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第四章 犠牲 4

 泣きじゃくる声ではない。そんな生易しいものではなかった。  身を引き裂かれるような悲鳴。  真は、暁の腕から逃れようと藻掻いた。 「マコ……!」 「いやぁぁぁ!!」  真が暁の腕に爪を立てた。幼い子供の爪は薄く鋭い。暁の皮膚が裂け血が滲んだ。 「マコ、どうした、マコ!」 「こないで……こないでっ!」  真には暁の声が届いていない。  突然の事に誰もが呆然としていた。 「痛い……っ、痛いよぉ!」  真は体を折るようにして、ずるずるとその場にへたり込んだ。小さな手で胸と腹を押さえている。  まさか所長に何かされたのか、と悠は思った。  子供の食事に何か盛る事ぐらい所長は何とも思わないだろう。新種の病原菌、新種の毒薬。人体実験。  悠は、口に苦い物が迫り上がってきたのを何とか押さえつけて、真の側に駆け寄ろうとした。  が、真の涙声に足を止めた。 「いや……ぁ、こっち、こないで!」  その眼に何が写っているのか。真は何者かに怯えている。  ――まさか……まさか……。 「大丈夫、誰もいない――」  涼が、座り込んだ真を抱えて宥めている。  真のすぐ脇に立っていた暁は、真を構おうともせず立ちつくしていた。  暁の視線は、痛がる真ではなく悠に注がれている。 「やめて……痛い……痛い……」  激しく頭を振って、何かから逃れようとしている。……まるで、あの時の悠のように。 「悠」  暁が初めて悠に声をかけた。彼の声も震えていた。 「これ……まさか」 「ごめ……ん、マコ」 「悠」 「痛い思いさせて……」 「おいで」  暁が、そっと悠の元へ歩み寄る。  敬も瞬も訳が分からず、二人を交互に見つめているだけだ。 「ごめん……なさい……」  見る見るうちに悠の目に涙が溜まり、溢れ、零れた。 「泣くな」  あと少し。暁が手を伸ばした。わななく悠の腕まであと少し。  だが、暁の手はあと一歩のところでむなしく空を切った。  悠が、さっと身を翻したのだ。  どこにそんな力が残っていたのか。本人にも分からない内に体が動いた。  ――早く、この場から去らなければ。  扉は開け放たれたままだ。  ――マコが僕の記憶に同調しない、その距離まで……。  悠は駆けだしていた。  後ろから呼び止める声がするが、悠は立ち止まるわけにはいかなかった。  出来るだけ遠くへ。とにかく、出来るだけ遠くへ。  真が見た光景、感じた痛みは悠の物だ。  疲れ切った剥き出しの心と心が触れ合ってしまった。真にテレパスの能力があることを失念していたのだ。  真の力がどれほどなのか、悠には分からなかった。  どれくらい離れれば、真は悠の悪夢から逃れられるのだろう?  分からないからこそ、悠は出来るだけ遠くへ行きたかった。  廊下を走り階段を駆け下りた。そしてそのまま、光の中へと飛び出した。  暁はすぐに後を追いかけた。敬や涼の非難の声が聞こえる。  二人にはまだ何も知らされていないのだ。  悠のこと、真のこと、……暁のこと。  所長が何をしたのか。悠が何をされたのか。  真の前で立ち竦んだ悠を見て、暁はすべてを悟った。 「逃げるな! 悠、この建物から出るな……!!」  しかし悠の耳には届かない。  悠は暁の目の前で、研究所の外へと飛び出していった。  辺りは雪景色だった。  暁が研究所へ戻ってきた時は小康状態だったが、あれからまた降り出したらしい。  純白の雪が、すべてを白く塗り込めてしまっている。  新雪は暁の足首の辺りまで降り積もり、白い手となって彼の足にまとわりつく。雪は降り続いているが、視界はまだ閉ざされていない。  木々の幹だけが、黒々とした姿を雪の中に晒している。  前方には、必死に雪を掻き分けて進む悠の姿が見えた。 「悠! 止まれ! もう、大丈夫だから――」  雪は、悠には臑ほどもある。  崩れ落ちそうになる体を必死に支えていた悠。  その悠の、どこにこんな力が残っていたのだろう。 「悠――!!」  その名を叫んだ時、悠の体がぐらりと傾いだ。  おかしな倒れ方だった。  疲れて立ち止まったのではない。何かに突然襲われたように不自然にくずおれていく悠の体を見て、暁は短く呻いた。 「悠、悠……」  倒れた悠までの距離は、わずかに数メートルのはずだ。  それなのに気ばかりが焦ってなかなか辿り着けない。  暁が悠の元へ駆け寄った時には、既に悠の体にはうっすらと雪が降りかかっていた。 「しっかり」  暁の呼びかけにも反応はない。  暁がかじかむ手で悠を抱き上げると、悠の苦悶の表情が目に入った。  悠は固く目を閉じ、胸を押さえている。浅く荒く呼吸を繰り返すだけで声一つ上げない。  暁が悠の濡れた前髪をそっと払うと、彼が目を開けた。 「どこだ? どこが痛む?」 「む、ね……」  悠がつぶやく。途端に悠の体に痙攣が走った。小さな震えが、徐々に強く悠の体を浸食していく。  暁がその体を抱え上げると、ひときわ大きな痙攣に悠の体が跳ねた。 「……う……ぁ……」  叫び声すら上げられないほど悠は弱っていた。それでも猶、心臓に食い込んだ金属が彼を苛み続ける。  暁が悠を抱き上げた。 「すぐに楽にしてやるから、頑張れ!」  そう言うと、来た道を猛然と駆けだした。  入り口では敬と涼が、険しい顔をして立ち竦んでいた。  瞬たちを部屋に残してここまで追いかけたきたものの、雪の中に飛び出していった二人を追うかここで待つか、決めかねていたのだ。  だが二人が外へと一歩を踏み出したちょうどその時、前方から暁が駆けてきた。  腕の中には、悠がいる。 「悠!」  異口同音に叫ぶと、暁が怒鳴った。 「階上に行ってる暇はねぇ、そこの脇の部屋だ。早く!」  二人はその声に弾かれたように動き出した。六畳ほどのその備品室は、普段は予備の布団や毛布を置いてある。  悠はその部屋に担ぎ込まれた。  二人は、暖房を入れ、手当たり次第に毛布を掘り出して部屋の畳の上に敷き詰めた。  後に続いた暁が、悠をそっとその上に横たえる。  悠の痙攣は収まっていた。  暁はわずかな逡巡の後、悠のシャツの前を開いた。彼の反対側に立っていた二人が息を呑んだ。 「あぁ……」  暁が呻いた。悠の体を縦断する、大きな傷痕。 「こ、これ……って……」  涼も動揺を隠せなかった。 「まさか、また奴らが……!?」  敬が言ったが暁はそれには答えない。濡れた服を脱がせるとすぐに、悠を暖かな毛布にくるみ込んだ。  雪解けの水が悠の青い唇を濡らしている。暁がそっと小さな体を揺り動かした。 「目を開けろ。もう、大丈夫だから……目を……」  そう何度も語りかけると、悠が目を開いた。  声が思うように出ないのか、ゆっくりと「アキラ」と唇だけを形作った。  そのまま「マコは?」と問うてくる唇に、暁はようやく笑った。 「まったく、おまえってやつは……」  顔を上げて敬に問うと、敬は黙って頷いた。 「大丈夫、もう落ち着いたって」  暁がそういってやると、悠はほっとしたのか涙を浮かべた。涙はすぐに溢れ頬を伝う。  おずおずと腕を伸ばした敬が、それをゆっくりと拭った。  涙は、ひどく冷たかった。 *  深く長い沈黙があった。  悠が時折息を詰める。そのたびに呼吸が止まってしまうのではないかと、その場の三人は震えた。  悠にもその気配が伝わったのだろう。三人に無理に笑顔を作った。 「も……、大丈夫」 「大丈夫って……おまえ……」  敬も涼も、尋ねたいことは山ほどあった。それなのに言葉にしようとしても何一つ出てこない。何度も口を開いては、何も言えないまま口を噤む。 「アキ……?」  悠が言った。  悠の頬に暖かいものが触れたのだ。ぽつり、とその暖かいものは悠の頬を滑った。 「アキラ?」  毛布の中から腕を伸ばし、悠のすぐ頭上にある暁の頬をなぞる。 「どうして……泣くの?」  悠の指を暁の涙が濡らした。 「おまえは……自分の境遇を呪ったことはないか?」  暁が問うた。 「どうして自分がと、思ったことはないか?」 「暁」  敬が迷った挙げ句に声をかけた。 「何か知って――」 「すま、ない」  敬の言葉を遮るように、暁が言った。 「すまない」 「いや、謝って欲しい訳じゃ――」 「――俺だ」  暁は右袖でぐいっと涙を拭った。そして、悠を一瞥すると、改めて二人に向き直った。 「俺が、おまえたちを見張っていた」 「見張る?」  突然の台詞に、敬は口を開けたまま暁を見つめる。 「見張るって……一体何のことだ?」 「俺が、三人の事を所長に報告していたんだ。性格、知能、……能力」 「報告して何になるんだよ」  涼が言った。口調が険しい。 「そんなこと――」 「所長は悠の治癒能力に目を付けた。奴は、俺と、お前さんたち二人を悠から引き離した。実験するためにな」 「じっ……けん?」  敬の背筋がひやりと冷える。続きを聞くのが怖い。 「さっきの真の……あれは、お前の記憶だろう?」  暁は視線を落として悠を見た。だが悠は黙ったまま何も言わない。 「所長に何をされた? 体の傷は、奴がつけたものだろう?」  そう問われて悠はびくりと体を強張らせた。 「これは……」 「言わないと真に聞くぞ? マコが何を見たのかって」 「ダメ!」  慌てて身を起こす。すかさず暁が悠の背中に手を廻した。 「二人に教えてやってくれ。奴が……所長が、どんなに恐ろしい男か」  暁はまるで懇願するように言った。悠は、その真意が分からず暁を見つめるだけだ。  悠が本当のことを言えば、二人の怒りの程などとても想像できない。それなのに暁は二人に言えと言う。 「麻酔なしで切り刻まれたか?」  悠は、はっと暁を見た。 「アキ――」 「なんだよ、どういうことだよ!」  涼が声を荒げた。珍しく頬を上気させている。だが暁は涼の激昂を無視した。 「お前の心臓に、何か埋め込んだのも奴だな?」 「埋め込んだ……?」  敬の声が震える。暁の言葉を鸚鵡返しに繰り返すことしかできない。 「この敷地から出たら、悠の中に食い込んだ機械が心臓を締め上げる……」 「な……んで……」 「俺たちが、ここから逃げ出さないための、枷だ」 「どうして……」  言いながら、敬は自分の握り拳が血の気を失っているのに気づいた。きつく握りしめすぎたのだ。 「そんな、惨いこと……!」 「悠と俺たちが……大事な実験台だから」  暁の静かな声に、先に切れたのは涼だった。暁に掴みかかる。 「全部、全部お前が仕組んだのか!」  半ば悲鳴のように叫ぶ。その問いに暁は答えない。 「アキラ!」  涼が拳を上げた瞬間、涼と暁の間に悠が割って入った。 「ダメ!」  暁を庇うように縋りつく。 「悠!」 「暁は悪くない!」 「バカかお前は! これだけ酷い目に遭ってまだ――」 「僕は知ってた!」  悠が叫んだ。 「暁が僕たちを見張ってたことも、報告していることも全部知ってた!」 「……」  暁が真正面から悠を見た。 「知って、た……?」  その独り言に、悠はこくりと頷いた。 「そう――」  と言いさしたまま次の言葉が継げずにいる。そのまま悠が続けた。 「暁は子供たちを人質にとられて、僕らの見張りをさせられた。僕は……僕が言うことを聞けば、みんなには酷いことをしないって、所長と契約した」  悠は視線を暁から涼へ、そして敬へと移した。 「だから、暁は悪くない」 「でも!」  涼がなおも言い募る。 「悠が犠牲になることなんてないだろう!」 「悠じゃなかったんだ」  暁が、涼を遮って言った。 「な、に?」 「おまえたちは悠を大事にしていた。……俺がチビを大事にしているみたいに。だから俺は、所長が二人のどっちかに、悠を楯に契約を持ちかけると踏んだ」  暁は、目の前の二人を代わる代わるに見て言った。姿勢を正し、まっすぐ二人に向き合う。 「俺の打算を許してくれとは言わない。俺は、敬か、涼か……どちらかが悠のために犠牲になるのは仕方ないと思っていた。俺と同じ思いをさせてやるって……思ったんだ」  暁は、そこで言いさした。深く息を継ぐ。 「おまえたちを陥れたことを責められても、殴られても罵られても当然だと思ってる。二人が望むなら、俺の命ぐらいいつでもやる。でも――」  暁は頭を垂れた。 「でも、悠を傷つけるつもりだけは無かった……」  暁の顔が苦痛で歪んでいる。 「ごめん……」  悠は強く頭を振った。 「ひとりで悪者になることないじゃないか……」  また暁は一人で背負い込もうとしている。心にもない嘘ばかり並べて、自分一人が憎まれればいいと思っている。悠にはそれが我慢できなかった。 「敬、涼」  悠が二人に声をかけた。敬は真っ青な顔でそれに応え、涼は行き場を失った拳を持て余してそっぽを向いている。  悠は、徐々に自分の体が重くなってきているのを感じていた。もうしばらくすると、あの優しい帳が悠を覆うだろう。その前に言っておかねばならない事がある。 「ごめんね」  そう言葉を継ぎながら、悠は涼の元へと体を寄せた。拳を解くように、やんわりとその手を握る。するとすぐに涼が強い力で握り返してきた。 「辛い思いさせて、ごめんね」  悠は涼を見、敬を見た。二人とも畳を見つめたまま何も言わない。 「僕も、暁も、みんなが大事だったんだよ」 「でも……でも、それじゃ悠が……」  涼は『でも』としか言えない自分に腹が立った。 「僕なら大丈夫。大事な実験台なんだから、絶対に死ぬことはないよ」 「ユウっ!」  それまで黙っていた敬が悲鳴のような声を上げた。 「お前は……どうしてそんなに――」  しかし言葉は続かなかった。堰を切ったように涙が溢れ出して、敬の喉は途端に嗚咽しか漏らさなくなる。  悠は敬にそっとにじり寄ると、体を敬に預けた。敬は泣きながら彼をきつく抱く。  悠はあやすように敬の背中をさすった。 「暁も子供たちを守ろうと必死だったんだ。それは僕も、涼も、敬も同じなんだから」  悠が囁いた、その時。  扉の外で、コトリ、と音がした。  すぐに涼が反応する。静かになめらかな動作で立ち上がると、さっと扉を押し開いた。 「あ」  涼の短い声に、全員が扉の方を見た。  扉の外に立っていたのは、瞬だった。大きく目を見開いたまま血の気のない顔で立ちつくしている。 「お前、いつからそこに――」  涼が問う声にも耳を貸さず、瞬は悠と暁を見つめていた。 「シュ……ン」 「どういうこと……?」  瞬の声が固く響く。 「それ……その傷は、なに?」  瞬の視線は悠の胸元に注がれている。あわてて、悠は毛布をかき集めて胸の傷を覆った。 「それ、また僕の……せい?」 「違うよ、君のせいだなんて――」 「違わないだろ!」  瞬が悠に向けて、初めて声を荒げた。 「ごまかさないでよ! 僕だって知ってた! 暁が所長に何かやらされていたことも!」  暁が瞬の言葉に目を見張った。 「まさか――」 「いつもいつも、暁が帰ってきた時すごく辛そうだった。でも僕らにはなにもなかった。怖い人たちも所長も僕らには何もしなかった。なにも! 暁が、僕らの代わりに辛い目に遭っていたから!」  声を張り上げる瞬の肩を、涼がそっと押さえた。 「悠だって同じだろ! いつも僕らを庇って! 怪我をして! 酷い目に遭って! それなのにいつも平気平気って……」  瞬の声には、悔しさとやるせなさが滲んでいる。 「勝手なこと言わないでよ! 僕らの気持ちはどうなるんだよ! 二人に辛いことを押しつけて、楽しくなんかなれない! 幸せになんかなれない!」 「……それくらいにしておけ」  瞬の傍らに立っていた涼が静かに言った。 「だって、涼!」 「もういい!」  瞬の言葉を遮ったのは、それまで黙っていた敬だった。 「もう、二人を責めるな……責めてやるな……」  はっと瞬が顔を上げる。敬の腕の中で、悠が小さく震えながら泣いていた。 「ごめ……ごめん……ごめんね……」 「謝らなくて良いから……」 「ごめん、ね……こんな風にしか、出来なくて……力が足りなくて……ごめんね……ごめんね……」  胸を締め付けられるような謝罪の言葉が、悠の口から零れ続ける。  瞬は溜まらなくなって耳を塞ぎ、叫んだ。 「謝って欲しい訳じゃない!」  そう言い捨てると、すべてに背を向けてその場から逃げ出した。

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