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第九章 欲心 4
どこをどうして歩いてきたのか。
瞬が我に返ったとき、彼は居住区の二階のホールに座り込んでいた。
左半身が重い。そちらを見ると、同じような格好で悠が瞬に凭れて座っていた。
目は閉じられている。
記憶が混乱して、今が昼なのか夜なのかすら思い出せない。
顔を上げるとホールの天井の蛍光灯が緩く明滅している。夜だ。辺りは暗い。
ふと身じろぎをして、瞬は身体にまとわりつく衣服が酷く不快なことに気付いた。そして一気に覚醒した。
「悠」
そっと肩に手を廻し、揺さぶる。切れかけの蛍光灯の光に、乾ききらない涙の跡が光った。
瞬はごく自然な感情に従って、その目元に唇を寄せた。寄せようとした。だが。
その身体は強い意志を持った腕に遮られた。
「気がついた――」
「触らないで」
その言葉を理解するのに、瞬はしばらく掛かった。
「……え」
「僕に触らないで」
固い声だった。あぁ悠にもこんな表情が出来るのか、と、瞬は的外れなことをぼんやりと思った。
「ユウ」
「……」
「シャワーと、着替えを……」
「いい」
「だって、こんなに冷えて」
「いいから! もう僕に構わないで!」
悠はそう叫ぶと、立ち上がってよろけた。よろけながらも駆けだした。
後には瞬だけが残された。
*
「ご苦労」
男が言った。上機嫌だ。
床に座り込んだままの小野寺の背後で、男が言う。
「これで次が作れる」
そして小野寺の手から容器を取り上げた。そのまま足音が遠ざかる。
「なぁ……義隆」
足音が止まった。背に冷たい怒気をひしひしと感じる。
「――殺されたいのか」
「あぁ……」
小野寺が呻くように言った。
「もう、うんざりだ」
一旦は遠ざかった革靴の音が再び近づく。小野寺は目を閉じた。
だが期待したものは与えられなかった。
「私が手を下すまでもない」
再び足音は離れた。
扉の音が冷たく響いた。
*
暁は、ふと気配を感じて目を覚ました。まだ夜明けには遠い時刻のようだ。
暖かい布団から頭を出して扉の方を見ると、動く人影がある。
暁は静かに、しかし素早く布団から抜け出した。
「瞬」
驚かさぬようそっと声を掛ける。だが相手は無言のままだ。
「……瞬」
暁がその身体に触れた。と、その手に濡れた感覚が伝わってきた。
「なっ、お前びしょ濡れ……」
慌てて棚からタオルを取って来る。薄明かりの中で目をこらすと、頭からは雫が垂れていた。
「なにやってんだ!」
タオルで体中を拭いてやりながら、暁は瞬の身体をざっと調べた。傷も痛めている様子もない。
だが時折直に触れる肌は、既に熱を持っている。
「アキ」
「なんだ」
「暑い」
「お前どんな無茶したんだ。熱があるぞ。知恵熱か」
「……水、頭からかぶってきた」
「バカかお前は……」
「水をかぶっても、全然冷めてくれないんだ……」
瞬は両手で顔を覆った。
「このままじゃ俺、悠を、壊してしまう」
瞬の手の中で小さく籠もった呟きが、辛うじて暁の耳に届く。
「悠? そう言えばお前、悠はどうしたんだ」
暁が問うたが、瞬は首を振るばかりだ。
項垂れた首筋は熱を増している。
暁は問い詰めることを諦め、瞬に何とか下着とシャツを着せると、自分が寝ていた布団に押し込んだ。
看病が先か悠が先か、少し逡巡した後、暁はそっと部屋を滑り出た。
*
悠は簡単に見つかった。
以前暁と二人で過ごした部屋に、悠はいた。
鍵も掛けず、真っ暗闇の中で悠は一人、窓際に蹲っていた。
「悠」
そっと声を掛けると、彼が顔を上げた気配がした。月もない今夜は、その表情も見えない。
「明かり、付けていいか?」
「ダメ」
掠れた声で返事があった。少なくとも拒絶されてはいないらしい。
暁は悠を怖がらせないようゆっくりと動くと、部屋の隅に積んであった毛布を探り出した。そのまま悠の傍らへと寄る。すると彼の身体が震えたのが分かった。
「何があった」
二人の様子から、相当なことがあったのは容易に想像が付いた。だがそれでも暁は訊ねた。
「言いたくない」
「瞬と何があった?」
「……っ、なにも、ない」
明らかに動揺している。正直に言っているようなものだ。
「悠」
「なにも……」
「俺に話して、楽になれ」
「……」
「お前はひとりで抱え込んじゃいけない。考えすぎるとお前は……死にたがってしまうから」
悠は俯いたまま頭を振った。
「俺は、無理矢理にお前から聞き出すことが出来る」
暁が悠の手を握った。その瞬間、大袈裟なほどに悠の身体が跳ねた。
「でも俺はそうしたくない」
何度も優しく諭され、悠は薄皮を剥ぐように自分の心が解け出していることに気付いた。
「――所長が」
自分は泣かずに話すことが出来るだろうか?
「僕の、精子を欲しがった」
悠は遂に口を開いた。
暁は辛うじて声を上げずに済んだ。
ここで激情を晒せば、悠は永遠に口を閉ざしてしまう。暁は怒りに震える拳を何とか押さえた。
「僕は瞬を止めなくちゃいけなかったんだ。それなのに……流された……」
ぽつりぽつりと悠が話す。
「僕は、瞬の手で、何度も、何度も……」
悠が顔を覆った。
「僕は最低だ……。僕は……!」
「それは違う」
暁が独白を遮った。
「お前はまだ幼い。お前の心と体は別なんだよ」
「……別?」
「人間は快感にとても弱い。ましてや馴れていないお前が流されるのは当然だ。恥ずかしい事じゃない」
「だって。だって今日は薬も使われなかった――」
暁が息を呑んだ。
「今日、は?」
「そうだよ、それなのに、僕は――」
「前にも、あったのか」
暁が言った。声に、押さえつけていたはずの怒気が孕む。唇が震える。
悠は、自分が口を滑らせてしまったことに気付いた。
押し黙る悠に、暁の理性が焼き切れた。悠の顎を掴んで顔を上げこちらを向かせる。
「ダメ、やめ……」
「悠」
二人の目が合った。悠の意識が、ふと混濁した。
暁は“悠の中”にいた。
悠の精神に入り込み、記憶を追う。それはテレパシーにも近い。暁は鍵穴をこじ開けるように心の中に入り込み、同調した上で自らの意のままに操る。これが暁の《催眠》だった。
暁は悠の記憶に流されぬよう、絞りを調節した。カメラと同じだ。絞りを開けすぎれば、流れ込む感情の量が増える。
赤の他人でも引きずられるのだ。近しい存在では余計にシンクロしやすくなってしまう。
暁は徹底的に情報を絞り込んだ。
――それでも、悠の記憶は残酷だった。
それが長い時間だったのか、それとも一瞬だったのか。悠はまた突然、暁から解放された。
最初に目に映ったのは暁の顔だった。
窓の外は夜明けが近く、少し明るさを増している。その中でおぼろげに暁の顔が浮かび上がっている。
「……泣かないで」
悠が言う。
「泣いてない」
暁が答える。暁の目に涙は無い。だが悠には暁が泣いているように見えた。
「全部見ちゃったんだね」
「……」
暁が目を伏せた。
「暁の、言ったとおりだ」
「……」
「恥ずかしくて、自分が許せなくて、胸が張り裂けそうだったけど……暁が全部知ってくれて、少し……楽になった」
そう言って悠は暁の胸に手を当てた。
「僕の重石を、暁に移しただけになってしまったけど……」
「それでいい。それで良いんだよ、悠」
暁が悠の手に自分の手を重ねた。
「俺はそのためにいるんだから」
そして、力強く握った。
「悠」
「……」
悠が俯いた。
暁の手に温かい粒が落ちた。
「……暁」
「うん」
「アキラ――」
悠が暁の胸に縋り付いた。
「僕、これからどうしたらいいの?」
しゃくり上げながら悠が言う。
「瞬になんて言ったらいいの?」
「何も……今は何も、言う必要はない」
「謝る言葉も見つからない……!」
「瞬はちゃんと分かってる。何も言わなくても、分かっている」
「……」
「瞬を、信じろ」
悠は涙に濡れた顔を上げた。
「お前は人に与える事に一生懸命で、人から与えられたものに気付いていない」
「瞬が、僕にくれたもの?」
「そうだ。瞬がお前にくれたものと、自分の気持ちをよく考えてごらん」
そう言うと、暁は悠を毛布ごと抱えて横たえた。
「さぁ、少し眠れ。眠って、元気になって、あとはそれからだ」
悠は毛布の中から暁を見つめていたが、一つ瞬きをして最後の涙を落とすと、素直に目を閉じた。
幾許もしないうちに、悠の呼吸が深くなる。
暁はもう一枚毛布を掛けてやると、静かに部屋を後にした。
その目には、激しい怒りの炎が燃えていた。
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