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第七章 拷問 2
使いが来たのは朝早くだった。全員が予想していた通り、所長は瞬を呼び出した。
「やっぱり監視してやがったか」
涼が影でぼそりと言う。だがその涼も、使いの男の続けた台詞に顔色を失った。
「悠も? 一緒に?」
男は無言で頷く。
「どうして!?」
真が叫んだ。
「悠は関係ないでしょう!」
「マコ」
「だって悠はずっと泣いてるんだよ! それなのにどうしてまだいじめるのさ!?」
真が白衣の男に掴みかかった。
「もういっぱい悠のこと調べたんでしょ? 痛いことたくさんしたんでしょ? さんざん酷い事しておいてまだ足りないって言うの!?」
「この人に言っても無駄だよ」
瞬がそっと真の肩を抱いて、激情を押しとどめた。
「大丈夫だよ、きっと僕を呼び出すために悠を口実にしたいだけさ」
努めて明るく言う。ここで逆らえば累は全員に及ぶだろう。それは悠の望むところではないはずだ。
瞬は暁を見た。暁も黙って頷く。
瞬は扉で待つ白衣に一瞥をくれると、部屋の隅で眠る悠を抱き上げた。
その顔は、泣き腫らした瞼と落ちくぼんだ眼窩のせいで酷くやつれている。
本当は連れて行きたくなどない。恐ろしい悪魔の前にこんな弱った悠を連れて行けるものか。
瞬は激しい憤りを覚えた。だがどこをどう探しても、所長の命令に背く選択肢はなかった。
「行ってくる」
「気をつけて……」
敬が小さな声で言った。他の皆は、なにも言うことが出来なかった。
*
二人が連れて行かれたのは、やはり地下の実験フロアだった。八月だというのに地下はひんやりと薄気味悪い空気に満ちている。
エレベーターからさほど歩くことなく、瞬は小さな部屋に通された。
そこには既に所長本人が待ち構えていた。
部屋の奥に重厚なデスクが一つ鎮座している。安っぽいラバー製の床の上で、そのデスクの存在感は却って滑稽だった。
所長はそのデスクの脇に立っていた。部屋の入り口付近には、数人の白衣の男が控えている。
「それを椅子に置け」
瞬が部屋に入るやいなや、所長が命令した。悠を荷物のように言われ、瞬は無言で所長を見た。口元を引き結び怒りを抑える。
「聞こえなかったのか?」
所長は瞬を見もせずに言った。尚も瞬が黙っていると、控えていた白衣が強引に悠を瞬から奪い、椅子に下ろした。
悠は目を開けていた。
いつから起きていたのか、瞬でさえ気付かなかった。驚いて悠の顔を見たが、彼の表情はうつろなままだ。
「瞬。君は急激に成長したようだな」
所長が初めて瞬の方を見た。鋭い眼光が瞬を刺す。だが瞬は臆せず受けて立った。
「はい」
「心当たりはあるか」
「いいえ」
「きっかけは?」
「大人になりたいと、願ったから」
瞬が答えると、所長が鼻で笑った。
「願って成長できれば世話はない。私が欲しいのは再現性だ。偶然などいらん。これから君には検査に付き合ってもらう。大人になりたての、君のすべてを調べる」
「……」
「協力するな?」
「なぜ、悠が必要だったんですか?」
「なに?」
「僕だけで良かったはずだ。悠がいなくたって、僕はちゃんとここに来た」
「あぁそのことか。これは君とは全くの別件だ」
そう言って、所長はデスクの脇からゆっくりと悠の方に近づいてきた。
「すっかり惚けているな」
所長は悠の髪を掴んだ。ぐいと上を向かせる。悠の目がぼんやりと所長を写した。
「悠に触るな!」
「騎士気取りか?」
所長はそのまま、悠を椅子から引きずり下ろした。
瞬が悠の側に駆け寄るよりも早く、白衣が瞬を取り押さえた。二人がかりで瞬の腕を絡め取る。
「手を、離せっ!!」
所長が笑う。髪を掴んだまま揺すると、悠の身体は糸の切れた操り人形のように揺れた。
「目を覚ませ。さもないと、お前の大事な瞬が痛い目に遭うぞ」
所長が言った。
「う……」
痛みのせいか、それとも脅しの言葉が耳に届いたのか、悠の目が意志を持って動いた。
「い……っつ……」
「悠!」
「喚くな」
再び、所長の鋭い眼光が瞬を射た。
「シュ、ン?」
悠の瞳の焦点が瞬に結ばれる。それだけで瞬は涙が出そうな程の喜びに震えた。
「悠……」
だがのんびり感傷に浸っている暇はなかった。
所長は悠の髪を無造作に離すと、瞬を押さえていた男に顎をしゃくった。
「時間を無駄にするな。連れて行け」
「待てよ! 悠をどうするつもりだ!」
このままでは悠と引き離されてしまう。瞬は何とかそうさせまいと言い募った。
「僕は悠と一緒じゃなきゃ行かないぞ!」
「ダメ」
悠が泣きそうな顔で言った。所長に逆らってはいけない、と必死に目が訴える。
それを無視して瞬が言った。
「もう離れないって決めたんだ」
「それはそれは」
所長が嘲笑ったが、瞬は意に介さなかった。ただ、今の言葉が悠に届くよう、悠だけを見つめて祈る。
「良いだろう、一緒に連れて行け」
「ですが、所長」
白衣の男が、邪魔だと言わんばかりに異を唱えたが、所長は目で男を抑えた。
「部屋の隅にでも転がしておけば、邪魔はせんだろう」
その言葉に悠は驚いた。所長が譲歩するなど思いもよらなかったのだ。だが同時に、嫌な予感がじわじわと悠の胸を覆った。
「行け」
所長が命令を下した。二人は、瞬く間に別の部屋に連れ去られた。
*
瞬の検査は真夜中過ぎまでかかった。
運動能力測定に始まり、採血、視力、聴力、筋力、心電図、レントゲン、MRI、果ては二人にもよく分からない検査まで、数え切れないほど行われた。
その間、悠は部屋の隅のパイプ椅子に深く腰掛けていた。こんな状況なのに彼の表情はとても穏やかだ。
本当はくだらない検査など放り出して悠とたくさん話をしたいのに、それも叶わず瞬はじりじりと焦れた。
悠は、検査を受ける瞬をじっと見ていた。
よくよく思い返せば、成長した瞬をこんなにじっくり見たのは、初めてだ。
あの日、混乱してナイフを持ち出した辺りまでは覚えていた。だが最初に刃を腹に刺した時点から以降の記憶は、とても曖昧なものになっていた。
何度か腹を刺した。他にもあちこち切ったような気がする。何もかもどうでも良くなって全部を投げ出したくなった。暁に何か言われて、泣いた。
そこから先は、ほとんど泣いていた記憶しかない。
夢の中で泣いて、目覚めて泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。
涙が、消毒薬のように傷を洗ってくれたのかもしれない、と悠は思った。
そして、その間ずっと聞こえていた声。あの声は、たぶん……。
「大丈夫?」
まだ馴染みの薄い、ハスキーな声が上から降ってきた。
知らず知らず目を閉じて物思いに耽っていたらしい。心配そうに見つめる瞬の顔を仰ぎ見て、悠は微笑んだ。
「終わった?」
「次の検査の準備が終わるまで、休憩」
そう言って、悠の椅子の傍らに腰を下ろした。
「平気?」
「うん、痛いことは、されてない」
そして逆に悠に尋ねた。
「悠こそ平気? 横になってなくて……」
「うん、大丈夫」
そう言って笑うと、瞬は安心して緊張を解いた。おずおずと悠へ手を伸ばし、彼の頬に手を添える。温かく大きな手は、悠の頬をすっぽりと覆ってしまう。
悠はうっとりと目を閉じた。
「あったかい」
「今日は、泣かない?」
掠れた声が問う。悠は、目をゆっくりと開けて頷いた。
そう、ずっと聞こえていたのは、まだ声変わりしたことに慣れていない瞬の声。
「なんだか、僕の方が泣きそうだ」
そう囁くように言って、瞬は以前と変わらない柔らかな笑顔を悠に向けた。
「シュ――」
「そろそろ次に行くね」
温かな掌が離れてゆく。悠はほんの少し寂しさを覚えた。
「う、うん、ここで、見てる……」
「うん」
瞬が立ち上がった。すらりと均整の取れた身体が、悠の眼前に現れる。
今はまだほっそりとしているが、きっとすぐにしなやかで強靱な筋肉に覆われるだろう。
今し方離れていった掌は、皮膚も関節も硬い大人の男の手だった。小さく柔らかだった瞬の手は、もうない。永遠に失われてしまった、あの可愛い仕草、顔、声を思うと、悠の胸にはまだ鋭い痛みが走る。だが、その痛みの奥にある、かすかな甘い疼きは一体何なのだろう?
「もう離れない」と瞬が言ったとき、瞬の手が頬に触れたとき、甘い疼きははっきりと顔を見せたのに、すぐにどこかに隠れてしまった。
正体を探るのが恐ろしいような気がして、悠は、とりあえず考えないことにしようと思った。
――目の前の事だけを考えよう。
しかし、それもまたとても難しかった。
*
すべての検査が終わり、二人が再び所長の前に連れてこられた時、日付は既に翌日となっていた。
単純な検査ばかりではあったが、さすがに瞬も疲れていた。
瞬は悠を庇うように後ろ手に隠し、所長と対面した。
「終わりました」
「ご苦労」
「それでは失礼します」
長居は無用と、廻れ右をして悠を促す。一刻も早く悠をここから連れ出したい。既に一歩を踏み出していた瞬は、所長の言葉が発せられないうちに部屋を出ようと急いだ。だが、やはり間に合わなかった。
「待て」
所長がぴしりと言った。
「もう用は終わりました。さぁ、帰ろう」
「君ではない。私は悠に用がある」
有無を言わさぬ強さに、悠の足が止まった。
「ダメだ。帰ろう」
瞬が耳元で促す。しかし悠は怯えた目で瞬を見て、首を振った。
なぜ、こんなにも恐れているのに逃げないのだろう。瞬は腹立たしい思いで悠を見る。だが悠は蛇に睨まれたように硬直し、やがて所長の前へと歩み出た。
「な、んで、しょうか」
「呼ばれた訳が分かるか?」
悠の身体が、びくり、と強張った。
「いい……え」
「お前は、この前何をした?」
「……」
「何をした」
瞬は、所長の言っていることが分からなかった。所長は何に怒っているんだ?
「答えられないか?」
声を荒げたわけでもないのに、部屋の空気がびりびりと震える。
「お前は、自分で死のうとしたな?」
悠が息を呑むのが分かった。
「は、い……」
「私の許しもなく、勝手に死のうとしたな」
「はい……」
所長の言葉に危険な物を感じて、瞬は悠を庇おうと動いた。が、またもや先に周囲の男に押さえられてしまった。
「二度としないか」
「……」
悠は答える気力もなくしたのか、無言で頷いた。
「よろしい、では軽い罰で許してやろう」
その瞬間、悠の血の引く音が聞こえたような気がした。
「何をする気だ!」
瞬は腕に縋り付く男を振りほどいたが、別の男がすぐに腕を押さえに来る。きりがない。
「騎士君は威勢が良いな」
所長がにやりと笑う。
「お前は、悠と一緒にいると言ったな」
「あぁ、言ったさ!」
「それなら、最後まで一緒にいてやれ」
所長が言うと、瞬を押さえていたのとは別の男達が、悠の身体を拘束した。
「離せ! 悠に触るなッ!」
悠は恐怖に顔を引きつらせているが、抵抗すら諦めてしまい、されるがままになっている。
悠は床に横たえられると、そのまま上半身を押さえ込まれた。
「くそっ、逃げろ! 悠!!」
瞬はめちゃくちゃに身体を動かして、男達から逃れようともがく。
「悠……悠……!」
「さぁ、瞬。よく見ていろ」
所長が言った。それが合図だったのか、更に別の男が悠の側へとやってきた。
その手に持っていた物を見て、瞬は言葉を失った。
「な……」
男の手にあったのは、大きな木槌だった。
「なに……それ……」
「知りたいのなら、教えよう。これから、悠の右足を、潰す」
「は……?」
「膝から下を、な。今回は片足だけで勘弁してやる」
所長はにやりと笑った。
「瞬が検査に協力的だったご褒美だ。悠、瞬に感謝するんだな」
「ウソ、だろ……? そんなひどいこと……」
瞬は恐ろしさと怒りとでぶるぶると身体を震わせた。
「やめろ……やめろ!」
「シュン」
か細い声が瞬の耳に届いた。悠が男達の下で諦めたように微笑んでいる。
「いいよ、もう、いいから」
「良くない! 逃げよう、一緒に逃げよう……」
「いいんだ。お願いだから、目をつぶって……耳を塞いでいて……」
「噛ませろ」
所長の指示で、悠の口に布きれが噛ませられる。
「私に逆らったらどうなるか」
所長が、男に頷いた。
「二度と離れないというなら、お前もしっかりと見ておくんだな」
「やめろ! やめろやめろ――!!」
男が木槌を振り上げた。
それが振り下ろされたとき、ぐしゃりと何かが潰れる音と、悠のくぐもった悲鳴が聞こえた。
どれほどその責め苦が続いたのだろう。
悠はとうに気を失っていた。
瞬は、その拷問を全て見ていた。
悠の右足は大きくひしゃげ、赤黒い内出血が足全体を覆っている。
怒りと、悲しみと、悔しさと、憎しみと、ありとあらゆる感情が、瞬を突き上げる。
瞬は我を忘れ、声を枯らして、やめろ、やめてくれと叫び続けていた。
ふと、腕を押さえていた力が緩んだ。
瞬は無我夢中で腕を振りほどくと、槌が振り下ろされる瞬間に悠の上へ身を投げ出した。
そして肩に堅く重い衝撃を感じて、気を失った。
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