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第四章 犠牲 1
ビルの屋上は酷く寒い。
男は仕事を中座して、暖房のきついオフィスから逃れ屋上へと出た。
一服しようにも、室内はおろか建物内ですら煙草を吸う場所がない。それで仕方なく男は屋上へやってきたのだ。
「うー、雪が降りそうだな」
ネクタイを緩めた襟元から冷たい空気が入り込む。
見上げた空は、厚く雲に覆われていて月明かりすら見えない。襟元をかき合わせながら、男は煙草に火を付けた。ゆっくりと煙を吸い込むと、暖房の熱気に酩酊気味だった頭が少しすっきりした。
「まったく、ひでぇ一日だ」
男は独りごちた。と、そのとき。
「よ、残業か?」
急に後ろから肩を叩かれた。
慌てて振り返ると、見たことのない男が立っていた。若く見えるが、自分に気安く声を掛けてきたのだからきっと同期あたりなのだろう。
男はそう判断したが、それにしても同期入社にこんな男がいただろうか?
「経理の――、大島さん、だろ?」
その男はそう言ってから、胸にぶら下げたIDカードを見て確認した。
「そうだけど……えっと」
「あぁ、俺、派遣の山田」
男はそう言って人懐っこく笑った。人好きするいい男だな、と大島は思った。
「あぁ、それで見覚えないと思った。あんた何課? 何で俺のこと知ってんの」
「俺、総務。大島さんと俺同い年って聞いてて、一度声かけてみようと思ってたんだ」
山田は暢気そうに言った。
「へぇ、今頃? なんでまた」
「さぁ?」
それだけ言うと山田は黙った。大島は、尻のポケットから潰れた箱を取り出すと、山田に一本勧めた。
「やる?」
「あー、うん。ありがと」
山田は一本抜き取ると身を屈め、大島の灯したライターに顔を近づけた。それで、大島は山田がかなりの長身であることに気付いた。
「あんた、でかいな」
「そう? 187、だったかな」
「でけぇ」
「悪目立ちするから嫌なんだよな」
煙を吐きながら、山田が笑う。大島も笑った。
「こんな年末に残業なんて、大島さんも大変だね」
「あー、まぁな、よく分からん数字の処理させられてるよ」
「へぇ」
「それがさ、俺と部長二人で!」
「部長? 何で部長?」
「だよな。俺もよく分からん。主任あたりならまだ分かるんだけど、途中すっ飛ばして部長が出てきてさ。結局部長の言いなりに数字をあっちにやったりこっちにやったり」
大島は指を左右に振って笑ってみせる。
「なんでヒラの俺に手伝わせるんだか。ほんと、わかんねぇ」
大島が言うと、山田が少し声を潜め、内密の話でもするように囁いた。
「なんかさ、その数字に意味があるのかもよ」
「意味って?」
「例えば……裏金とか」
「はぁ? 裏金ぇ?」
「経理だし、金がらみだと……着服とか、背任?」
「バカバカしい」
「えー? そう? 会社の金に手を付けて、ってニュースでよく見るけどな」
「もしそうだったとしてもさ、何で俺がデータ弄らされるんだよ」
大島は勢いよく煙を吸い込んだ。そろそろ戻らないと、部長が嫌味を言いそうだ。
「大島さんが、着服しちゃった、とか」
山田がとんでもないことを口にした。
「俺? 俺が!?」
急に何を寝ぼけたことを、と言おうと山田の顔を仰ぎ見る。
山田と目が合う。
――大島は山田の眼に捕らえられた。
動けない。
「大島さん」
返事も出来ない。
「着服、した?」
――してない!
そう言おうとした。首を横に振ろうとした。それなのに。
大島は自分の意志とは反対に首を縦に振った。
「そう、やっぱり大島さんが着服したんだ」
「……した」
声が出たと思ったら、肯定の返事が口を突いた。
「そうか。じゃぁ、ここに来たのは、罪の意識に耐えきれなくて自殺するため、だったんだね」
山田が言った。
――自殺? 俺が?
目の前の男が、悲しそうに自分を見る。そうか。そう言うことだったのか。
「俺は、会社の金を横領して、その帳簿の操作をして、隠そうとしたけど部長に見つかって、遺書を書いて、ここから飛び降りるつもりだったんだ」
そう口にすると、何か腑に落ちたような気がして、大島の眼から涙がこぼれた。
そうだ、俺は横領したんだ。横領してその金を何に使ったのか全然覚えていないが、自分がそうだと言うんだから間違いない。
「遺書は?」
「ま、だ」
そう聞かれて、書く物を持ってこなかったことに気付く。と、山田が懐から紙とペンを出した。
大島はひったくるようにそれを奪うと、震える文字で謝罪の言葉を書いた。そして、それを山田に渡す。
「渡しておいてくれ」
誰に、とは言わなかった。そもそも、この遺書を誰に渡すべきなのか、それもよく分かっていなかった。
それでも少し気が済んだのか、大島は涙を拭いた。
「それじゃ、いくよ」
大島は屋上のフェンスに手を掛けると、よじ登って向こう側へと降りる。
その高さに、大島は目眩を起こした。
向こうへ飛んで楽になりたい。そう思うのに足が竦む。
「なぁ」
大島の隣で声がした。横を見ると、山田が立っている。フェンスの外、大島と同じ側。
「怖い?」
大島は震えながら頷いた。すると山田は、ふと泣きそうな顔をした。
――どうしてお前がそんな顔をするのだろう?
大島が見つめていると、山田が手を伸ばした。
「ごめんな」
その手は大島の顎を伝い、その顔を引き寄せた。唇が、額に触れた。
大島はうっすらと微笑むと、ビルの谷間へと落ちていった。
「よぉ」
廃墟となったビルの屋上で、暁は見知った顔と対面した。
「……」
「無視すんなよ」
「……何か用か」
「分かってんだろ? 毎度のことだからな」
「後始末に来たのか」
「はっ! まさか!」
暁の立つ場所より少し離れた屋上のせり出し屋根に、タダシが腰掛けている。
「いつもながら見事な手並みだったぜ。後始末の必要なんざねぇだろが」
「わざわざの見届け役か。ご苦労さまだな」
「あのオヤジの言いつけには逆らえねぇからな」
他人事のように嘯く。暁は返事をせずに、鞄から書類を取り出した。
「催眠暗示ってのは便利だな」
タダシが言う。
「俺にも出来るか?」
「無理だな。お前程度じゃ、簡単に相手に引きずられる」
相手の心に入り込んで意のままに操るなど、並大抵の力で出来ることではない。
暁ですら、力を使った後はかなり消耗している。それを知っていて、タダシはうるさく話し続けている。もとより暁への嫌がらせならば、どんな労力を割いても惜しくない。
「ハードディスクもすり替えてきたんだろ」
「上書きでは痕跡が残るからな」
暁はそう言って、手にした証拠の書類に火を付けた。屋上の強い風に煽られて火は燃え広がり、あっという間に紙束は灰と化した。
「罪を全部あの男におっかぶせて口封じとはねぇ」
「何が言いたい」
「俺たちより、下界の奴らの方がよっぽど汚ねぇと思ってさ」
「……」
「まぁ、その汚ねぇ奴らに入れ知恵してる奴はもっと汚ねぇか」
「……」
「んで、その一番汚ねぇ奴を信用してるバカが一人」
「……なにが、言いたい」
初めて暁がタダシを見た。
「お前は、まんまと騙されたってことに気付いてねぇ道化者だ、ってことが言いたいのさ」
「騙された?」
「騙されたっつーか、利用された、っつーか……」
「何のことだ!」
暁が語気を荒げた。が、タダシは先を言わない。
「ヒントはやったんだから、あとは自分で考えなー」
心の底から愉快そうに笑うと、その場から姿を消した。そして。
一瞬の後、暁の傍らに音もなく現れた。
「これは貰っていくぜ」
暁の傍らのボストンバッグを掴むと、もう一度姿を消す。
再びその姿が現れたのは、隣のビルの屋上だった。
「うへぇ重い」
「おい!」
「研究所まで戻るのに、どれくらい掛かるかねぇ」
「タダシ!」
「間に合うよう祈ってるぜ!」
そう言うと、三たび、タダシは姿を消した。
「間に合う?」
タダシの言葉がぐるぐると胸に渦巻く。
――まさか。まさか。
自分が体よく、子供達から引き離されたのだとしたら。
暁の背を氷の塊が滑り落ちた。急に呼吸が乱れる。
恐怖だ。
大切な者を奪われる恐怖。
それを無理矢理に抑えつけると、暁は鞄を拾い上げて駆けだした。
東の空から、血の色をした太陽が昇り始めていた。
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