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第七章 拷問 4
瞬はレントゲン室に寝台を運び込み、二日間を悠と共に過ごした。
決められた時間毎に撮影が行われる。
瞬はずっと起きていたかったが、極度の疲労がそれを許さなかった。
日の光のないレントゲン室で寝起きを繰り返す内、瞬には時間の感覚が失われていった。
「酷い顔だな」
何時間ぶりか――おそらく十二時間ぶりだと思うが――に部屋を訪れた男が、瞬の顔を見て言った。
今が昼か夜かも分からず、悠のことが頭から離れず、瞬は深い眠りに落ちることが出来なかった。
浅い眠りが、逆に瞬の疲労をより深くしていた。
「あぁ……。今、何時だ」
「朝の五時だ。飯を持ってきた」
男は時折瞬に食事を運んできた。最初瞬は食事を拒んだ。何か混ぜ物がしてあるかもしれないと思ったのだ。
頑なな瞬の態度を見て、男は笑って盆の食事を箸でつまんだ。そしてそれを自分の口に運んでみせた。
「ほれ、安全だ。気にせず食え。食わんと、嬢ちゃんに何かあったときに動けないぜ」
そう言われて、瞬も渋々箸を付けたのだった。
「わざわざ済まない」
「礼を言われると、却って恐縮するな」
そう言って男は瞬を手招きした。瞬も素直に部屋を移る。
「食いながら訊けよ。撮影はあと一回、十二時間後で終わりだ。その写真で、専門の奴が判断する。これ以上経過観察していても無意味だとなれば、お前さん達は晴れて自由だ」
瞬が話を聞きながらぼんやりしていると、
「毒味がまだだったな」
と、瞬の目の前の皿から肉を一切れすくい上げ、口に放り込んだ。
「後十二時間……か」
「……」
「それくらいで悠の目も覚めるかなと思って」
「そうだな」
瞬は、目を閉じた。ようやく長かった二日間が終わる。
「次にここに来るとき、水を持ってきてくれないか?」
「あぁ、構わないよ」
「多めに頼む。悠が飲みたがるはずだから」
「わかった。それじゃゆっくり食えよ。今から撮影するからな」
男が立ち上がって、悠の方へと歩いて行く。
上掛けをどけ、足の位置を合わせる。
瞬はそれを見ながら、皿の食事に手を付けた。食欲はなかったが、体力は温存しなくてはならない。
肉を一つ飲み込む。早く悠の笑顔が見たい。悠と一緒に前後不覚になって眠りたい。
もう一切れ肉に箸を延ばしたとき、不意に瞬の視界が揺れた。
「あ、れ?」
目を擦ろうとしたが果たせず、瞬はそのままがくりと横に倒れた。
皿が音を立てて床に落ちる。
遠くで見ていた男が、ゆっくりと瞬の元へ戻ってきた。
口から肉を吐き出す。
「騙して、すまん」
手早く撮影を済ますと、落ちた皿と料理を片付け、部屋の電気を落とした。
「このままだとお前さんの方が先に参っちまいそうでなぁ」
瞬を肩に担ぐと、隣室の寝台へと横たえた。部屋からは二人の寝息の他は何一つ、物音は聞こえなかった。
*
「シュン」
優しい声がする。
「瞬」
少し笑いを含んだような声だ。
「瞬?」
冷たく柔らかい物が頬を包む。
「そろそろ薬が切れる頃だと思うが……」
別の声が言う。
「えぇ」
柔らかい物が頬を離れる。嫌だ、と思った瞬間、手が動いた。
「あっ」
その柔らかい物を掴んだ。
「起きてるの?」
「坊。嬢ちゃんはもう起きてるぜ」
男の声が言った。その言葉に、瞬の頭が一気に覚醒した。
「悠!」
「ひゃっ!?」
覚醒と同時にがばと身を起こす。視界がぐらりと揺れた。
「あー、ほら、薬が完全には抜けてねぇんだから……」
男が言う。言っている意味がよく分からなかったが、目の前に悠が笑って腰掛けているのは分かった。
「まずは水飲んで。手を離してからね」
見ると、先ほど捕まえた手を握ったままだ。
微笑む悠の手から水の入ったグラスを受け取ると、果たしてこれは夢の続きなのだろうかと訝しみながら、水を飲んだ。
冷たい水が喉を滑り降りると、頭がはっきりしてくる。
「大丈夫? 気分は悪くない?」
空になったグラスを受け取りながら、悠が訊ねた。
「うん。あの……」
悠が穏やかな顔で笑っている。
あんなに痛い思いをしたのに。恐ろしくて泣いていたのに。
「……」
思いばかりが先走って、言葉が一向に出てこない。
瞬は、もう一度悠の手を取ると、自分の額に押し当てた。
どれくらいそうしていたのか。
固まったまま動こうとしない二人に、男が小さく咳払いして注意を自分に向けさせた。
「嬢ちゃんの足について、結果が出たから伝えておくな」
二人が、男を見て頷いた。
「嬢ちゃんの足は、ほぼくっついた。だが元通りというわけにはいかなかった。足首の関節と舟骨、距骨の部位に変形が見られた。舟骨と距骨ってのは、ここんところだな」
男は、悠の足の部分を指さした。
「元通りの状態で歩けるようになるかどうかは、難しいところだな。リハビリ次第では、元の70%の状態まで戻るかもしれない、と言うのが、専門の奴らの見立てだ」
悠がゆっくりと頷く。やはり覚悟していたのだろう。表情には全く変化がなかった。
「その他、神経系の復元は未知数だと。麻痺はないが今後元の程度まで感覚が戻るかどうかは、骨より時間が掛かるためよく分からんと。あとは細胞の壊死は見受けられず、内出血も完治ってとこだな」
「僕たちは、もう自由か?」
瞬が言うと、男が困ったように言った。
「とりあえずは、な」
その言葉に瞬は唇を噛んだ。実際その通りなのだ。悠が瞬の手を優しく握り返した。今はそれで十分だよ、と、その目が言う。
瞬は寝台から降り、立ち上がった。
「お世話になりました」
瞬はそう言って男に頭を下げた。
「お、おい……」
男は慌てた様子で瞬を遮る。
「そんな、礼を言われる筋合いなんて……」
「あんたがたとえ所長の手先でも、たとえこの親切に何か裏があったとしても、それでも今回僕と悠を助けてくれたことに違いはない。だから、僕は僕の筋として、あんたには礼を言う」
まっすぐな目で瞬は男を見た。
「いや、そう言われると……。困ったな」
男が頭を掻いた。
「あんたを最後まで信用できなくて、残念だと思う。でも色々ありがとう」
瞬が言うと、傍らの悠も痛む足を押して立ち上がり頭を下げた。
「まいったな。頭を上げてくれよ」
男が心底困ったように言う。瞬と悠は顔を上げると、ふふと笑いあった。
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」
瞬は悠を抱き上げた。痛めている右足に障らないよう、膝下を支える。
少し右肩が痛んだが、腕の中に悠がいる喜びを思えば痛みなど何でもなかった。
男の先導でレントゲン室を出て、エレベーターへ向かう。
エレベーターのボタンを押した後、男が瞬を振り返った。
「最後に、一つ訊いて良いか?」
男が言った。
「お前さん、何で急に成長したんだ?」
「そんなこと、決まってる」
瞬は静かに笑った。
「悠のために、悠を守るために力が欲しいと、願って、願って、願ったから」
「人は、どんなに願っても時間を飛び越すことは出来ない」
瞬は、腕の中の悠に目を落とした。
「……僕が願って、成長できた理由は分からない。それを考えるのは、あんた達の仕事だろう?」
瞬が言うと、男が頭を掻きながら笑った。
「確かに、その通りだ」
エレベーターの扉が開いた。二人が乗り込む。
男がエレベーター内のボタンを押した。
「俺が言うのも何だが……元気でな」
「ありがとう」
悠も黙礼で返した。
扉が閉まった。
*
二人は、馴染みのある空間へ戻ってきた。
エレベーターを降りると、今が夏の盛りだったことを思い出した。
蝉の声がうるさいほど聞こえる。夕方も遅い時間なのか、西の空に赤い残光はあるものの、辺りはすでに薄暗くなっていた。
「どっちの部屋に行こうか」
瞬が問うと、悠が小さい声で
「二人になりたい」
と言った。
本当なら早く皆に無事を伝えたい。けれど瞬も悠もしばらく他の目のないところで、静かに無事を喜びたかった。
瞬は二階端の小部屋の扉を開けた。少し前まで悠と暁が寝起きしていた部屋だ。
しばらく人の出入りがなかったからか、部屋にはむっとした湿気が籠もっている。瞬が明かりと共にエアコンのスイッチを入れると、その不快感もすぐに消えた。
瞬は部屋の隅に畳んで積んであった布団に、悠を凭せ掛けた。そして毛布を畳むと、右足の下に差し込んだ。
「ありがとう」
「お腹空いた?」
瞬は、悠を下ろすとすぐに立ち上がろうとした。
「食堂の時間はもう終わったかな。何なら下に行って持って来――」
「瞬」
優しく制せられ、瞬は口を噤んだ。
「座って」
悠の命令におとなしく従う。
「肩、痛む?」
悠の手が、脱臼した肩を優しく撫でた。
「ううん。平気」
「あの人に聞いたよ。瞬が僕を庇ってくれたって。僕の膝を守ってくれたって。膝がやられてたら、こんな物じゃ済まなかったから、感謝しろって、言われた」
瞬は俯いて頭を振る。
「こっち向いて」
だが瞬は頑なに首を振り続ける。
「あのね。今日目が覚めたとき、最初に君の顔が見えた。とっても、とっても嬉しかったんだ。瞬はずっと側にいてくれたんだって……」
瞬は顔を上げない。悠が彼の頬に手を添えた。悠の手が濡れた。
「顔、見せて」
それでも顔を上げない瞬に、悠は苦笑してそっと身体を寄せた。
「瞬」
首に腕を回す。するとすぐに、瞬が強い力で抱き返した。
「ごめ、ん……!」
掠れた声が子供のようにしゃくり上げた。
「怖い、思、い、させて、ごめん」
「ううん、……ううん……違うよ」
君がいてくれて、どんなに心強かったか。
瞬が肩を痛めたと聞いたときは、どうしてそんな無茶をするんだと腹が立った。だが、同時にそんなにまでして自分を慕ってくれる事に、暗い喜びを感じたことも事実だった。
大事な時間を捨て置いてまで自分を追いかけてくれる。尊い犠牲を払い得られた、自分を抱く逞しいこの腕をもう手放すことなんて出来ない、と悠は悟っていた。
「僕は……汚い」
悠が囁く。瞬がぎょっとして腕の力を緩めた。涙に濡れた顔で悠を見つめる。
「君が僕のためにしてくれることが、怖い。大事な君を傷つけるのが、怖い」
悠が僅かに身じろぎすると、右足が引き攣れるように痛んだ。
「それなのに、君が側にいてくれると、嬉しい。嬉しいんだ」
この足の痛みは、本当に罰なのかもしれない。
――瞬の時間を奪っておいて、嬉しいだなんて!
歓喜と罪悪感との狭間で悠の心は激しく揺れ動く。
「ねぇ」
瞬が、言った。
「もう、僕らの間で難しいことを考えるの、やめよう」
「え?」
「悠は、僕が側にいて、嬉しい? それとも、邪魔? 鬱陶しい?」
真剣な顔で問われて、悠は思い切り頭を振った。
「邪魔なんかじゃない! 嬉しい……すごく嬉しい」
「うん。僕も、悠の側にいられて、嬉しい。力が足りなくて、いっぱい泣かせちゃうし、落ち込むけど、でもやっぱり嬉しい」
瞬が笑った。
「お互いに、一緒にいられて嬉しいなら、それで良いことにしよう?」
瞬の笑みが胸に温かい。
きっと、そう単純に割り切れない事もたくさんあるだろう。けれど瞬の言葉があればそれで十分だ、と悠は思うことにした。
「うん」
そしてそっと瞬の頬を、袖で拭った。
と、そのとき瞬の腹の虫が、くぅ、と鳴いた。
「お腹空いた?」
「うん。そう言えば、丸一日何も食べてない……」
空腹を自覚した途端、瞬は猛烈な食欲に襲われた。腹の虫が今度は盛大な音を立てる。
「ねぇ、一緒に下に食べに行こうか」
悠が笑いながら言った。
「久しぶりに、温かいご飯を食べようよ。まずは、みんなに会って無事を報告して、ご飯食べて、お風呂に入ろう」
その魅力的な提案に、瞬はすぐに立ち上がった。そして悠を抱き上げる。
「僕歩いてい――」
「今日一日は、甘えて」
そう優しくきっぱり言われて、すぐに悠も黙った。
「明日からリハビリだからね」
「はぁい」
悠の返事に瞬も笑う。この穏やかな時間が、後どれくらい続くのだろう。
悠は暗く翳って見える未来から目を逸らすと、瞬の首に廻した腕に力を込めた。
*
「これでいいんだろ」
白衣の男が憮然とした顔で言った。目の前には、所長がデスクの端に腰を掛けていた。
「結構」
「結局、坊は何も隠しちゃいなかったじゃねぇか。バカバカしい」
「隠していなかったことが分かれば十分だ」
「嬢ちゃんにあんなひでぇ怪我までさせて、調べなきゃならんことか」
「同情したのか」
「バカバカしい」
男はもう一度吐き捨てるように言った。
「用が済んだんなら戻るぜ」
男が踵を返したとき、その背に所長の声が投げかけられた。
「あの悠という子供だが、お前の見立てではいくつぐらいだと思う?」
咄嗟に質問の意図が分からず、男は立ち止まって後ろを振り返った。
「どういう意味だ」
「骨の成長を見た感じで、何歳ぐらいだと思うか聞いている」
「幼少時に栄養状態が余り良くなかったようだから、成長は遅いが、おそらく十四、五歳……」
「二次性徴は」
「どうかな、精通はあったかどうか……発育自体は遅れ気味に見えるが」
無意味にも思える問答に、男は首を捻った。
「それがどうし――」
「お前の所に、妙な性癖の者がいただろう」
話題が再び大きく飛び、男の頭を混乱させる。
「……」
「嗜虐嗜好の。何という名だったかな」
「それがどうした」
「かなり危険な人間だそうだが」
男の脳裏に、一人の部下の下品な顔が浮かんだ。
「……」
「やっかい払いする前に、一つ仕事を頼もうと思ってな」
男は、やっと所長の言葉の意味に気付いた。そしてその目的にまで思い至ると、ぞくりと、冷たいものが背筋を走った。
「……下衆が……」
所長は愉悦に口元をゆがめ、声を上げて笑った。
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