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第六章 羽化 5
悠の血はすぐに止まった。暁は少しためらった後、シャツを裂いた。乾ききらない血液を拭って傷を検める。
どの刺し傷もすでに薄く皮を張り始めていた。暁は唇を噛んだ。
「マコをあっちに」
暁が促すと涼は無言で頷き、泣きじゃくる真を部屋へと連れて行った。悠を五号室まで運び、後を涼に託すと、暁は廊下にとって返した。
三人が無言で悠の血を片付ける。
バケツの水がすぐに赤く染まる。拭いても拭いても血は無くならない。
突然敬が立ち上がった。手にしていた雑巾を放り出して部屋へと駆け戻る。
それを見て暁が
「ちょっとここ、頼む」
と瞬に言い置いて、後を追った。
敬は部屋に戻るなり流しに駆け寄った。そして堪えきれずに吐いた。
「敬!」
部屋にいた涼が、すぐに敬に寄り添った。やさしく背をさすってやる。
敬は泣きながら吐いた。吐いて、吐いて、手に残る悠の血の臭いでまた吐いた。
後を追ってきた暁も、心配そうにタオルを手にしている。
「ごめ、ん、俺、あのときを、思い出して――」
しゃくり上げると、また吐いた。
「分かってる。ごめんな。お前にやらせてごめん……」
涼はそう言って、水で顔と手を洗ってやった。
悠の血は敬の心に暗いトラウマを残したまま、深い楔となって敬を苛み続けていた。
やがて吐けるだけ吐くと、ようやく敬は落ち着きを取り戻した。涼に抱えられ床に腰を下ろす。
「取り乱して、ごめん」
タオルの中に顔を埋めて、敬が小声で言った。
「そんな……こんなのあたりまえだよ」
涼がそう言ったが敬は首を振った。
「暁」
「うん?」
敬の声は小さくて、暁は敬の傍らに腰を下ろした。
「どうした」
「瞬を、あんなにして、ごめん」
暁はその言葉に絶句した。敬はずっと責任を感じていたのだ。
「瞬が思い詰めてたこと、知ってたのに、声を掛けることもしなかった。見守っていれば大丈夫って……。ちゃんと話していれば。話していれば……」
「これはお前たちの責任じゃない」
「でも」
「違う。それだけは絶対に違う」
暁が強く言い切った。敬がタオルの影から真っ赤な目を上げた。
「俺たちが、側にいたのに……」
「あのな、俺もお前達に謝らなくちゃならない」
「……」
「悠が、あんなに追い詰められていることに、気付けなかった」
暁が敬の肩に腕を回した。
「悠は、いつも笑ってた。それに俺は甘えた。あいつの涙を見るのが怖くて、何も聞けなかった」
暁は悠を見た。
部屋の隅で布団にくるまれている悠。傍らには真が眠っていた。その手には、決して離すまいと悠の手が握られている。
「マコやお前まで泣かせちゃったな」
そう言って肩に回した腕に力を込めた。敬が頭を振る。こぼれた涙と溜息は、タオルがすべて吸い取ってくれた。
*
その日の夜。暁は扉の閉まる音で目が覚めた。
咄嗟に傍らの布団を見て、ほっと息を吐いた。悠はちゃんと眠っている。
薄明かりで時計を見ると、深夜を少し廻っている。
暁はそっと布団から抜け出すと、先を行く足音の後を追った。
暁が階段を下りると、一階の廊下の窓から中庭を見つめている人影があった。
「瞬」
人影は名を呼ばれても振り向かない。眼前の植栽をぼんやりと見つめたままだ。
暁はその傍らに立った。
「眠れないか」
「十年分、寝たから」
そう呟いて自嘲気味に笑った。
月明かりに照らされる横顔は、若々しい生気に満ちあふれている。弱い月明かりにも、その目には強い光が宿っていた。
「暁」
「なんだ?」
「説教の続きは?」
「あぁ――」
暁は窓の枠に手をついた。
「みんな悠に言われちまったなぁ」
――君はゆっくり時間を掛けて君が得るはずだった物を、すべて置き去りにした。
「すべてを――」
悠の泣き顔。悠のうつろな笑顔。
「裏切った……」
悠に言われた言葉を思い出す。
「意味は分かるか?」
「……なんとなく」
「俺は今十九だ。見た目の年齢も、体力も、お前と同じくらいだ。でもな、お前と俺には決定的な違いがある」
「学力?」
「違う。経験だ」
暁は瞬の顔を見た。
「極端な例え話をしようか。九歳のお前と十三歳の悠が、並んで歩いている。楽しく笑って話しながらな。お前は、冗談を言って悠の肩を軽く押した」
瞬が黙って頷く。
「さて今度は、十九歳のお前と十三歳の悠だ。同じ状況で同じように歩き、同じように冗談を言って、同じようにじゃれて肩を押す。だが、悠はよろけて倒れて怪我をした。この違いが分かるか?」
「想像は……出来る」
「九歳のお前と、十九歳のお前。同じように力を加えたとしても、その差は大きいな。その力加減を人は時間を掛けて身につける。経験で学ぶ。だが、お前はその時間をすっ飛ばした」
瞬は神妙な顔で頷いた。
「お前の得た力が誰かを傷つける。お前の本意でないことは俺たちは十分に知っている。だが世間ではそうは見てくれない。『知らなかった』『そんなつもりはなかった』は通用しない。九歳のやることなら許してくれるが、十九歳のお前は、もう誰にも甘えることは出来ない」
そう言ってから、緊張を解すように笑った。
「俺たちがいるのはこの研究所の中だ。そう怖がることはないし、俺たちもいる。その覚悟だけして、後は空白の十年を一日も早く埋める努力をすることが第一だな」
「う……ん」
「その身体じゃ、もう学校には行けないぞ。高校ぐらいなら行くことも出来るが、小中の基礎学力を付けてからじゃないと無理だ。厳しいようだが、これも自分で何とかしろ」
「分かった」
「身体のことも、勉強のことも、生活のことも、何でも俺たちに聞け。お前の経験不足を、出来るだけ俺たちが補ってやる」
「うん」
「あとは……」
「あの、暁」
「うん?」
「悠の、事なんだけど」
その名を口にした途端、瞬の声が弱々しい物に変わった。
「あぁ」
「僕は……どうしたら……」
「分からん」
瞬は言葉に詰まった。何とかしてくれと泣いて縋り付きたかったが、それがもう赦されないことは重々承知していた。
「まぁな、悠がお前に言ったことは正論だったよ。だが、お前が言うなとも思ったな」
瞬が驚いて暁を見た。
「だって、そうだろう? 自分ばっかり犠牲になって、他の者は黙って見てろだなんて。そんなひどい話があるか」
「うん」
「だから、俺はお前が少しうらやましい」
「うらやましい? 暁が? 僕を?」
「お前は自分の願いに忠実だった。自分の意志を貫いて、時間まで超えちまった。俺に出来ないことをやったからな」
「……」
「お前は自分を戒めるのと同じくらい、自分を誇りに思わなくちゃならない。これから、失った十年のことをきっと後悔することがあるだろう。得た物よりも、得られなかった物の方が大きくて、絶望するかもしれない。だが……お前はどうして力を欲しがった?」
「悠のため」
瞬は即答した。暁が頷く。
「それさえ見失わなければ、お前は、自分を見失わずに進んでいけるだろう」
謎かけのような暁の言葉に、瞬は少し頭が混乱した。だが暁の一言一句を脳裏に刻み込んだ。いつか必ず、この言葉を理解できる日が来るだろう。そう信じたかった。
「なぁ、悠を責めるなよ」
「責めるなんて……」
瞬が慌てて頭を振ると、暁が笑った。
「それならいいんだ。……あいつは、分かってるんだよ。自分が、みんなの身代わりで無いことは」
「え?」
「所長は、お前や敬たちがいなくても悠を同じように扱っただろう。所長の悠に対する執着は、それくらい異常だ。まぁそりゃそうだよな、所長にしてみりゃ、死なないモルモットを手にいれたようなもんだ」
「モルモ……」
瞬の頭に、カッと血が上った。
「そんなの……!」
「熱くなるな。冷静でいろ」
暁が瞬の額を小突く。
「俺の台詞でカッカするなよ。相手が違うだろ?」
「う……ごめん」
「所長が悠の力を調べて何をするつもりなのかは分からん。だが悠自身も、所長の異常な執着はよく分かっている。分かっているから、お前達の存在に縋りたかったんだと思う」
「縋る……」
「あぁ。所長の暴力を我慢しさえすれば、瞬たちは無事でいられる、って自分を騙してでも思い込まないと、堪えられなかったんだろう」
暁の話を聞きながら、瞬は悠のことを思った。
あの夜、一人にしないでと泣いていた悠。
それなのに彼は血の涙を流しながら、一人でも平気だと言った。自分にさえ嘘を吐いて、いつも同じ台詞を口にする。
平気。怖くない。死にたい。殺して。
あれは全部嘘だ。全部が、悠の本心の裏返しだ。
イヤだ。怖い。死にたくない。助けて。
「僕は縋り付いていた悠の手を、振りほどいてしまったんだ」
自分が引き金を引いてしまったのだ。
「悠を傷つけたくないって思ってたのに」
悠を守るために得たもので、悠をずたずたに切り裂いてしまった。
「……僕は一歩も動けなかった!」
降りしきる血飛沫の中で微笑む悠を見て、瞬は動けなかった。傷を押さえることも、血だらけの身体を抱きしめることも簡単だったはずだ。それなのに、瞬は何もできなかった。恐怖で身が竦んだのだ。
「何が守るだ! 偉そうに強がったって、結局暁には敵わないんだ!」
絞り出すように瞬が言った。悔しい。悔しくて、恥ずかしい。
暁はそんな瞬をじっと見つめていたが、やがて優しく言った。
「誰でも、怖いのは同じだよ」
「……」
「問題はそれを克服するかどうかだ。これも経験の差、だな」
そしてもう一度、瞬の額を小突いた。
「なぁ、お前、悠が好きか?」
「……?」
突然違う話題を振られて、瞬は戸惑った。
「九歳のお前に訊いてもわからんかな?」
暁がいたずらっぽく言う。
「好きかどうかって? 好きに決まってるけど?」
「うーん、お前の言う好きと、俺の言う好きは似ているようでちと違うんだが」
やっぱり質問の意味が分からない。
「好きに違いがあるの?」
瞬が子供っぽい仕草で首を傾げた。
「やめとけ、瞬。その図体でその格好じゃ、ちょっと気持ち悪いぜ」
言われて瞬はふくれっ面を返した。
「ガキで悪かったね」
「まったくだ」
そう言ってから、暁は真面目な顔に戻った。
「お前は悠のために命を懸けられるか?」
その問いの意味は瞬にも分かった。昼間、暁が悠に囁いた言葉を思い出す。
「暁は……」
「うん?」
「あれ、本気、だった?」
「あぁ」
――死ぬなら俺も連れて行け。
「悠がもし首を掻き切ったら、俺もすぐにそうするつもりだった。あいつを一人で逝かせるなんて、出来ない」
暁は静かにそう言った。
「これが俺の言う『好き』だな」
そしてまた笑った。
「今はまだ分からなくても良い。ちゃんと理解できるときが来るから、そのときまで俺の言ったことを覚えていてくれよ」
瞬は力強く頷いた。もう後戻りは出来ないのだ。
「遅くなったな。もう寝ようか」
「もう少し、ここにいる」
「……分かった。気をつけろよ」
「うん。お休み」
瞬が言うと、暁は以前と同じように瞬の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でた。
そして少し寂しそうな顔をすると部屋へ戻っていった。
これから、何度も皆の寂しそうな顔に出くわすだろう。幼い瞬の面影を求める顔に傷つくだろう。
だがそれでも瞬はこの道を選んだのだ。
――悠の、ために。
悠のことを思うと思いは千々に乱れた。
今夜は到底眠れそうになかった。
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