23 / 37

第五章 変化 3

 暁は帰ってこない。  暁も悠も互いに、どこへ行くとも、いつ帰るとも言わずふらりと出かける。待たないでいよう、と言うのが二人の暗黙の了解だった。  だが今日は孤独が酷く堪える。  真っ暗闇の中で、悠は夢と現の間を彷徨っていた。  悪夢とすら言えないような混濁した何かが、悠の意識を夢の世界へ引っ張り上げたかと思うと、そのまま現へ叩き落とす。呼吸は一向に楽にならない。  心臓の空打ちが、やけに耳について不快だ。悠は声を上げないよう、身を丸くして苦痛に耐えようとした。しかし今度は心の方が悲鳴を上げた。  このまま心臓が止まるかもしれない恐怖。誰にも知られないまま死ぬ恐怖。  ――お前は、一人で死ぬのが怖いのか?  自嘲気味に自分に問うが、返ってくるのは、怖い、怖いという言葉ばかりだ。  ――誰かそばにいて。手を握って……。  そのとき部屋の入り口で、かちゃ、と音がした。はっ、と意識が現に引き戻される。 「……」  耳と感覚を澄ますと、部屋の空気が僅かに動いた。扉が開いたのだ。  悠は荒い息を抑えるのに精一杯で、身動きも出来ない。  扉はやがて再び静かに閉じた。  誰か、居る。衣擦れの音がかすかにする。 「だ、れ?」  悠は声を出した。  暁だろうか? それとも、別の誰か?  入ってきた人影は、ゆっくりと悠に近づいてきた。悠の様子を窺うような足取りだ。  人影は尚も悠に近づくと、その傍らに座った。 「だれ?」  再び問いかけるが、相手は返答することなく黙ったまま悠に手を伸ばした。  思わずびくりと身を竦ませる。けれど相手は悠を害する気持ちは全くないようで、そのまま悠の髪を掻き撫でた。  悠は身を起こして、もう一度相手に問いかけようとした。が、その唇はゆっくりと相手の指に押しとどめられた。  聞くな、と言うのだろう。相手の仕草があまりに柔らかで、悠はようやく警戒を解いた。  相手にもそれが分かったのか、悠の起こした半身に腕を差し入れると、ゆっくりと悠を抱き寄せた。  そして悠の頬に指を滑らせると、涙の跡を優しく拭った。  不思議なことに悠は、少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。鼓動は相変わらず気味の悪い音を立てているが、相手の胸に顔を埋めるとそれも聞こえなくなる。  悠を抱きしめる腕に、力がこもった。  悠は、気を失うように眠った。 *  悠が目覚めたとき、傍らには誰もいなかった。  夢でも見たのかと疑ったが、自分で敷いたはずのない布団に寝ていたことに気付いて、やはり夢ではなかったのだと確信した。  暁はまだ帰っていない。  となると、あの優しい腕が誰の物だったか容易に見当が付きそうだが、悠は考えるのをやめた。  夕べより良くなってはいるものの、まだ起き上がることは出来ない。  悠は、あの腕のぬくもりを思い出しながら、再び眠ることにした。 * 「眠そうだねぇ」  真が涼に言った。 「あいつが夜中にうなされてなぁ」  目を擦りながら、涼はいつものインスタントコーヒーを啜っている。 「かなり無理させられたみたいだな」 「何があったんだろう?」 「どうもテレポーテーションを無理矢理やらされたらしい。あと、血がどうとか……」  詳しくは分からないが、きっと碌でもないことをさせられたのだろう。敬が悲痛な叫びを上げるたびに、涼は飛び起きて悪夢から彼を救わねばならなかった。 「涼は学校どうするの? 二人であんまり休むと、先生に疑われない?」 「そうなんだよなぁ」  鋭い指摘に、涼は頭を抱えた。もう既に三日間休んでいる。これ以上は避けた方が良いかもしれない。 「今日は僕が休もうか。明日は瞬が休んでさ。一日ずつなら大丈夫だから……ねぇ、瞬」  真は、後ろで身支度を調えていた瞬に声を掛けた。 「瞬?」  返事がない。窓の外を眺めてぼんやりとしている。 「シュ、ン!」 「えっ? な、何?」 「今日は僕が休んで敬を見てるから、明日は瞬ねって話だよ。聞いてなかった?」 「う……ん、ごめん」  心ここにあらずといった感じで、瞬はふらりと立ち上がった。 「じゃ、……僕、ご飯食べに行くね」 「え、待ってよ、僕も行くよ」 「おい、二人だけじゃ危な――」 「大丈夫だよ、最近あっちの連中、全然構ってこないもん」  真があっけらかんと言った。所長から何か釘を刺されているからか、ここのところ向こうの少年達とは、顔を合わせることすら滅多になくなっていた。 「何かされそうになったら、逃げてこいよ。俺も、敬の様子見てからすぐに行くから」 「うん、わかった」  真はにっこり笑って返事をしたが、瞬は後ろを振り向くこともせず、さっさと部屋を出ていってしまった。 「反抗期、かな?」  少し早いような気もするが、涼も通ってきた道だ。 「あれ、そう言えば」  と、涼は扉を見た。瞬は自分でこの扉を開けて出て行った。出会ったときは重すぎて開かないと言っていたのに。 「なんだよ、チビ達もでかくなってるんじゃないか」  そう独りごちると、思わずにやりと笑みがこぼれた。  こんな面白いこと、敬や暁にも早く教えてやりたい。 「早く良くなれよ」  涼は、部屋の隅で寝息を立てる敬に小さく声を掛けた。 *  悠がうとうとと微睡んでいたとき、再び人の気配がした。  気配は前夜と同じようにそっと悠の側へ忍び寄ってくる。悠は声を掛けることもせず、自分からその相手に腕を伸ばした。  今夜は月が出ている。薄い月明かりでは悠の目には何も映らないが、向こうには多少見えているのだろう。悠の腕を取ると、夕べと変わらぬ優しさで指を絡め取った。  と、相手がふと悠から離れるような動きをした。慌てて、悠が指に力を込める。  人影は一瞬驚いたように動きを止めたが、悠の意図が分かったようで手を離すことなくその場に横たわった。布団の脇に肘をついて悠を見ている。  悠はようやく安心して指を解くと、傍らの人影の胸にそっと寄り添った。  昨夜と同じ確かな鼓動が、悠を優しい眠りへ誘う。相手の腕が悠の背に回されると、悠はそのま浅いい眠りへと滑り落ちていった。 *  翌日、敬はようやく起き上がれるようになった。  真が運んできた食事を平らげ、茶を飲み干すとようやく、ほっと大きなため息を吐いた。 「マコ、ごめん。いろいろありがとう」 「いいよぉ、そんなの。もう一日くらいゆっくりすれば、明日から学校に行けるかな?」 「そうだな、うん、明日にはもう大丈夫そうだ」  今日一日、軽く動けばリハビリにも十分だろう。敬がそう言うと、真は満面の笑みで「よかった!」と答えた。 「じゃぁ、今日はもう瞬が休まなくても大丈夫かなぁ?」 「あぁ、一人で大丈夫だよ」 「ホントに? ご飯一人で食べられる? 涼が作っておいてくれてるの。レンジで温めて食べるんだよ?」 「大丈夫だって」  苦笑しながら、離れたところで敬を見ていた瞬を見遣った。目が合うと、すっと視線を逸らされる。 「そう。じゃぁ、僕学校に行くね」  そして視線を合わせないまま部屋を出て行く。 「どうかしたのか?」 「あ、ううん、敬のせいじゃないからね。ここのところずっと機嫌が悪いんだよねー。涼が反抗期だって――」 「マコ! 置いてくぞ!」  鋭い声が飛んできて、真は首を竦めた。 「ほーらね」  そして鞄を手に立ち上がった。 「それじゃぁ、いってくるねー」 「行ってらっしゃい」  真は、ちょうど食堂から戻ってきた涼に二言三言声をかけると、そのまま駆けていった。 「瞬の声、下まで響いてたぜ」  涼は笑っていったが、敬は少し思案げな顔をした。 「反抗期にはちょっと早くないか?」  と、涼と同じことを言う。 「まぁ……なぁ。でも、こんな状況じゃ、あいつが早熟になるのも無理もないと思うぜ」  瞬は、ずっと心の奥で、解消しようのない苛立ちを抱えていた。 「焦るなっていっても、なぁ」 「俺たちが言っても逆効果だろうしなぁ」  早く早く。早く大人になりたい。彼は言葉には決してしなかったけれど、その思いは手に取るように分かった。  この焦りを解消する術は、誰も持たない。彼らは皆、見守るしかできなかった。  こんな時暁がいてくれれば、と二人は思った。思ったが、口には出さなかった。 *  三日目の晩。  悠はひとり、深い眠りに落ちていた。  呼吸も脈もかなり楽になった。こんな深く心地良い眠りは本当に久しぶりだ。  人影が忍び込んできたことにすら気付かず、悠は昏々と眠り続けた。  ふと目覚めたとき、辺りは既に明け方の薄明かりに包まれていた。  視界の端に動く人影を捕らえ、悠はなぜ今自分が唐突に目覚めたのかを悟った。夜の間傍らにあったぬくもりが、今まさに離れてゆこうとしていたからだ。  咄嗟に悠は彼の手を掴んだ。  悠が完全に眠っていると思っていたのだろう。相手は、はっと身を竦ませた。だが、振り向くことはしない。  無言で悠の手を振りほどこうとする。  握力の弱った悠の手はすぐに解け、彼を自由にしてしまった。そのまま立ち去ろうとする後ろ姿に、溜まらず悠は叫んだ。 「待って!」  だが相手は歩を緩めない。 「行かないで……いかないで……」  悠が掠れた声を絞る。 「瞬!」  影が、立ち止まって、振り向いた。 「気付いてたの?」  振り向いた瞬は、少し疲れた顔で微笑んだ。 「行かないで」 「いつから」 「……行かないで」  噛み合わない会話に苦笑して、瞬は再び悠の傍らへと戻ってきた。 「行かない。ここに、いるよ」  悠の傍らに膝をつき腕を伸ばすと、悠が縋り付いてきた。 「瞬……瞬……」  瞬の胸に、いとおしさがこみ上げてくる。だが、瞬はこの感情をまだ知らない。  代わりに、悠を強く抱きしめた。 「バカ」 「うん……」 「怖いなら怖いって、ちゃんと言えばいいんだ」 「うん……」 「悠が独りぼっちでいると思ったら、たまらなくなって」 「うん……」 「分からないようにしてたけど、やっぱりチビだから、分かっちゃったね」 「ううん、違う」 「え?」 「ちいさいからじゃ、ないよ。ここ」  悠は少し身体をずらして、瞬の頭に手を伸ばした。 「前の晩、偶然髪を触ったら、癖ッ毛だったから、分かった」  悠の指が瞬の髪を優しく梳き、その目がゆっくりと細められた。  そのとき、瞬の背筋に奇妙な感覚がぞくり、と走り抜けた。  ぬるい衝動が瞬を突き動かす。瞬は、自分の髪に伸ばされていた手首を掴むと、軽くねじり上げた。  突然の瞬の行動に、悠が目を見開く。そこには怯えも恐怖もない。瞬が自分を害することなどあり得ないと、信頼しきっているのだ。  それが無性に嬉しくて、それなのに酷く腹立たしくて瞬は我知らず唇を噛んだ。視線を落とせば、骨張った鎖骨が浮き出ている。  この白い首筋に噛みついたらどんな声を出すのだろう。  そんな馬鹿な考えすら、甘美な震えをもたらす。 「シュ、ン?」  急に黙り込んで悠を凝視する瞬に、悠はいぶかしげに問いかけた。 「どうしたの?」  瞬はしばらく悠を見つめていたが、やがて小さくため息を吐いて、視線を無理矢理に引きはがした。 「ごめん、なんでもない」  ――僕は何を考えてるんだ。  悠を少しでも傷つけようなどと、ちらとでも考えたことが信じられなかった。  掴んでいた手首をそっと離すと悠の背に腕を回し、彼の身体を再び寝床へ横たえた。 「ちょっと疲れてる、かな」 「ずっと側で起きていてくれたの?」 「う……うん」  悠の、まっすぐ向けられる微笑みがなぜか辛い。 「ありがと……瞬、ありがとう」  悠は瞬の手を取ると、ゆっくり自分の頬に宛てた。  白い肌が薄明かりに輝いて見える。  再び妙な衝動が持ち上がりそうになって、瞬はびくりと身を竦ませた。 「シュ――」 「ごめん。僕ほんとに今日は、どうかしてる」  瞬は固く目を瞑った。そのまま身体を起こして悠から離れようとする。けれど悠がそれを許さなかった。握ったままだった瞬の手を軽く引く。瞬は呆気なく引き倒された。 「もうちょっと、一緒に寝よ」  悠は瞬の胸へ顔を埋めた。 「大きくなったねぇ」 「え」 「だって、前は君を簡単に抱っこできたのに」  もぞもぞと頭の位置を動かしながら言う。 「今じゃもう無理だ」  そして、安心しきったように小さくため息を吐いた。 「悠……」 「うん?」  眠たげな声が瞬の耳をくすぐる。 「僕、僕ね」 「うん」 「悠が……」  瞬は何かを言いかけたが、悠の顔を見て気を変えた。 「僕、頑張って勉強してる。好き嫌いも無くして何でもたくさん食べてる。体育も頑張ってる。学年で今一番足が速いんだよ。力だって強い。誰にも負けない」 「それはすごいねぇ」  悠が、瞬を見上げながらにっこりと笑った。 「だから僕ね」 「うん」 「早く大人になる」 「……」  同じ台詞を、悠は覚えていた。  あのとき、瞬はあどけない顔で笑っていた。  あれからまだ一年も経っていないというのに、今は、少し大人びた顔つきの、真面目な顔で悠に語りかけている。 「待ってる」 「えっ?」 「ゆっくり、待ってる」  だから、焦らないで。  徐々に小さくなる悠の声は、瞬に届いたのだろうか。 「急がないで。……時間は、君の……もの、だよ」  辛うじて聞こえた言葉は、瞬が理解するには難しすぎた。  瞬は眠っている内に離してしまわないよう、悠を抱える腕をしっかりと交差させた。そしていつしか、自分も緩やかなまどろみへと落ちていった。

ともだちにシェアしよう!