うと、男はマスクの奥からくぐもった声を出した。 「術創が、塞がっていきます!」 「……!」  言われて改めてモニターを見る。と、確かにゆっくりではあったが、下から徐々に傷が塞がって行くのが見て取れた。 「まさか、これほどの回復力とは……!」  悠の回復能力について予備知識のあった所長ですら、驚嘆の声を上げた。  まるで悠の命を守るべく、他の生命が悠の体に宿っているようなそんな錯覚にさえ陥る。 「どうしますか」  男の問いかけに、所長はてきぱきと指示を与えた。 「鉗子で切開した部位を押さえておけ。ぐずぐずしていると、全部塞がるぞ。それから、切開のスピードを上げろ」  男は無言で頷くと、悠の体へと意識を戻した。  そして、塞がりかけた傷を再び開き、鉗子で固定する。  ふと、所長は先ほどから悠が声を上げなくなったことに気づいた。  男たちのメスが悠の体を捌いても、呻き声さえ上げない。  いい加減気を失ったのかと、所長は悠の顔を見た。  悠の焦点の合わない目が、それでも猶所長の方を見ている。 「何か言いたいことがあるのか?」  所長の問いに、悠は小さな声で、こう告げた。 「……殺して……くださ……い」  それだけを言うと、ようやく悠は気を失った。 *  痛い。  体中が、鈍い痛みと鋭い痛みとで悲鳴を上げている。  痛くて、痛くて、痛くて。だが、それにも増して、眠い。眠れば痛みが消えていくことを、悠は経験で知っていた。  一瞬でも早く、この苦しみから逃れたい。  それなのに誰かが悠の邪魔をした。乱暴に肩を揺すり、頬を叩く者がいる。 「……おい、起きろ、おい!」  思いやりのかけらもなく揺すぶられ、仕方なく悠は目を開けた。  目の前の人物が誰なのか……分からない。ぼんやりとする目で見つめてしばらく考えたが、やはり知らない男だった。男はやかましい声で悠に言った。 「所長のお話だ! 起きろ!」  ――所長? 所長が何の用?  なおも働かない頭の中で、所長という単語が何度もこだまする。  何だろう、この感覚は。手足の先から体温を奪うように、冷たい恐怖が忍び寄ってくる。  ――所長……、所長に僕は……。 「まだ覚醒していないようだな」  所長の声がした。 「まぁいい……悠君」  聞こえているのかいないのか、ぼんやりと所長を見上げる悠に、所長が言った。 「これから私の言うことをよく覚えておけ」  所長は、ベッドに横たわる悠の、その瞳を覗き込むように身を屈めた。 「いいな?」  悠は訳も分からず頷いた。 「よし。……今回、君の心臓にちょっとした細工をさせてもらった」 「しん……ぞ……」 「そうだ。これが見えるかね?」  所長が悠の眼前に付きだしたのは、小さなチップだった。大きさは……悠の小指の爪半分ほど。  悠は焦点の合わない目でそれを追ったが、諦めて首を振った。 「これはな、君の心臓に食い込んでいるんだ。君がこの研究所の敷地内から出ようとすると、このチップが信号を受信する」  そう言って、所長はもう一つ、手のひらに乗るくらいの機械を見せた。 「そうすると、どうなるかな?」  悠は、また小さく首を振る。 「分からないか?」  所長はにやりと笑うと、手元の機械のスイッチを押した。  途端に悠の体が大きく跳ねた。 「う……あぁぁあっ!」  突然起こった苦痛に、悠は必死になって胸を掻きむしった。  どこが苦しいのかすら、今の悠には分からない。手術の傷跡もまだ完全に塞がっていない部位に爪を立て、皮膚を裂いて苦しみから逃れようとする。  悠の白い手が、真っ赤な血に染まった。 「や……めてぇぇ!!」  心臓を握り潰されるような痛みが悠を襲う。息が出来ない。  やがて悠が四肢を突っ張らせ、激しく痙攣を始めたのを見て、所長がようやく手元のスイッチを切った。 「あぁ……ぅ……」 「分かったかね?」  所長は、顔色一つ変えずに悠を見下ろしていた。 「君は、ここから出ようとすると、文字通り、死の苦しみを味わうことになる」  悠は所長を睨むことも忘れ、荒い息の下でただ呆然と、彼を支配しようとする暴君を見つめている。 「返事は?」  促されて、悠は抵抗する事なく頷いた。 「よろしい」  所長が言うと、それが赦しだったかのように、悠は再び気を失った。 * 「所長」 「何だ」 「おそらく、あの状況では彼は何も理解できていなかったかと……」 「それで?」 「よろしいのですか?」  所長はデスクの上の煙草に手を伸ばし、一本取り上げると口に銜えた。  そして、火を付けようとする手を止め、言った。 「どうせ後で思い知ることになる」  吐き捨てるような口調で所長が言うと、脇に控えていたその男はびくりと身を竦めた。 「……申し訳ありません」 「で、悠はその後どうだ」 「心電図には特に問題はありません。心拍数、血圧もともに正常です。術創は……」  そこで男はカルテと思しき書類を捲った。 「縫合なしで、術後三時間で完全閉鎖したそうです」 「内臓は」 「綴じた後でも、レントゲンでは特に異常は見つかっていません」 「分かった」  そう言うと、所長は煙草に火を付けく深く煙を吸い込んだ。 「では、今後のご指示を」  男はペンを片手に所長の指示を待っている。  所長は、もう一度煙を吸い込むとゆっくり吐き出し、部屋の時計にちらりと目を走らせてから言った。 「悠が目を覚ますまでは、引き続き定期的に検査、報告をするように。……おそらく、あと半日もすれば目を覚ますだろう。その間、回復の度合い等を重点的に調査しておくように。その後目を覚ましたら、本館の空き部屋にでも放り出しておけ」 「承知しました」  男は必死にメモを取っている。そのペンの音が止まった時、所長は別の話題を口にした。 「例の依頼の件は、どうなった?」 「現地に到着したと報告がありました。予定通りです」 「今夜か?」 「はい。万事順調です」  その順調の言葉に所長は不快を隠さなかった。 「バックアップの人員は」 「……は」  聞き返してから、男はしまったと後悔した。所長は、こういう受け答えを一番嫌う。案の定、所長は語気を荒くした。 「バックアップの体勢は整えてあるのかと聞いている」 「あ、いえ、それは……」 「……」  所長が黙ると、男は諦めて頭を下げた。 「こちらの手落ちで、まだ手配が出来ておりません」  こういう時は早々に頭を下げるのが保身のコツだった。取り繕えば取り繕うほど首が危ない。  だが今日の所長は部下の失態をそれ以上追求しなかった。悠の実験の成功によほど気をよくしていたのかもしれない。 「すぐに一人を選んで向かわせろ」 「では……誰を」  内心男はほっとしつつも、最後まで気を抜かないよう居住まいを正した。 「誰が良いと思うかね?」  今日の所長は相当に機嫌がいいらしい。こんな風に所員に意見を求めるなど滅多にないことだった。  男は少し考える仕草をしたが、やがてゆっくりと言葉を選びながら言った。 「暁に次ぐ力を持っているのは……やはりタダシかと思いますが」 「ふむ……まぁ、妥当な線か……」  所長はそういうと、「タダシで」と短く答え、男に向かって軽く手を挙げた。  話は済んだ、ということだ。  男はもう一度頭を下げると、走り出さないよう最大限の努力をしながら部屋を出ていった。  後に一人残された所長はその後ろ姿を目で追いながら、笑顔を唇の端に上せた。 「そろそろ新しい足枷が欲しいと思っていたが……」  所長の手の中にある煙草が、ぶすぶすと燻って青白い煙を上げていく。 「思った以上に、あの子供は役に立ちそうだ」  所長が独りごちると、その煙が身悶えるように揺れて、捻れた。

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