18 / 37

第四章 犠牲 3

 ――ここは、どこ……?  はっきりと思い出せない。  明るくも暗くもない。寒さも暑さも感じない。  悠は、中空を無為に眺めていた。 いつからこの部屋にいるのか、いつからそこを見つめているのか。  ぼんやりと白い色が目に映り始める。白は徐々に陰影を帯び、細かな凹凸になった。これは……天井だ。  自分が天井を見上げていることに思い至って初めて、悠は自分が横たわっていたことに気づいた。  ――喉……渇いた……。  ゆっくりと首を巡らすと、部屋に水場があるのが目に入った。  あそこまで行けば、水が飲める。  だが、そうは思うものの体が動かない。足に力が入らないのだ。  仕方なく、悠は起きあがるのを諦めて他の手段に切り替えた。  腕は……動く。  軋む腕を支えにして何とか上半身を起こし、体勢を整えて……と、思ったその時。  体の中心に激痛が走った。引き攣れるような、鈍いけれど強い痛みに衝撃を受ける。とっさに、痛む部位を庇うように手をやった。 「あ……」  悠は、短く喘いだ。  音にならない叫びが、喉の奥に張り付いている。  この胸の痛み。腹の痛み。悠は恐る恐る、シャツの前をはだけた。  僅かに視線を落とすと、目に飛び込んできたのは生々しい傷跡だった。  全身から吹き出すように冷たい汗が流れ出た。辛うじて身につけていた薄いシャツを、汗が濡らして行く。  傷は胸元から始まり、腹部へと続いていた。  大きなミミズのように毒々しい肉色の痕が、体の上をのたくっている。  傷はまだ新しかった。塞がってはいたが、痛めつけられた神経はまだ回復していない。  悠は傷から無理矢理に目を逸らした。  もう一つ、痛みと共に悠は思い出たのだ。とても大切なことを。 「帰らなくちゃ」  悠は立ち上がるために、壁に爪を立てた。   *  瞬たちは扉を見つめたまま息を呑んだ。  動き出す。  すべてが、動き出す音がする。  子供たちが凝視する中、見慣れた顔が、扉の影から飛び込んできた。  その顔は、ひどく疲れ青ざめて見えた。 「……アキ兄っ!!」  最初に声を上げたのは真だった。 「マコ……瞬……っ」  暁は、弾む息を押さえながら声を絞り出した。 「無事か!?」  暁が肩から荷物を落とすと、代わりに真が暁に飛びついた。 「アキっ、アキ兄っ!」  泣きじゃくり、震える体で縋り付いてくる真を、暁はありったけの力で抱きしめた。 「よかった……無事でよかった……」 「どういうこと?」  暁の独白を瞬は聞き逃さなかった。固い声が暁を遮る。 「何か知ってるの?」  瞬の詰問に、暁の体が僅かに強張った。だが返事はない。 「どうして三人がいないのか、聞かないの? 三日間、みんな帰ってこなかったんだよ!」  瞬の声が徐々に叫び声に変わる。暁の腕の中で小さくなって震えている真は、恐ろしくて何も言えない。 「答えてよ!」  瞬の悲鳴にも似た声が静かな部屋に響いた。  と。  その声に被さるように、再び部屋の扉が荒々しく開け放たれた。  その場の全員が、びくりと身を竦ませ、扉を見やる。  暁を突き飛ばさんばかりの勢いで飛び込んできたのは、敬と涼だった。 「みんな無事か!」  開口一番怒鳴ったのは涼だ。  後から続いた敬も息を弾ませ、冬だというのに額には汗が滲んでいる。 「おまえたち、どうして一緒に……」  暁がつぶやくと、最初の怒声そのままの音量で涼が答えた。 「下の駅で会ったんだよ! それで所長に騙されたことが分かったんだ、あの野郎、悠をダシにして俺達を検査なんかさせやがって……」  忌々しそうに舌打ちをしながら、涼は部屋を見回した。と、いつになく鋭い眼光でこちらを睨みつけている瞬の視線とぶつかった。  いや違う、こちらではない。暁を睨んでいるのだ。 「どうしたんだ、シュ――」  言いかけた涼の肩に、敬の冷たい手が置かれた。 「悠は……?」  一瞬、部屋の中がすっと冷えたような気がした。 *  ――帰らなくちゃ。  悠はその事だけを考えていた。  どうしてもっと早くに意識が戻らなかったのだろう。どうして、何日もの間、のうのうと眠っていたのだろう。  どうして、どうして、という言葉ばかりが、頭の中をぐるぐると巡る。  傷の具合からみても、あの拷問から二日は経っているはずだ。もしかしたら、三日、いや四日は経ってしまったかもしれない。  その間、子供たちは無事だったろうか? ちゃんと食べる物は与えられただろうか?  ――瞬は、泣いていないだろうか……。  力の入らない両足を殴りつけ、滑る壁に縋り付くようにして立ち上がる。たったそれだけで息が上がり、滴るほどの汗でシャツが体にまとわりついた。  ついさっきまで何も感じなかったというのに、今はひどく、寒い。これだけたくさんの汗を掻いていても、歯の根が合わないほど寒い。  それも道理、悠は下着こそ身につけていたものの、下半身は剥き出しだった。  悠はそれでも歯を食いしばると、一歩を踏み出した。  悠は部屋を出た。  見覚えがあるような、無いような廊下が続く。  部屋を出てすぐ左手を見ると、突き当たりに扉があった。引き戸だ。  悠は必死に、研究所の見取り図を脳裏に描き出した。  悠が今いた部屋は畳敷きだった。ということは、ここは研究所の上の居住部分のはずだ。  居住部分は二階分あって、廊下の左手の突き当たりにある引き戸の部屋は……一階の食堂だけだ。  ということは、今いたこの部屋は。 「あの部屋だったのか……」  悠はそうつぶやくと、力無く笑った。  ここは悠が暴行を受けた部屋。敬があれほどに入るのを嫌がった部屋だった。 「よっぽど縁があるらしいね……」  だが悠の苦笑は、すぐに苦悶の表情へ変わった。  体が窮状を訴えている。とても二日や三日で目覚めるような状態ではなかったのだろう。  一歩足を踏み出すごとに傷が引き攣れ、汗が廊下に滴り落ちた。吐きそうな重い痛みを、空気を飲んでやり過ごす。  五号室へは、ここから廊下を歩き、階段を上り、同じだけ廊下を歩かねばならない。  今の悠にはひどく遠く険しい道行きだった。 * 「悠は、どこだ?」  敬が言った一言がきっかけだった。  瞬が動いた。 「……瞬!」  涼が咄嗟に瞬の腕を掴んだ。 「どこ行く……」 「悠を探して来るんだよ!」  瞬が怒鳴ると、びりびりと部屋の空気が震えた。 「瞬!」  構わず涼の腕をふりほどくと、瞬は扉へと向かった。が、今度は敬にその腕を絡め取られた。 「離せ……っ!」  瞬が身を捩る。しかし敬の力は強かった。 「瞬」  涼の固い声が降る。 「悠はどこだ」  半ば怒気を含んだ声。だが瞬は臆さなかった。 「知らないよっ! だから探しに行くんじゃないか!」 「落ち着け」 「うるさいっ!!」  瞬が叫ぶのと同時に、異変が起こった。  消してあったはずの四基の蛍光灯が緩やかに明滅を始めたのだ。明滅はゆっくりだったが、徐々に速度を速め、終いには煌々と光を放つまでになった。  そして……。 「瞬!」 「よけろ!」  敬と涼が叫ぶと同時に、蛍光灯が破裂した。破裂音とともに、ガラスの破片が粉々になって降り注ぐ。  真は目の前で起こったことを理解できずにがたがたと震えている。  だが異変はそれだけでは収まらなかった。部屋中に、千切れたフィラメントのような火花が走り始めたのだ。 「落ち着け……落ち着け……」  敬が、捕らえていた腕をわずかに緩め、もう一方の腕で瞬の頭を掻き抱いた。 「深呼吸をしろ……瞬、深呼吸だ」  その敬の腕にも、ビリっと電気が走った。まるで強い電極を当てられたように身が竦む。  この《電気》は、瞬が起こしたものだった。どういう仕組みなのか、もちろんその場の誰も分からなかった。だが、激昂した瞬がその力の片鱗を解放したのだろうということは、彼らにも容易に想像できた。  瞬は、敬に宥められ、ゆっくりと震える吐息をついた。  と、《電気嵐》は徐々に力を失い、最後に、ばちり、と大きな音を立てて消えた。  後には、静寂が残った。 *  悠は這うように階段を上っていた。  足が体重を支えられたのは、最初の数段だけだった。すぐに膝は折れ、肩と腕を強かに階段にぶつけ、息が詰まる。  悠は再び立ち上がることを諦めて、階段を這い上った。    ようやく二階へたどり着いた時、遠くから大きな声が聞こえた。一瞬、例の少年たちかと身を竦ませる。今この状態で出会っては、もちろん逃れようがない。そうでなくても悠は先を急ぐのだ。悠はしばらく息を潜め、声の出所を探った。  声は遠い。しかし階下から聞こえてくるものではない。声の動きもない。こちらへ向かって来るものではなさそうだ。  耳をそばだてて聞いていたが、誰の物かは判別がつかなかった。  悠は辺りを注意深く見回すと、階段の手摺りを頼りに立ち上がった。  ――もう少し、あと、少し……。 * 「大丈夫か?」  敬が言った。見たところ、だれも傷を負ってはいない。 「瞬……」  瞬は、敬の腕の中で唇を噛みしめていた。目を固く閉じている。涙を堪えているのだろう。 「瞬」 「悠は……あのまま帰ってこなかった」  瞬が言った。 「僕は、小さくて、探しにも行けなかった……」  悔しい。寂しかったのでもなく哀しかったのでもない。自分の無力さを思い知って、瞬は悔しかった。 「まだ、遅くないぞ」  涼が言った。 「悠は大丈夫だ。俺たちが探しに来るのを待ってるはずだ」  そして、瞬を元気づけるように笑った。 「今から探しに行こう。な、アキ――」  涼はそこまで言って後の言葉を飲み込んだ。暁の顔を見たのだ。  暁は今にも泣き出しそうな顔をしていた。唇を真一文字に引き結び、何かを恐れるように目を伏せている。 「アキ……」  涼の台詞はそこで途切れた。  三たび、扉が開いたのだ。 *  扉が重い。  ひどく軋んだがどうすることもできなかったので、悠はそのまま扉を押し開けた。  ――最悪だ……。  咄嗟に浮かんだのは、そんな言葉だった。  部屋の中には全員が顔を揃えていた。  泣いている真。やつれた顔をしている暁。心配そうな顔の敬と、困惑した顔の涼。そして、敬の腕に囲われている、怒った顔の瞬。  年長者たちは皆、靴を履いたままだ。今帰ってきたところなのだろう。  悠は、帰らねばというその一心だけでここまで来た。が、この状況を敬たちにどう説明すればいいのか、それをすっかり忘れていたのだ。  悠はしばらくの逡巡の後、その場にもっとも相応しくない言葉を口にした。 「……おか、えり」  悠の姿は、無惨だった。  血の気を失い、蒼さを通り越して白くなってしまった顔。目は落ち窪み、濃い隈が眼窩を縁取っている。唇は水を求めてひび割れていた。一言発せられた言葉には、荒い息が混じり、酷く辛そうだ。  暁が出立前に最後に見た悠は、慈愛に満ちた優しい目をしていた。しかし今暁の目の前の悠にあるのは、恐怖と悲しみと、そして諦めだった。  ――あぁ。  暁は悠を見て確信した。  ――俺と、同じ……。  静かな部屋に絶叫が響き渡ったのは、その時だった。  真だった。

ともだちにシェアしよう!