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第六章 羽化 2
穏やかな日々がゆったりと過ぎて行き、学生達は皆夏休みを迎えた。
瞬の担任の大津は、その言葉通り何も行動を見せず、敬と涼はほっと胸を撫で下ろしていた。
瞬の食欲も相変わらずで、他の者達も既にその光景に慣れっこになってしまっていた。
だが変化は、静かに、だが着実に、彼らの足下に忍び寄っていた。
夜だった。
七月も末ともなると、木々に囲まれた研究所でもかなり暑い。
寝苦しさに輾転反側していた真が、いよいよ我慢できなくなって起き上がった。時計を見ると、夜中の一時だ。
エアコンを入れようと壁のスイッチを手探りで探す。
するとそのときだった。
かすかな呻き声が、部屋の中でした。
最初、寝苦しさに誰かが声を上げたのかと思い、真は先にエアコンのスイッチを入れた。ブゥゥン、と虫の羽音のようなモーター音と共に、少し涼しい風が天井から吹き出す。
これでみんなも楽に眠れるだろうと、真は寝床に戻ろうとした。が、モーター音に交じって、今度は更にはっきりとした声が聞こえてきた。
声は真の寝床の隣から聞こえる。
「瞬?」
返事はない。ただ苦しそうに胸が上下するのが見える。
「どうしたの? 苦しいの?」
「う……」
瞬が首を動かす。と、窓から差す薄明かりに瞬の顔が光った。咄嗟に手を伸ばすと、ぬるりとした脂汗で真の手がべったりと濡れた。
「瞬、瞬!」
「い、た……い」
「痛い? どこ? お腹?」
「ちが……うっ……くぅっ!」
身体を二つに折り曲げて、痛みに耐えるように震えている。
これはおかしいと、すぐに真は二人の兄を呼んだ。
「敬! 涼! 起きてっ!!」
それほど大きな声ではなかったが、すぐに二人とも飛び起きた。
「どうした」
「瞬の様子が」
「涼、明かり」
言われるが早いか、涼は無言で壁に走った。
すぐに明かりが灯される。
三人が目にしたのは、シーツを握りしめて浅く呼吸を繰り返す瞬の姿だった。
酷い汗で、シーツもシャツもしとどに濡れている。
「マコ、タオルと水」
「うん」
「瞬、分かるか?」
敬がそっと肩を揺すると、瞬は目を開けた。
「どうした、痛むのか?」
瞬は頷こうとしたのだろうが、痛みに阻まれる。瞬は瞬きすることで肯定の意を伝えた。
「どこが痛む? 腹か?」
咄嗟にその場の誰もが、暴飲暴食のツケが今頃になって出てきたのかと疑った。だが瞬は即座に否定した。
「ちが……」
「それじゃ、どこだ? 頭? 胸?」
「ぜん、ぶ……からだ、バラ、バラに、なり、そ……」
それだけを押し出すと、ひときわ強い痛みが瞬を襲った。
「ひぃぁぁぁ……ッ!」
「しっかりしろ! 瞬!!」
全身の骨がねじ切られるようだ。何をしても痛い。痛い。痛い。痛い。
少し身体を動かすだけで、強烈な痛みが襲う。息をするとあばら骨が動き、それすらも激痛を伴った。唾液を飲み込むことも出来ず、知らず知らず溢れ出る涙と涎で酷く気持ち悪い。
「酷い熱だよ。足も手もすごく熱い」
真が半泣きになりながら瞬の手を握っている。
「涼、身体全部を冷やせるか?」
「やってみる」
朦朧とする瞬の傍らに涼が膝をついた。直接身体には触れず、少し浮かせて手をかざした。すぐに瞬の身体を白い冷気の靄が包み始めた。
「まず、瞬の周りの空気を冷やしてみる。駄目だったら、直接冷やそう」
冷たい空気を吸い込んで、瞬が咳き込む。その衝撃で瞬は吐いた。
「瞬! 頑張れ!」
敬も瞬の汗や汚れを拭ってやりながら声を掛ける。
「瞬!」
瞬は、痛みに苛まれながら、悠のことを思い出していた。
いつも痛みに一人で耐えていた悠。痛みがこんなに恐ろしいものだと、瞬は知らなかった。
――君は、いつもこんな思いを、たった一人で……。
「ごめん、ね」
「瞬? なに?」
だが瞬には今、誰の声も届いていなかった。
「一人に、して、ごめん……」
そう呟いて手を伸ばす。だが悠には手が届かない。
「瞬? ここに悠は居ないよ? 瞬!」
真の声が悲鳴に変わった。
「瞬が壊れちゃうよ!」
敬が唇を噛んだ。が、すぐに立ち上がった。
「おい」
瞬の体温に集中していた涼が、驚いて声を掛けた。
「続けていてくれ。暁を呼んでくる。……居てくれると良いが……」
そう言い残すと、すぐに駆けだした。
*
暁はいた。しかも幸いなことに、部屋の前で捕まえることが出来た。悠に知られずに済んだことに敬は感謝した。
「よぅ、どうした? そんなに慌て――」
「来てくれ。瞬が」
敬の顔を見ると、すぐに事の重大さを察し、暁は走り出した。
暁が部屋に飛び込むと、真がぐしょぐしょに濡れた泣き顔で出迎えた。
「アキ兄! 瞬を、助けて!」
「あぁ、大丈夫だよ。容態は?」
「全身が酷く痛むらしい。さっき吐いた。あと、さっきから悠を呼んでるんだ……」
ひどく呻く声が続いている。
「痛みの原因は?」
「それが、さっぱり……」
「最近変わったことは?」
「食欲……ぐらいかな。一ヶ月くらいものすごい食欲だった」
「それだけでは判断できんな」
暁は少しの間思案していたが、やがてきっぱりと言った。
「眠らそう。このままじゃ、ショック状態になりそうだ」
暁はそう言って瞬の額に手を置いた。
「幻視の応用だ」
短くそう言うと、掌に集中する。
すると、あれだけ酷かった瞬の呻き声がぱたりと止まった。
顔には穏やかな表情が戻っている。
しばらく呼吸は荒かったが、それもやがて収まっていった。静かな深い呼吸で、眠っていることが分かる。
「よし、大丈夫そうだな」
「すごい、あっという間に……」
「麻酔と似たようなものだ。痛みが脳に伝わらないよう、途中でブロックしてやったんだ。これでしばらくは大丈夫だろう」
「よ……よかったぁ」
真が一番最初に、を上げて泣き出した。緊張の糸が切れたのだろう。
「瞬が、死んじゃうかと……思った……」
暁が黙って真を引き寄せると、真はその胸に縋って泣きじゃくった。
「暁を呼んで、良かった」
敬も放心状態だ。涼は何も言わなかったが、敬と同じ気持ちなのだろう。小さく安堵のため息を吐いた。
「けど熱はまだ酷いな。涼、冷やし続けられるか?」
「任しとけ」
涼がぎこちなく笑って言う。
「これくらいの幻視は大体半日持つ。瞬の体の消耗が激しいから、このままちゃんと眠らせよう。起きたときにまだ酷い痛みがあるようなら、俺がまた眠らせる」
敬が黙って頷いた。
「みんな焦るなよ。まずは様子を見て、原因を突き止めよう。そうしたら対処方法も見えてくるから心配するな」
暁が言うと、その場の空気がほっとほどけるのを感じた。
「しばらく居てくれる?」
真が、おずおずと聞いた。遠慮がちに問う真がいじらしくて、暁は腕の中の身体をぎゅっと抱きしめた。
「もちろんだ。瞬がちゃんと良くなるまで、ずっと居る」
「よかったぁ……」
そう呟くと、真はまた泣き出した。そして、しばらく泣いた後でこてんと眠ってしまった。
「瞬を着替えさせたら、俺たちも寝よう。とりあえず、今夜は大丈夫だ」
「悠には?」
「言うな」
きっぱりと、暁が言った。
「でも、暁が戻ったことくらいは言った方が……」
「いや、いい。俺たちは、いつ帰るか知らせてないから」
そう言って笑った。敬は返事が出来ず顔を逸らした。
*
久しぶりに、いやな夢を見た。
しばらく見なかったから油断していた。
どろりとした空気の中、悠は立っている。
夢の中の悠は確信していた。
これは《予知夢》だ。
悠は歩き始めた。
空気が身体にまとわりついて酷く不快だ。見たくないのに。目を閉じてしまいたいのに。
その光景は、唐突に悠の目の前に現れた。
小さなぼんやりとした人影が一つ。
誰だかは分からない。だが、とても大切な人だったような気がする。
誰だろう? 悠が考えていると、その小さな人影が、ぐにゃりと歪んだ。
そこで、夢は途切れた。
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