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第十章 脱出 1

 十一月ともなると日の入りもかなり早い。  昼間はまだ日差しが空気を暖めたが、日が沈んでしまえば冷気はいとも簡単に体温を奪う。  小野寺は自分の家へ戻る途次、コートの襟元を合わせた。草臥れたぺらぺらのコートは殆ど役に立っていない。  研究所に置きっぱなしだったこのコートに、前に袖を通したのがいつだったか思い出せない。  ――泊まり込んでばかりだったからな……。  家に待つ者がいるわけでもなく、食事もどうせインスタントかと思うと家へ帰る頻度も減った。  だが先日の一件以来、小野寺はどうしてもあの研究所にいたくなかった。  小野寺はコンビニエンスストアで食品をいくつか買い込むと、家路を急いだ。  彼の家は住宅街に建つ1Kの小振りなマンションだ。家賃も安く、他の住人と顔を合わせることもほとんど無く、独り者にはお誂え向きの住まいだった。  狭いエレベーターを降り一番奥の角部屋へ向かう。  鍵を開け中に入ると少し埃っぽい匂いがした。  照明のスイッチを手探りで探し、明かりを付ける。  と。 「……遅かったな」  部屋の奥、彼のベッドに男が腰かけていた。 * 「ねぇ、二人とも喧嘩でもしたの?」  真はいつでも直球だ。敬や涼が気にしつつも聞けなかったことをずばりと聞いてくる。  そのまっすぐさに、瞬は狼狽えつつも首を振った。 「……してない」 「じゃぁ、何でそんなにヨソヨソしい態度なのさ」 「えー、っと」  目が泳ぐ。 「ちょっとした……行き違い?」  妙な疑問形の返事に真が納得するはずもなく。 「行き違いならさっさと解消しておいでよ! うじうじしてる瞬ってうっとーしいんだよね!」 「はい……」  真の檄に瞬は力なく頷いた。  あれから数日が経ったが、二人の間の溝は容易には埋まらなかった。  少し近づいただけでするりと逃げられる。怖がられているのかと肝が冷えたが、悠の表情を見る限りそうでもなさそうだ。  悠に対する距離が測れず、それでも目の届くところにいて欲しくて、せめて同じ部屋で寝起きして欲しいと何とか伝えた。悠は素直に「分かった」とだけ言った。  今日まで、二人が交わした言葉はこれだけだった。  ――喧嘩はしていないけれど……。  拒絶はされていない。話しかければ返事はする。他の者がいるところでは以前と変わらない態度にさえ見える。けれど瞬が触れようとすると逃げる。目が合うと、すっと逸らされる。解法の見えない問題に瞬は頭を抱えていた。 *  小野寺は目の前の男を凝視したまま固まった。状況を上手く飲み込めない。  見たことがある顔のような気がするが、思い出せない。  買い物袋を持ったまま棒立ちしていると、男が言った。 「そんなところに突っ立ってないで、入れよ」 「殺しに、来たのか?」  そう訊ねたが男は返事をしない。ただじっと彼の顔を見つめている。  小野寺は溜息を一つつくと、靴を脱いで自室へと上がった。  買った物をどうしようか一瞬迷ったが、どうせ殺されるなら冷蔵庫にご丁寧にしまうこともないかと思い直して足下に転がした。  そして部屋の真ん中にどかりと腰を下ろした。 「……で」 「で?」 「俺を殺しに来たのか」 「さっきもそう言ったな」 「あいつが寄越したんだろう?」 「あいつ?」 「所長だよ」  小野寺が言うと男は笑った。ぞっとするような冷たい笑みだった。 「俺が所長の命令であんたを殺す?」  そして射るような、少し怒りのこもった目で小野寺を見た。 「あんた、俺が誰だか分かってるのか?」 「いや……思い出せん」  素直に首を振ると、男は意外にも簡単に正体を明かした。 「暁だ」 「アキラ?」  ざっと記憶をたどる。と、すぐにその名に行き当たった。 「嬢……いや、悠の――」 「同室の者だ」  あぁ……、と我知らず小野寺は溜息を吐く。 「やっぱり」 「なにがだ」 「やっぱり俺を殺しに来たんだなと思って」 「なぜそう思うんだ」 「悠と瞬から聞いたんだろう? この前のこと」 「あぁ」 「俺が嬢ちゃんを辱めたんだ。殺されても文句は言わん」  小野寺が言うと、暁が彼を睨み付けた。 「……軽々しく言うな」  静かな口調の中に強い怒りが滲む。 「軽々しく死を口にするな。俺たちがどんな思いで生きることにしがみついているか、あんたなら分かるだろう」  小野寺は、はっと息を呑んだ。素直に頭を下げる。 「すまん」  どんなに踏みにじられても、彼らは生き延びて幸せになることを希う。そして小野寺もまた、そんな彼らに『幸せになれ』と書き送った。その自分が死に急いでいては話にならない。小野寺は自嘲気味に笑った。 「それじゃ、お前さんから逃げる算段をしなくちゃな」 「待て。俺はあんたを殺すつもりはない」  暁の言葉に小野寺はしばし言葉を失った。 「……なぜ」 「なぜって、あんたは命の恩人だろうが」  呆れたように言う。 「恩人? 俺が?」 「何を勘違いしてるか知らないが、あんたは三回は二人を助けてくれただろう。恩人と呼ぶのに十分だ」  小野寺は暁の顔をしばらく見つめていたが、やおら立ち上がると簡素なキッチンへと向かった。 「茶でも飲むか」 「……お構いなく」  こんな時でも礼儀を弁えた暁に小野寺はふっと笑った。 「まぁ話をするのにアルコールというわけにもいかないからな。茶でも付き合ってくれ」  湯の沸く音がする。  しばらくして小野寺が湯飲みを二つ持って戻ってきた。  暁はベッドから床へと腰を下ろした。 「どうぞ」  テーブルの上に置くと、暁は軽く頭を下げて受け取った。 「茶碗は綺麗だから安心してくれ」  小野寺は含み笑いをしながら言うと、何でもない風に言葉を継いだ。 「……二回目のことも、聞いたのか」 「いや」  暁は手元の湯飲みに視線を落としたままだ。 「無理矢理潜って聞き出した。俺の力のことは知ってるだろう?」 「あぁ……なるほど。催眠暗示、だったっけな……」  古株の暁のデータファイルは、小野寺も何度か目を通したことがあった。 「酷い記憶だった」  暁がぽつりと言う。小野寺も言葉に詰まった。 「痛めつけて、汚すだけの……」 「……」 「それでも悠は逃げないんだ。逃げることを忘れてしまっている」 「あぁ、うん。それは……分かる」  小野寺が頷いた。悠は諦めている。献身とか身代わりとか自己犠牲とか、そんなことすらもう悠にはどうでも良いのかもしれない。 「このままあそこにいれば、悠は壊れる」  諦めて、拷問を当然のこととして受け入れて、馴らされる。やがてその暴力にすら依存してしまうだろう。 「そうなってからでは遅いんだ」  暁がきっぱりと言った。 「羽ばたける力のある内に籠から出さないと、飛び方を忘れてしまうだろう?」  小野寺は暁を見て頷いた。 「……決めたんだな」 「あぁ」  暁は一呼吸置いた。そして言った。 「俺たちは、逃げる。あんたに協力して欲しい」 * 「悠」  瞬が悠の腕を捕らえて、言った。 「話がある」  悠は一瞬身を固くした。だがそれでも目を合わせようとすらしない。瞬は苛立ちを抑えるように、声を潜めた。 「向こうで話そう」  この部屋には真がいる。こちらに背を向けているが声は聞こえているはずだ。さっさと何とかしてこいとその背中が言っている。  その無言の叱咤に押されるように、瞬は少し乱暴に悠の手を取ると部屋を出た。 「ちょっと――」  後ろで悠が抗議の声を上げるが、瞬は聞こえないふりをしてずんずんと歩く。そして五号室から少し離れた部屋の扉を開けると、半ば突き飛ばすように悠を入れて後ろ手に鍵を掛けた。 「鍵――」 「逃げるだろ」  そう決めつけられて悠の顔が曇った。 「逃げるも何も、僕は……」 「俺が怖い?」  今まで何度となく問われた言葉だ。悠が瞬を見る。と、そこにあったのは意外にも、今にも泣き出しそうな瞬の顔だった。 「ようやく、俺を見てくれた」 「シュ――」 「俺のこと、嫌いになった?」  声が震えている。握りしめられた手が血の気を失って白い。その様子に悠の胸が、きり、と痛んだ。 「嫌だったよね、男にあんな事されるなんて。それは分かってたんだ。あんなに嫌がってたんだから……」 「瞬、待っ――」 「でも……、でも、悠が他の男に触られるなんて我慢できなかった……!」  瞬が叫んだ。 「俺は、君を俺だけのものにしたかったんだ!」  瞬が声を張り上げると、その眦から涙が弾けた。 「初めて君に会ったとき、離れたくないと思った。君が怪我をしたとき、守りたいと思った。暁や敬が君の隣に立つと、すごくイライラした」  悠は瞬の顔を見つめたまま黙って聞いている。 「最初はただの子供っぽい独占欲だと思った。君を独り占めしたいだけなんだって。でもこの身体を手に入れて、君の隣に立っても胸の疼きは消えなかった。それが――」  言い差して、瞬は自分の手に視線を落とした。緊張で強張った手を無理矢理開くと、小刻みに震えていた。 「――君を抱きしめて、君に口づけて、俺はこの気持ちがなんなのかようやく分かった。子供っぽい独占欲どころじゃない。全部だ。悠の身体も心も、全部俺のものにしたかったんだ」  涙を零しながら瞬は笑った。 「俺は悠が思っているようなおキレイな子供じゃない。ずっと君が欲しくて、暁達への嫉妬で俺の心は真っ黒だ。……君を抱いたとき、幸せすぎて俺は手が震えたよ。分かる? 君が俺の手でイったとき、俺も人生で初めてイった」  瞬のあけすけな台詞に、悠の頬が朱に染まる。だが、それでも目は逸らさなかった。 「あんな状況だったのに、俺は幸せすぎて舞い上がってしまった。俺のキスに悠が応えてくれた。君の身体が喜んでくれた。俺はやっと悠を手に入れたんだって……。でも、それは間違ってた」 「ちょっと待って――」  悠が遮る。だが、なおも瞬は畳みかけた。 「君の気持ちを全然考えてなかった。気持ち悪かったよね。男だから、触られたら反応するけど気持ちは別物だ。だから俺、ちゃんと話してちゃんと謝ろうと――」 「だから、僕の話を聞け!」  悠が怒鳴った。瞬が驚いて黙る。  悠は一つ息を吐くと、まず扉の前に立ったままの瞬の手を取り、部屋の中へと誘った。その肩を押して、座らせる。 「落ち着いて」  そう言われて、瞬は黙って項垂れた。さっきまで握りしめられていた拳は、今は力なく膝の上で組まれている。悠は片手でその手を握った。もう片方の手で瞬の眦を拭う。 「瞬」 「は、……はい」 「まず君は勘違いをしているよ」 「勘違いって――」 「黙って聞いて」 「……はい」  叱られた犬のように俯く瞬に、自然と笑みがこぼれる。 「僕は、気持ち悪くなんかなかった」  悠は答えから先に言うと、握る手に力を込めた。瞬は顔を上げて見つめ返すだけで、言葉を挟むことは我慢した。 「ただ……怖かったんだ。好きって気持ちは、もっと穏やかで静かな物だと思ってた。他愛ない話に笑ってじゃれ合って。そんな関係がずっと続くと思ってた。だからそれを壊した自分が許せなくて、逃げた」  悠の心を深く抉っていたのは、他ならない自分の心だった。 「汚いのは僕の方だよ。君を汚したくないなんて言いながら――嬉しかった。僕は、嬉しかったんだ」  瞬が自分に欲情した。掠れた声で自分を求めてくれた。  瞬が愛していると囁いたとき、もしあの場でなかったら、自分は瞬に抱いてくれと懇願しただろう。 「ねぇ瞬」  悠の冷たい手が瞬の頬を挟んだ。 「すき」  悠の唇から、抑えきれない思いが零れる。 「好き。瞬が、好き」  零れた告白は、ころころと転がって瞬の胸の中へ落ちた。 「逃げてごめん。もうとうの昔に、僕の心は君で一杯になってたんだ。……君が好き。大好き」  そうして悠は初めて、自分から瞬に口づけた。  触れるだけの口づけは幼くて児戯のような代物だったが、それでも瞬の呪縛を解くには十分だった。すぐに離れてしまった唇を追いかけて、もう一度瞬が口づける。  瞬が舌を進めようとしたタイミングで、悠の手が少しだけ瞬の胸を押した。その意を汲んで名残惜しげに唇を離す。 「……瞬」  悠が微笑んだ。 「ありがとう、僕を好きでいてくれて」  そう口にしてから少し照れくさくなったのか、目を伏せて頬を染める。 「僕を救ってくれて、ありがと――」 「――もう、黙って」  悠に皆まで言わせず、瞬は彼の唇をもう一度奪った。あの日、二人の間にあった拒絶の言葉は今はない。  瞬が思うさま唇を貪ると、二人の言葉が唇の内で溶けて消えた。

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