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第八章 汚辱 1
その日を境に、彼らの日常は一変した。
瞬は、日中は街の図書館へ行ったり、兄弟達に借りた参考書を頼りに勉強をする。帰宅後は悠の側から片時も離れず、悠のリハビリから日常生活の事まで甲斐甲斐しく世話を焼いた。昼間悠を一人きりにすることにかなり渋っていたが、勉強する時間は大事だと悠が押し切ったのだ。これ以上瞬の時間を犠牲にするわけにはいかなかった。
瞬は、身体を作ることにも大いに情熱を注いだ。少しでも早く、少しでも強い身体を作りたい。悠の側を離れず、しかも金をかけずに出来ることなどたかがしれていたが、それでもこつこつと暇を見つけてトレーニングを繰り返す内、瞬の体は肉体の年相応以上の筋肉に覆われていった。
「お前、筋肉付いたなぁ」
ある日暁がしみじみと言った。
夏は盛りを過ぎたが残暑は未だ居座っている。そんなうだる暑さの中、瞬はちょうど今、ランニングから戻ったところだった。
「毎日走ってるのか?」
「うん」
そう言って、汗が滴るほどに濡れたシャツを脱ぐ。
「どこ走ってるの? 敷地内?」
真がタオルを差し出しながら聞いた。
「あちこち、かな」
そして、タオルと替えのシャツを受け取ると、
「ちょっと風呂行ってくるね」
と、悠に向かって言った。悠が微笑んで頷くと、瞬は部屋に備え付けの浴室に消えた。
「とことん真面目というか、ストイックというか……」
暁が笑うと、悠も笑った。
「格好良くなったよね」
「ノロケるねぇ」
暁が茶化す。真が悠の傍らに座って、彼の右足をそっとさすった。
「足の調子はどう?」
「足首は日によって波があるけど、そこから上はもう全然大丈夫。ゆっくりだけど、自分で歩けるようになったんだよ」
「そっか、良かった!」
真が明るい声で言う。
「もうすぐ僕ら二学期が始まるから、昼間一緒にいられなくなっちゃうね」
「そうか、もう九月なんだね」
夏の間、年長の三人はアルバイトに明け暮れていたが、真は研究所で過ごす事がほとんどだった。しかしそれももうすぐ終わる。
「今日は二人は、仕事?」
その場にいない敬と涼のことを訊ねると、真がすぐに頷いた。
「でも、今日は引き継ぎだけだから、早く帰るって言ってたよ。もう夏休みも終わりだからねぇ」
「お、噂をすれば」
廊下から話し声が聞こえる。暁が扉を開けると、すぐに二人が顔を出した。
「おー、悠、来てたのか」
「うん、二人ともお帰り」
「ちょうど良かった、今日は土産付きだぞ」
敬が笑って、後ろから袋を出して見せた。
「うわぁ、ありがとう!」
真が弾むように駆け寄る。
「待て待て、靴ぐらい脱がせてくれよ」
涼が笑うと、真もゴメン、と言って笑った。
「全員が揃うなんて、久しぶりだね」
真が袋を台所に持って行きながら言った。袋は冷たい。きっとアイスクリームだ。
「全員? 瞬も?」
「うん、今お風呂……あ、こっちも帰ってきた」
ぺたぺたと足音がした後、扉が開いた。
「おかえり」
「うん」
悠が先に声を掛けると、瞬が照れたように視線を外した。敬と涼と目があう。
「あ、おかえり」
「……」
「……」
「な、なに?」
敬と涼はじぃっと瞬を見つめると、やがて深いため息を吐いた。
「俺……何か、変?」
「ムカツク」
「えっ?」
涼が、拗ねたように言った。
「俺たちをあっさり追い越して、しかもその身体かぁ……」
「反則だよな」
「いいよなぁ。俺、筋肉つきづらくてさ……」
二人は今、十七歳。瞬には二年分も追い越されてしまった。
年も身長も筋肉も追い越されて、しかも……。
「『俺たちの』悠を掻っ攫って行きやがって」
そう拗ねてみせると、瞬が慌てた。
「そ、そんな……」
「なぁ、暁」
「俺に振るな」
「暁だってヤキモチぐらい妬いてるんだろ?」
冗談なのか本気なのか、敬が水を向けたが暁は笑って、
「ノーコメント」
と受け流した。
「ちぇ。だってさぁ、ちょっと前までは、俺たちの後ろをくっついて歩いてたのに、今は瞬にべったりだもんなぁ」
「まったくだ」
「う、え……」
敬がまじめくさった顔で抗議すると、今度は心底困った顔をした。
――本当に真面目な奴なんだから。
瞬の様子を内心ほほえましく思う。悠を攫われるような格好になってしまったのは正直悔しいが、二人を見ているとそれも仕方ないなと思うのだ。
昔敬たちと共に暮らしていた頃、悠は甘えることを知らない子供だった。
恐ろしい夢を見たと言って泣くことはあっても、一時の激情が去ると、悠はいつも一人で何かにじっと堪えていた。もっと甘えてわがままを言ってくれればいいのにと、何度二人は思ったろう。
だが今の悠は昔とは違う。瞬に甘えて、甘やかされることを喜んでいる。こんな辛い状況の中でも、ほんのりと幸せそうに微笑む悠を見るのは嫌なことではなかった。
涼も吹き出しそうになるのを堪えながら、青い顔の瞬を眺めている。と、横から真が助け船を出した。
「ほら、もう瞬をいじめるのはやめなよー。アイス、僕が全部食べちゃうよ!」
「マコが言うと本気に聞こえるな」
「おしまいおしまい!」
敬と涼が笑うと、瞬も笑った。真も、暁も、悠も笑った。
*
九月になった。新学期が始まる。
瞬は転校届けを出しておいた。世間を納得させられそうな理由を考えあぐねたが、結局、瞬は遠くへ養子にもらわれた、と言うことにした。
「あの先生が騙されてくれるといいけど……」
瞬の担任の顔を思い出す。遙か昔のことのような気がするが、あれからまだ二ヶ月しか経っていない。
あのとき大津は、何もしない、と言っていた。だが瞬の転校という事態にどう動くだろう。
……敬の不安は、的中した。
新学期の授業が始まってまもなく。一日の授業を終えて敬が校門を出たとき、後ろから呼び止められた。
「山田、敬君」
後ろを振り向く。そこに立っていたのは、今一番会いたくない相手だった。
二人は、敬の学校からやや離れた喫茶店に向き合って座っていた。
ウェイトレスがコーヒーを運んでくるまで、二人とも押し黙ったままだった。
「皆さん、お元気ですか?」
大津が口火を切った。敬は、大津の手元をぼんやりと見つめている。
「敬君?」
「あ、はい」
「皆さんは、お元気ですか?」
大津はわざと繰り返して言った。敬は、無言で頷いた。
「新学期が始まって、瞬君の不在に驚きました」
「瞬は、遠くに養子に行きました」
「それはまた急な話ですね」
敬は顔を上げることが出来なかった。この教師は苦手だ。おっとりとしたペースにいつの間にか乗せられてしまう。
大津は、スプーンでくるくるとコーヒーをかき混ぜた。敬にはそれが、間合いを取っているように見えた。
敬の前に置かれたグラスがじっとりと汗を掻いている。
「ちなみに、どちらへ?」
「知りません。教えてもらえませんでしたから」
「そうですか」
そう言って、コーヒーで唇を湿した。
「瞬君の大事なお兄さんは?」
「います。俺たちと一緒に」
「瞬君は彼を置いていったんですか?」
少し呆れたように言う。それを聞いて敬は急に腹が立った。
――何も知らないくせに、あれこれほじくり返しやがって!
「瞬はまだ九歳ですよ? 大人の決定に反抗できるわけがないじゃないですか」
咄嗟に取り繕ったが、不機嫌は端々から滲み出ていたようだ。
大津が、敬を見て笑った。
「君は、素直な良い子ですね」
「……」
「感情がすぐに顔に出る」
そう言って、大津は自分の眉間を突いて見せた。だが眼鏡の奥の目は笑っていなかった。
「前にも言いましたが、大人を見くびってはいけませんよ」
「何のことですか」
「瞬君はただの九歳ではなかった。彼には何者にも邪魔を許さない、曲げられない強い意志があった。そう……たとえば、彼が遠くに行くなら、きっとそのお兄さんも連れて逃げただろうと思いますがね」
「そんな……そんなこと、あなたの想像でしかない」
「そうですね」
そう言って、大津は再びカップに口を付けた。
「でも、私は自分の想像がそう外れていないと言う自信があります」
「なぜ?」
「私は瞬君に興味がありました。あぁ、と言っても決して変な意味ではありませんよ。純粋に、一児童としての瞬君がとても気になっていました」
敬は顔を上げて大津を見た。
「最初は、周囲に馴染もうとしない頑迷な少年だと。少し斜に構えた、反抗期の入り口にある少年かと思っていました。……でも、違った」
大津は時折言葉を切った。合間に手元のスプーンを弄ぶ。言葉を撰んでいるのだろうか。
「彼には、彼にとってとても崇高な目的があった。そうでしたね?」
敬は黙っていた。
「たかが九歳の少年がなぜそこまで出来るのか、私には分からなかった。虐待という事実があったとしても、です」
『虐待』という言葉に、敬はびくり、と反応してしまう。大津は、それには気づかないふりをした。
「悲しいことに児童虐待は年々増加しています。私も職業柄、幾人かの被虐待児童を目にしました。瞬君のように、自分ではなく兄弟に虐待のあったケースもあります。けれどその子供達とも、瞬君は違っていた」
ふと、大津が敬を見た。敬と目が合う。だが敬が逸らす前に、大津が先に視線を外した。
「ここから先は私の完全な想像、創作です。笑い飛ばしてくださって構わない」
敬は口を挟まなかった。
「瞬君には、何か……特別な力があったような気がして仕方ないのです。それが何かと問われると困るんですが……。瞬君には、何か願いを実現できる力があった。彼自身がそれを知っていたかどうかは分かりませんが、漠然とした確信があったのかもしれない。それが、彼の強固な意志を支えるものだったんじゃないかなと」
敬は何も言わない――何も、言えなかった。
「先日、もう一人のお兄さん……涼君、でしたっけ、彼が私に言いましたね」
「え?」
「『あんたは、所長の恐ろしさを知らない』。『所長』という単語に引っかかったのです。児童養護施設の所長の事かとも思いましたが、ふと、馬鹿馬鹿しい噂話を思い出しました」
大津は、敬から目を逸らしたまま、スプーンでカップをかき回した。中身はもう半分ほどに減っている。
「この地域のこどもたちの間で長年、まことしやかに語り継がれる噂話です。敬君はご存じですか?」
敬は首を振った。
「この町の北に、山があります。それほど高くはないが低くもない。木が密集していて、山中に人の通る道はなく獣道ばかり。唯一の入り口にはバリケードがあって、誰も入ることはできない……。山全体が私有地だそうです」
敬にも、その山がどこにあるのか分かった。そして、この話がどこに向かってゆくのかも。
「さて、噂話はこうです。山中に古びた建物がある。鬼が子供を攫ってきては閉じ込めて、やがて生気を吸い尽くして殺してしまう。今まで建物に近づいた子供達はみな、掴まってしまって帰ってきた者は誰もいない。……よくある怪談話だ」
大津はスプーンを皿に置くと、すっかり冷めたコーヒーを口に含んだ。
「さてまた別の噂話があります。あの山にあるのは旧日本軍の人体実験の研究施設だ。未だに浮かばれない魂が夜ごと彷徨っている。これも陳腐な怪談ですね。……けれど、この二つの噂話を混ぜてみたら?」
敬はテーブルに水たまりを作ってしまったグラスを手に取った。一気に煽る。氷は既に溶けて無くなっていた。
「子供、虐待、研究施設、人体実験」
大津は独り言のように呟いた。
「飛躍しすぎかな」
「あなたは」
敬が口を開いた。
「それを知ってどうするんです」
敬の口調は知らず知らずきつくなる。
「俺たちの事を探って、それでどうするんです」
「君たちが幸せに暮らしているのなら、何も。何もしません。でも虐待があるのなら、それを黙って見過ごすことは出来ません」
「そんな、あなたには関係ないのに……」
「私は教師ですよ? これは私の務めです」
「そんなの……」
「信じられませんか?」
大津が初めて笑った。
「実はね、世の中というのはそう捨てたものでもないんですよ。君たちの味方は……案外たくさんいるんです」
敬はふと、自分と涼の担任の顔を思い出した。
自分たちのことなど放っておけばいいのに、見て見ぬ振りをすればいいのに、わざわざ呼び出して問い詰められた。
あれも自分たちにさしのべられた救いの手だったのだろうか?
「話してくれませんか?」
大津が真剣なまなざしで言う。だがそれでもなお、敬は迷った。
「兄に相談してから、お返事します」
それだけを言うのがやっとだった。
「分かりました。それでは三日後にここで同じ時間にお会いしましょう。もし話せる状況になったら、来て下さい」
敬は小さく頷いた。
*
大津の申し出についてすぐに、敬と涼、暁の間で話し合いが繰り返された。
研究所内ではどこに所長の耳目があるか分からない。もっぱら二人の登下校に暁が合流する形で相談は行われた。
言下に「信用できない」と言い切ったのは涼だった。
「そりゃぁ、いろいろ言い当てられてはいるけど、全部当てずっぽうで言ってるだけじゃないか。どうせ興味本位だよ」
「それはそうだけど……でも、あの先生が瞬のことをちゃんと見ていたのは確かだ」
「そうかぁ? 怪しい噂話まで引っ張り出してるところがますます胡散臭ぇけど」
「疑り深いなぁ」
敬は笑った。
「暁は? どう思う?」
敬は暁に問いながらも、きっと暁も反対だろうな、と思っていた。のだが。
「俺は、一応賛成、だな」
その返事に、敬も涼も驚いて顔を見合わせた。
「賛成? 暁が?」
「なんだよ」
「真っ先に反対すると思ってたよ」
涼が言うと、暁は少し笑って言った。
「そろそろ『外部』の手が必要だと思っていたところだからな」
「外部?」
「あぁ」
そう短く返事をすると、暁は口を閉ざした。そこから先は言うつもりはないらしい。
「敬は、その口ぶりだと賛成みたいだな」
涼が言った。敬は素直に頷いた。
「俺は直接話を聞いてるからな。とりあえず嘘をついているとか、その場しのぎには見えなかった」
そうきっぱりと言われては、涼も肩を竦めるしかない。
「二人が納得してんなら、俺がごねることもないか。暁は直接会ってみるんだろ?」
「あぁ、そのつもりだ」
暁が同席すると聞いて、敬はほっと胸を撫で下ろした。
「んじゃぁ、俺も行く。瞬は? 連れて行くのか」
「その方が良いだろうな」
興味本位なのか、腹を括っているのか、瞬への反応を見れば分かるだろう、と暁は言った。
その暁の顔を見ていて、敬は何か事が大きく動き出すような予感めいた物を感じ、小さく身震いした。
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