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第八章 汚辱 4

 瞬は無言のままコーヒーを入れると、無言で小野寺に渡した。小野寺も無言で受け取る。  自分から切り出そうか、小野寺が口を開くのを待とうか瞬は迷った。  小野寺は、壁に凭れてコーヒーを啜っている。  瞬は覚悟を決めて、口火を切った。 「小野寺さん。教えて下さい」  小野寺がゆっくりと瞬を見た。いつになく真剣な相手の表情に、瞬はきつく唇を結ぶ。 「お前さんにはまだ……早すぎる」 「僕は知らなければならない」  瞬が言った。 「僕は、もう九歳じゃない。もう九歳としては生きられないんだ。たとえこれが僕のトラウマになったとしても、それでも僕は知らなくちゃいけない。……もう僕が九歳だったことは忘れて下さい」  瞬はそう言って頭を下げた。小野寺がため息をついた。 「酷なことを言う」 「すみません」  だが小野寺にも分かっていた。後で歪んだ知識を植え付けられるより、辛くとも今、知っておいた方が良いこともあるのだと。  小野寺は瞬を手招きした。 「面と向かって話すのも照れくさい。隣に来いよ」  瞬は素直に小野寺の隣に座った。そして初めて手に汗が滲んでいるのに気付いた。知らず知らず緊張していたようだ。  掌を足にこすりつけると、小野寺が話し出すのを待った。 「単刀直入に聞くが、お前さん、子供の作り方は知ってるか?」 「本で、読みました」 「具体的な事は分かってるのか」 「男性には陰茎と陰嚢があり、陰嚢で精子が作られる。女性は子宮と卵巣があって、卵巣から原則一ヶ月に一個、卵子が放出され、精子と出会うことで受精卵となり……」 「分かった分かった。お前さんの知識は正しい」  小野寺が苦笑しながら言った。 「僕には、本の知識だけしかないから……」  瞬が頬を染めた。褒められているのかからかわれているのか判断が付かない。 「いや、まずはそれで良いんだよ。間違った知識からじゃ、間違った方向にしか進まないからな」  小野寺が言った。 「それじゃ、俺はもうちょっと生々しい話をしよう。男と女が出会って愛し合う。お互い気持ちが高揚して性的興奮が高まると、男の陰茎は充血して硬くなり、女の膣は濡れて陰茎を迎えやすくなる。準備が整うと陰茎は膣に進入する。やがて興奮が最高潮に達すると、男は精液を膣内に出す。まぁ、ざっとした説明だが、これが性行為だな」  瞬は黙って頷いた。 「で、だ。ここからが難しい話なんだが、男女のペア間ではなく、男同士、女同士で愛し合う場合もある」  瞬が小野寺を見た。小野寺は首筋を掻きながら瞬を見た。 「そう不思議そうな顔をするな。男にしか欲情しないとか、女しかダメだとか、そう言うマイノリティも確かに存在するんだ。……今日の、その男みたいにな」  瞬は、ようやく話の流れに合点がいった。 「それじゃ、あの男が、悠に……」 「あぁ。無理矢理性行為を迫ったんだろう。嬢ちゃんはもちろん抗った。しかも嬢ちゃんはまだ性的に未発達だ。それで興奮剤を使ったんだろう。男女間の強姦罪とは状況が違うから比較すべきではないが……相当恐ろしい思いをしただろうな……」  見ず知らずの男にのし掛かられ、薬で快楽を引きずり出され蹂躙されるのはどんなに恐ろしく屈辱だったろう。悠の心中を思い瞬はきつく目を閉じた。 「あの男は、俺の部下だ」 「え?」 「優秀な男だったが、男にしか興味がなかった。それだけなら問題はなかったんだが、酷いサディストで、相手を痛めつけることで興奮するやっかいな男だった。研究所の外でも問題を起こして、俺ももう庇いきれなくてな。近日中に首にするところだったんだ。例の薬が減っていたから、もしやと思ってきてみたんだが……」  小野寺は目の前で眠る悠を見つめている。 「嬢ちゃんには、申し訳ないことをした……」  小野寺は心から後悔しているように見えた。瞬は思い切って踏み込んで聞いた。 「男が『精液を取らないといけない』と言っていたのは……なぜ?」  だが小野寺は答えなかった。 「それは、言えない」  小野寺が、まっすぐに瞬を見た。苦悩を湛えた表情は作り物には見えない。 「所長の……?」 「それは……。すまん、察してくれ」  小野寺は瞬から視線を逸らさなかった。これは肯定だ。瞬は頷いてこの話題を打ち切った。そして代わりに言った。 「悠は……大丈夫、かな……」 「……」 「さっき、小野寺さんが来る前、僕に『触るな』って、言ったんだ」  瞬は小さな声で呟くように言うと、膝を両腕で抱え込んだ。自分の腕にきつく爪を立てる。そうでもしないと、小野寺の前でみっともなく泣いてしまいそうだった。 「僕は何が起こっているのか全く理解できなかった。ただ、ぼんやり悠がされていることを見ていただけだった。……どうして、どうして僕はいつも悠を助けられない?」  小野寺は黙っていた。「仕方ない」と言うことは容易いが、それを瞬が望んでいないことはよく分かっていた。代わりに小野寺は瞬の肩に手を置いた。  瞬は、ぐっと息を飲み込んだ。鼻の奥がツンとしたが、何とかそれをやり過ごすと急に立ち上がった。  流しに歩み寄り、自分のためにもう一杯コーヒーを入れた。  棚から砂糖とミルクを取ると、山のように入れてかき混ぜる。少しぬるいそのコーヒーを飲むと、少し気持ちが落ち着いた。 「ガキ」  小野寺がそのコーヒーを見て笑った。瞬も少し笑った。 「味覚はすぐには変わらないみたいだな」 「猫舌もね」  そう言って、瞬はぺろりと舌を出した。 「小野寺さん」 「なんだ?」 「僕が聞くような事じゃないけど」 「何だよ」  瞬が少し躊躇うように、もう一つの疑問を口にした。 「あんた何でこんなに親切なんだ……ですか」  どうも小野寺との距離を測りかねているようで、口調も敬語になったり砕けたりと忙しい。  小野寺は苦笑して言った。 「そう俺に気を許すな」 「あ……うん」  また素直に頷く瞬に、小野寺は笑った。 「ホントにお前さんは良い奴だよ」 「だって……どうせここだってあんたの言動だって監視されてるんだろう? それなのに……」 「ノーコメント」 「ちぇ」  瞬は拗ねて見せたが、すぐに笑った。どうせ返事をもらえるとは思っていない。 「ぼ……、俺、悠を精一杯支えるよ。俺が出来ることはすごく小さいけど、それでも、少しでも悠の気持ちが楽になるなら」 「あぁ、それが一番、嬢ちゃんが喜ぶだろう」  小野寺はそう言ってからしばらく押し黙っていたが、やがて付け加えた。 「俺が言うことじゃないが……何かあったら俺を――」 「小野寺さん」  瞬が遮った。カップを置いて居住まいを正す。 「それは、ダメだよ」  瞬の真剣なまなざしが小野寺を射貫いた。 「小野寺さんには本当に感謝している。この前も、今回も、あんたがいなかったら本当に俺たちどうなっていたか……。でも、それでも、俺たちはあんたを頼ってはいけないんだ」  瞬はそう言って俯いた。胸が苦しい。差し出された手を、自分ははね除けようとしている。 「あんたはどうあっても所長側の人間だ。でも、あんたを頼ると俺たちはそれを忘れてしまう。それじゃ俺たちがダメになってしまう……」  小野寺の助けなくして、これから悠を守ってゆけるのか。別の声が小野寺を頼れと囁く。瞬はぐらつきそうになる心を叱咤した。 「俺の言いぐさは本当に恩知らずだと思う。でも……、分かって下さい」  瞬は我知らず頭を下げた。小野寺は黙って聞いていたが、瞬が頭を下げるとため息をついた。そして立ち上がった。 「すまん、俺の方が酷いことを言った」  そう言って瞬の肩に手を置いた。 「俺は図に乗っていたな」 「そんなこと……」 「いや、でも何となくお前さんならそう言うかなと思っていたよ」  そう言って笑った。 「さて、それじゃそろそろ退散するか」  小野寺は声の調子を変えると、床に置いてあった空のカップを取り上げて瞬に渡した。 「コーヒー、ありがとう」  小野寺は瞬の顔をじっと見た。だが瞬と目が合うとすぐに視線を逸らした。  そして悠の傍らに跪くと、悠の頬をそっと撫でた。 「元気でな」 「はい」  悠の代わりに瞬が答えた。小野寺は傍らの鞄を掴むと、ゆっくりとした歩みで部屋を出て行った。そしてエレベーターの前まで行くと、一度だけ瞬の方を振り返った。もう、言葉は交わさなかった。  瞬は、静かに扉を閉めた。小野寺が去った後の部屋は、たった六畳間だというのに酷くがらんとしている。自分の心細さがそう感じさせているのだと気付くと、瞬は首を振った。 「今からめげててどうする」  そう呟く。  まずは出来ることから片付けようと、流しに置かれたカップを洗おうとした時だった。  小野寺の使っていたカップの中に、小さな紙切れが入っているのを見つけた。瞬はできるだけ自然な仕草でそれを掌に隠すと、シャツの奥に押し込んだ。 *  悠が再び目覚めたのは、次の日の夕方だった。 「いたた……」  すぐに起き上がろうとして果たせず、身をよじってゆっくり身を起こす。  瞬がすぐに飛んできて支えようとしたが、すんでの所で手を引っ込めた。 「痛みはどう? 薬飲む?」 「うーん」  肩の痛みに顔を歪めてはいたが、それでもかなり楽になったようだ。薬を断ると、ほっと息を吐いた。  「あの……」  悠は傍らに座る瞬をちらりと見た。けれどまっすぐに見つめることができず、すぐに目をそらしてしまう。そんな悠を見て瞬が言った。 「悠」 「は、い」 「触っても、いい?」  瞬が優しく囁く。悠ははっと顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまった。そして、黙ったまま頷いた。  瞬がそっと悠の手を握ると、悠もおずおずと握り返す。  そうしてようやく、瞬は悠の身体を引き寄せ抱きしめた。 「ねぇ」  片方の手は繋いだまま、悠は瞬の胸に顔を埋めている。瞬は空いた方の手で悠の背を撫でながら、言った。 「俺が、怖い?」  耳元で囁くと、即座に悠は首を振った。  瞬もそれを見て安堵のため息をそっと零す。昨日「触るな」と言われたことが意外なほど堪えていたらしい。  しかし悠を抱く腕に力を込めると、悠は逆に瞬から身を離した。 「ゴメン、きつかった?」 「あの……」 「うん?」 「昨日は、……ごめんなさい。あんな……あんなみっともない、ところ、見せ……て……」  震えを押し隠すように、小さな声で悠が呟いた。 「悠」 「汚い……後始末、まで、させて、ごめ……なさ……」 「悠」  瞬が、ぴしりと言った。決して大きくはないが、その強い口調に悠の身体がびくりと強張る。  瞬は一旦悠の身体を離すと、瞬を膝の上に抱え直した。自然とお互いの顔が向き合う。  悠はすぐに顔を逸らそうとしたが、瞬の手がそれを許さなかった。 「悠」 「……」 「俺を見て」  また悠の身体がびくりと震える。瞬はそれに構わず、悠の頬にしっかりと手を添えたまま、真正面から悠を見据えた。  悠もためらいがちに、顔を上げた。 「俺は、汚いとも、何とも思ってない。悠がされたことを考えると腸が煮えくりかえるけど、けど、だからって悠があの男に何か変えられた訳じゃない。悠は何にも変わってない」 「……」 「優しくて、意地っ張りで、泣き虫で」 「泣き虫は……、瞬の方だったじゃないか」  そう言いながら、悠の両目から涙が溢れた。涙は瞬の手を濡らし、手首を伝って瞬の足に零れ落ちた。 「悠」  拭っても拭っても涙は零れ続ける。瞬は枕元に置いてあったタオルを取ると、悠の目に押し当てた。 「どうして、そんなに、優しいの?」  タオルの奥で悠がしゃくり上げる。瞬は、もう一度悠を強く抱きしめた。今度は悠も抗わなかった。 「悠だって……」  瞬が、そっと囁く。 「どうして詰ってくれないの? 『どうして助けてくれなかったんだ』って……。そしたら、俺も言えるのに……」  悠は、瞬の腕の中で首を振る。それでもなお、悠は、その機会を与えてはくれない。 「間に合わなくて、助けられなくて、ごめん……」  悠は顔を上げることも出来ず、首を振り続けた。タオルの奥の嗚咽が返事だった。 *  悠が泣き止んだとき、辺りは既に夕闇に覆われていた。 「電気付けるね」  瞬は、泣いて熱くなった悠の身体をそっと離すと、立ち上がって入り口側のスイッチを探った。ぱちりと言う音と共に部屋に明かりが灯る。  だが悠は顔を上げない。訝しんで瞬が顔を覗き込むと、真っ赤に泣き腫らした目が、タオルの向こうから瞬を見つめていた。 「泣きすぎて、目、痛い……」  まだ湿り気の残る声が訴える。瞬は笑って悠の手からタオルを取り上げると、すぐに流水で洗って戻ってきた。 「冷やすと楽になるかな」  悠はおずおずとタオルに手を伸ばした。  瞬は部屋の窓を開けた。もうこの時分になると、秋の涼しい風が木々の間を渡ってくる。 「ご飯どうする?」  瞬が聞くと、力のない声が返ってきた。 「食べなきゃダメ?」 「だめ」 「……」 「選択肢は三つ。一緒に下に食べに行くか、僕が取ってくる間この部屋で待っているか、僕のいない間あっちの部屋でみんなと待つか」  悠は、黙って考えた。  他人の目のあるところで食事をするのは、怖い。この部屋で一人で待つのも怖い。でもこの泣き腫らした目では皆を驚かせてしまう……。  悠はしばしの間考えていたが、やがて結論に達したようで小さくため息をついた。 「すぐに戻ってきてくれる?」 「もちろん。もうこの時間なら食事の準備は出来てるだろうから、配膳してもらうだけだよ。五分くらいで戻る」 「それならここで待ってる」 「わかった。……目はどう?」 「少し楽になってきたよ」 「よかった。それじゃ食事を持ってくる間、そこの本でも読んで待ってて」 「え?」  悠が目からタオルを離して聞き返すと、瞬が笑って本を指さした。 「栞が挟んであるところ。あ、横になってなきゃだめだよ」  それじゃ、と言って瞬は部屋を出て行った。しっかりと扉に鍵を掛けてゆく。  瞬の言った意味がよく分からないまま、悠は傍らにあった文庫本を手に取った。  悠が瞬の帰りを待つ間読んでいた本だ。栞を挟んだ覚えはない。  言われるままに本を開くと、すぐに栞の箇所は見つかった。だがすぐに、悠の頭から本のことなど消し飛んでしまった。  悠は、もぞもぞと身体を動かすと仰向けになって本を開いた。どこかにあるはずの監視カメラからそれを隠すよう、出来るだけ自然に本を開く。  そしてページに挟まれた栞代わりのメモに目を走らせた。  「これはたぶん奴の計画の最終段階だ。  そして、この一度では済まないだろう。  ここにいる限り同じ事が繰り返される。  その前に逃げろ。  奴はいつでも目を光らせている。気をつけろ。  俺は二人を助けたい。だがたぶん断られるだろうな。  それでもいい。俺は二人に幸せになって欲しい。  俺は二人が好きだ。そして味方は大勢いる。  孤立無援だと思うな。人を疑え。人を頼れ。  必ず幸せになれ。               (読了後焼却せよ)」  メモは唐突に始まり唐突に終わっていた。  悠は本を閉じると一緒に目を閉じた。力強い言葉が胸を強く打つ。  幸せを願う、ではなく、幸せになれと言われた。  これほど運命に嫌われた自分が、幸せになれるものかと思っていた。けれどそれも瞬と二人でなら、本当に幸せになれるのかもしれない。  瞬にはその力がある、と悠は確信していた。  瞬が急激に成長したのは、それ自体が能力だったからではないのだ。瞬が望めば、心から望めばそれは現実となる。これこそが瞬の力なのだ。  それが瞬自身に限ったことなのか、それとも関係のないことにまで力が及ぶのか、それは分からない。  ただ一つ言えるのは、瞬はこのメモを読んだ。読んだからには、彼が次に願うのはきっと自分たちの幸せだろう。  それを瞬が願うのなら。心から願ってくれるのなら、自分も瞬の足手まといにならないよう、幸せになる努力をしよう。  悠はそう思った。  悠はしばらくの間物思いに耽っていたが、扉の鍵を開ける音で現実に引き戻された。一瞬、身体が震える。  扉の向こうから顔を見せたのは、両手一杯に盆を抱えた瞬だった。悠は緊張を悟られないよう取り繕うと、本を枕元に置いた。 「おかえりなさい」  声を掛けると瞬が笑った。 「おばちゃんに山ほど持たされたよ。悠にちゃんと食べさせろって、怒られた」  よく見ると、盆とは別にバケツのような鍋をぶら下げている。  瞬はその鍋をガスコンロの上に置くと、悠のそばへ腰を下ろして盆を並べた。 「本読んだ?」  並べる手を止めないまま、何気ない風に瞬が聞いた。 「うん、読んだよ」 「そっか」  そして食器を並べてしまうと、本を手に取った。ぱらぱらとページを捲り、栞の箇所を開くと栞を外した。 「ここの場面がさ……」  そう言いながら瞬が悠に顔を寄せた。その隙に、瞬の手がメモを丸めて握り込むのが、悠の視界の端に写った。  極力そちらを見ないようにして、瞬の指さすページを目で追う。  しばらく当たり障りのない会話をしてから、瞬が立ち上がった。 「せっかく鍋に入れてもらったし、ちゃんと暖めて食べようか」  そうして、ガスに火を付けた。時折火加減を見に長身を屈める。  やがてシチューの良い匂いが部屋一杯に広がった。その匂いの中に、かすかに何かが燃える匂いが混じったが、二人とも何も言わなかった。

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