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第五章 変化 2
試験が終わり、敬と涼がほっと一息を吐いたのも束の間、事件は向こうからやってきた。
「ケイ、君だね?」
前夜からの雨が鬱陶しく降り続く日曜の朝、白衣に身を包んだ研究所の職員が、五号室の扉を開けて言った。
「所長がお呼びだ。付いてきたまえ」
部屋の空気が凍り付いた。
「分かりました」
一瞬のためらいの後、敬は頷いた。
「敬……」
「大丈夫だ。二人を頼むな」
「あぁ、任せろ」
その言葉に頷くと、敬は男に従って部屋を出た。
「涼……」
「……」
瞬と真が、不安げに涼を見た。
「無事を、祈ろう」
待つしかできない自分たちに出来ることは、祈ることだけだ。涼はしばらくの間、敬の消えた扉を見つめ続けていた。
*
敬はまず三階に連れて行かれた。
そのままどの部屋にも立ち寄らず、廊下の隅の直通エレベーターに乗せられる。
悠の話に聞いていた地下の実験室だ。
目的地の表示ランプは地下五階を指している。
たいした時間も掛からずエレベーターは地下深くへ潜り、敬はひんやりと冷たい廊下へ吐き出された。
「こっちだ」
男は勝手知ったる風でさっさと先を行く。
廊下は薄暗く広い。男のゴム靴と敬のスニーカーの立てる音だけが、空虚に響いた。
エレベーターを降りてから一体どれくらい歩かされただろうか。廊下は直線ではなく、幾度も折れ曲がり、行き止まりもあった。
古い新聞社やテレビ局の建物は、テロリストが容易に占拠できないよう、複雑な構造の建物になっていると聞いたことがある。ここはまさにそんな雰囲気だった。……目的は逆なのかもしれないが。
地下の実験施設がどれくらいの広さなのか見当も着かなくなった頃、ようやく前を行く男の足が止まった。
「入れ」
そう言って目の前の扉を押し開いた。
蛍光灯の明かりが強く目を刺した。
広い。学校の体育館ほどはありそうだ。
部屋を見回すと、予想に反して人影はまばらだった。三、四人の白衣の男が、部屋の隅で思い思いに作業している。機械の類は一切無い。
最初に目にとまったのは、床に描かれた、赤と青のマークだった。一番遠い地点に、赤い点が一つ。そこから等間隔に青い点が並んでいるのが見て取れた。
――ここで一体何をさせるつもりだ?
敬の胸に疑問が浮かんだのを見計らったかのように、広いその部屋に聞き覚えのある声が響き渡った。
「ようこそ、敬君」
敬が最も憎む声。間違いなく、それは所長の声だった。
声は天井のスピーカーから流れてくる。
「今日は君に、実験に付き合ってもらうよ」
どうせカメラも仕込んであるのだろう。敬は腕を組んで、声の出るスピーカーを睨み上げた。
「君には瞬間移動の力があるそうだが、その通り間違いはないか?」
確認の問いかけだったが、敬は頷かなかった。
「過去に一、二度成功したことがあるだけです。そんなので俺に瞬間移動の能力があるとはとても思えません」
「正直だな」
相変わらず嘲りを含んだような耳障りな声だ。敬はカメラを睨むのをやめなかった。
「まぁ、それも含めての実験と思ってくれたまえ。君の実力を見てみようじゃないか」
所長の声に続いて、極小さなブザー音が響いた。
「始めろ」
所長の声に、その場の白衣達が一斉に動いた。
一番敬に近かった男が、敬の腕を取って部屋の端の青いポイントに立たせた。
「ここから赤いポイントまで30メートルある。間に5メートルおきに青いポイントがある。君が行けるところまで《跳んで》見せてくれ」
「跳ぶ?」
「テレポーテーション、でだ」
敬はようやく実験のあらましが分かった。
――だから俺には無理だっていうのに!
口で言って分からないなら出来ないことを見せるしかない。
敬は諦めて目を閉じた。ゆっくり呼吸を整える。今まで何度も試した手順だ。
――一、二、三……。
数をゆっくり数えながら、着地点を脳裏に描く。集中し跳ぶことだけを考える……。
たっぷり30秒が経ったが、やはり敬の身体が跳ぶ事はなかった。
「真面目にやっているか?」
不機嫌な所長の声がする。敬も不機嫌に答えた。
「大真面目ですよ」
手抜きなどすぐに見抜かれるに決まっているからこそ、敬は必死だった。必死になってもだめなものはだめなのだ。
「もう一度やってみろ」
「気の済むまでどうぞ」
*
脂汗で滑る手をシャツにこすりつけた。軽く息が上がっている。
実験開始から一時間が経ったが、敬は最初の青いポイントから一歩も動いていなかった。他のポイントはまるきり無駄になった。
「……」
途中から、所長は嫌味すら言わなくなった。
マイクだけは通じていたらしく、途中幾度か、こつこつと机を叩くような不快な音が流れていた。
敬はとうとう足がふらついて、その場に腰を下ろしてしまった。
「君の実力はよく分かった」
「そうですか、それは良かった」
敬は本心からそう言った。これでこのバカバカしい実験も終わりかと、緊張を解いたそのときだった。
「隣に連れて行け」
所長が言った。すぐさま脇の男が敬の腕を掴み上げて立たせる。
そのまま引きずられるように部屋を出、すぐ隣の部屋へと移された。
こちらの部屋も、先ほどの部屋と殆ど同じ広さだった。違っていたのは、部屋の奥に透明なガラスケースが置いてあったことだ。
先の部屋よりも照明が落としてあったために、少々見えにくい。
ケースと言ってもかなり大きい。敬が立って中に入れるほどだ。広さはあまりないようで、畳一畳分と言ったところか。脇に仰々しい機械が備え付けられている。
床には先ほどの部屋と同じ青のマークが描かれている。そして、ゴールの赤いポイントの代わりに件のガラスケースがあった。
「仕切り直しだ、敬君」
所長の声が響いた。先ほどと声が違う。
声のした方を見ると、部屋の上部に渡されたキャットウォークに所長その人が居た。
「改めてこの目で確認させてもらおうと思ってね」
朗々と響く声に、耳を覆いたくなる衝動に駆られる。
「何度やっても無駄ですよ……」
敬は疲れていた。身体もだが、それ以上に神経を磨り減らしていた。
「俺には無理です」
「君は、もっと切羽詰まらないと能力を発揮できないタイプのようだからな」
その台詞に敬は顔を上げた。
「……?」
「そのガラスケースだが、見えるか?」
「暗くて、よく見えませんが」
「そうか、それじゃ」
所長が部屋の隅に向かって合図を送ると、即座にガラスケース内に明かりが灯った。ガラスに乱反射して光が溢れる。
敬は目を細めてそちらを見遣ったが、そのうち、内部に人影を認めた。
「な……っ、な……んで!」
「誰だか分かるかね?」
心底愉快そうに、所長が笑った。
「ユ、ウ……っ!」
敬の全身を冷や汗が滑り落ちた。ガラスケースの中でぐったりと椅子に凭れるように座っていたのは、見間違えるはずもない、悠だった。
「ユウっ! 悠っ!!」
駆け寄ろうとする敬を、白衣の男が抑える。藻掻いたが、二人がかりでは到底敵わなかった。
「悠っ!!」
敬の絶叫も届かないようで、悠は力なく座ったままだ。
「悠に何をした!」
敬の怒りは即座に所長に向かった。
「なに、ちょっと血を抜いただけだ。命に別状ない程度にな」
「嘘だ! あんたのことだ、ギリギリまで血を抜いて、苦しむのを見て楽しんでるんだろう!」
「心外だな」
だが所長はあくまでも楽しげだ。
「血液の量には余裕があるはずだぞ。それに抜いた直後から彼は既に回復期に入っているのだからな」
所長は上機嫌で言葉を続けた。
「ただし、あのガラスケースには細工がしてある。二酸化炭素濃度を三%に上げてある。すぐに命に関わることはないが、血液量が不足している悠君にとっては、長居はしたくないだろうな。さて――」
所長が言葉を切って、パン! と手を打った。
「君はあのガラスケースまで、一度に跳んで、彼を救出せねばならない。刻んでは駄目だ。端の青い点からスタートして」
所長は指を動かしながら敬を見た。
「ゴール地点まで直接跳べば、君の勝ちだ」
「この……野郎っ」
「悪態を吐く暇があったら、早くした方が良いぞ」
敬はガラスケースを見た。
「くそっ!」
敬は白衣達を振りほどいて立ち上がった。所長の思いのままに動かされるのは腸が煮えくりかえる。だがそれよりも悠を助けるのが先だ。
敬は青いスタート地点に立った。もう一度、集中して跳ぶことだけを考える。
――一、二、三、……あぁ、ユウ……
ぐったりとした悠の姿が目の前にちらついて、集中できない。
「ほら、頑張りたまえ」
所長の嘲笑に、怒鳴り散らしたい気持ちをぐっと堪えて、敬は大きく息を吐いた。
――悠の元へ……。
そうだ、集中できないのなら、悠のことを考えればいい。
――悠の元へ……!
その瞬間、敬は身体が溶けたような気がした。
身体が溶け、空気と混じり合い、そして突然はじき出された。
敬が目を開けたとき、彼の身体はスタート地点から半分ほどの距離にあった。
「ほう、やれば出来るじゃないか」
所長の声が遠くで聞こえる。敬は着地地点から再びスタート地点へと戻された。
「一気に跳ばないと、悠君は救えないぞ」
だが敬はもう何も聞いていなかった。今し方の感覚を忘れないよう脳裏に刻む。
身体が溶け空気と混じり合う感覚は掴めた。後は距離だ。
二回目、身体が溶けた後、敬は走ろうとした。だが何か重い空気に足を取られて進むことが出来ない。はじき出されたときは、一回目と同じ距離だった。
三回目は泳いでみた。手と足をめちゃくちゃにかき回す。走ろうとしたときより身体は前に進んだが、それでもガラスケースからは遠い。
四回目、五回目と回を重ねるごとに距離は進んだが、それに比例して敬の身体も極度に疲労してゆく。六回目に跳んだ後、敬はその場に膝をついた。汗がしたたり落ちる。ぜぇぜぇと荒い息を抑えることも出来ない。
「それでは消耗するばかりだぞ」
所長が言う。敬にも分かっている。
敬は唇を噛み締めて、七度目のスタート地点に立った。
――悠……!
身体が溶けた。しかしもう指一本も動かすことが出来ない。身体は空気の動きに押し流され、押し戻され、その場にとどまることすら出来ない。
――ごめん……。
その時だった。身体がスウッと動いた。
泳ぐのでもない走るのでもない。ただ流れに身を任せれば良かったのだ。敬の身体は重い枷から解き放たれて、意志の赴くままに流れてゆく。
――悠の、元へ……!
敬が目を開けたとき、彼の目の前に悠が居た。だがそこまでだった。
敬は無理をしすぎたのだ。
低酸素の檻に放り込まれ、消耗した敬はすぐに意識が混濁してゆくのを感じた。一歩も動けないまま、がくりと膝が折れる。
――ここから、悠を、連れ、て、外、へ……。
身体が重い。悠の手を握ることも出来ない。悠は無事か? 息はあるか?
敬の上半身が、悠の膝へ倒れ込んだ。霞む目で悠を見上げる。
と、悠が、ゆっくり目を開けた。
悠の動きも緩慢だった。
唇を動かす。敬の名を呼ぶ。敬の頬を涙が伝った。
――ごめん。助けてやれなくて……。
その涙を見て、悠の手がゆっくりと動いた。左手が敬の涙に触れる。
そして右手をゆっくりと伸ばすと、ガラスの檻に触れた。
最初は小さなヒビだった。悠の指先から、極小さなヒビが生まれる。そのヒビは徐々に亀裂を作り、あっという間にガラスケースを覆った。
そして、一瞬の後、ガラスのケースは粉々に砕けた。
敬は気を失う縁で、ガラスのきらめきと、肺に酸素が流れ込むのを感じていた。
*
身体が溶ける。
そんなに気持ちの良い感覚でもないな、と敬は思った。
しかと存在するはずの肉体が空気と混じり、あやふやになるのはどうにも慣れそうにない。溶けた身体のまま辺りを見回すと、金色のきらきらした光が己の体を通り抜けてゆく。光は最初小さな粒だったが、だんだんと大きく、固い粒に変化していった。
ガラスだ。砕けたガラスだ。
敬は確信した。ガラス破片の流れてくる方を振り向けば、そこには彼が居るはずだ。
もう少し、あと少し、振り向いて手を伸ばせば手が届く。
そこで、敬の夢は途切れた。
びくり、と身体が震えて目が覚めた。
明るい天井が目に写る。
慌てて飛び起きると、途端に激しい頭痛と吐き気が彼を襲った。
「うぅっ……」
「あっ、おい! 急に起きるな!」
耳に馴染んだ声がする。霞む目で見ると、涼が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。
「そーっと起きないと……。大丈夫か? 吐きそうか? 水飲めるか?」
涼が敬の背に手を廻しつつ後ろに声を掛けた。すぐに小さな足音がする。子供達も側にいたらしい。
真がグラスを持って涼の傍らに跪いた。
敬はグラスを受け取ると、噎せながらも飲み干した。少し吐き気が収まる。
「横になれよ、そっとだぞ」
涼が肩を押さえたが、敬はそれを遮った。
「俺は、どうしたんだ?」
「一日丸々眠ってた」
「一日?」
「思い出せるか? 昨日に所長の使いが来て、お前が連れて行かれて、夕方にこの部屋の前の廊下で倒れてたんだ」
「一日……? 俺一人……で?」
「うん?」
「倒れてたのは、おれ……一人だったのか?」
「あぁそうだよ……おい、どこ行くんだよ!」
敬は布団を跳ね上げて起き上がった。がんがんと鐘が鳴り響くような頭痛がする。酷いめまいがして、涼に抱きかかえられた。
「バカかお前は!」
「悠は!?」
「はぁ? 悠がどうした」
「俺と一緒に悠も居たはずだ! あそこにいたんだ!」
気ばかり焦って身体が動かない。
「悠が、いたんだ。俺の実験に悠が、でも助けられなくて……」
「分かったから、落ちつけって!」
「悠を、悠の無事を――」
「敬!」
「頼むから、行かせてくれ……」
もちろん、足元すらおぼつかない敬を一人で行かせることも出来ず、結局涼は、瞬と涼の二人で敬に肩を貸してやることで渋々了承した。
「悠の無事を確認できれば良いんだな?」
「あぁ」
「そしたら、ちゃんと休むんだぞ」
「わかってる」
足取りはしっかりしているが、めまいと頭痛のせいでまっすぐ歩くことが出来ない。
涼と瞬に両脇から支えられ半ば抱えられるような格好で、敬は廊下の端の小さな部屋の扉を叩いた。
「はい」
小さな返事があった。
「今、良いか?」
涼が言う。
「うん、良いよ」
その返事で、涼が扉を押し開けた。部屋には、悠が一人で居た。
「あれ、暁は?」
「出かけてる」
悠は部屋の隅で、壁に背をもたせかけた格好で座っていた。手元には開かれたままの本がある。
「敬? 大丈夫?」
敬はしばらく悠を凝視していたが、突然力が抜けたように膝が折れ、慌てて二人に抱えられた。
「こいつがさ、所長に呼ばれたときにお前が一緒だったって言って、心配で寝てられねぇっていうから……」
「あぁ、うん、またちょっと無茶な実験に付き合わされちゃったけど……僕は大丈夫だよ」
そう言っていつものように穏やかに笑った。
「敬はかなり無理させられてたね」
「あ、あぁ、でも、お前が無事で良かったよ……安心した」
「うん、ありがとう。敬はもうしばらく休んだ方が良いよ」
「そうだぞ、約束だからな。戻るぞ」
「あぁ、すまん。悠も――」
「ううん、それじゃまたね」
敬は安心して気が抜けたのか、涼に寄りかかるように倒れ込んできた。
「ちょっ、おいしっかりしろって!」
慌てて悠の部屋の扉を閉めると、涼は、敬の身体を担ぎ上げた。
「こうなるとこっちの方が楽だぜ……なぁ、シュ――」
隣にいるはずの瞬を見ると、当の瞬は閉じられたばかりの部屋の扉をじっと見つめている。
「どうかしたか?」
「――先に行ってて」
「おい」
「お願い」
扉を睨んだまま瞬が言う。
「分かった。早く戻れよ」
涼はそう言って、担いだ敬を揺すり上げた。
扉が閉じ、足音が遠ざかるのが聞こえると、悠は凭れていた身体をずるずると倒した。
「うっ……ふぅっ……」
息が上がるのを抑えられない。全力疾走をし続けているように、脈が激しく打つ。足りない血液を何とか押し出そうと、心臓が空っぽのポンプを動かし続けている。酷い吐き気が続いているが、吐けるだけの物も無く、その体力もなく、悠は胸を掻きむしってその苦しみに耐えるほか無かった。
あの日、朝早くに所長に呼び出された悠は、血液の三分の一を抜かれた。意識がどうにか保てるギリギリの量だった。その後別室に運ばれ、ガラスケースに入れられた。自分の自由を奪ったからには、きっと誰かのために自分は利用されるのだろうと、悠は思った。そして、その通りになった。
朦朧とする意識の中で、敬が自分を救おうと苦闘する様子を見ていた。
途中であのガラスケースを砕くことは可能だった。そのためにも余力を残しておいたのだ。けれど実験の途中で悠が邪魔をすれば、所長は必ず機嫌を損ねる。そんな危険を冒したくはなかった。
悠が一番最後にケースを壊したことも、所長の思惑通りだったのだろう。結果に満足だったことは、無事に二人を帰した事でも分かる。
「き……っついな……」
一つの計算外は悠の回復能力だった。尋常ならざる回復力をもってしても、造血には時間が掛かった。しかも、いつものような睡眠期間も一向に訪れない。
その分、悠は苦しみに長い時間耐えねばならなかった。
「バカ……」
扉の外で、瞬が一人ごちた。
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