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第十章 脱出 3
その日は、いつもと変わらない朝から始まった。
まず暁が起き出し、続いて敬と涼、少し遅れて残る三人が起きる。布団を畳んで身支度を調え、全員で朝食を採る。全員揃ってテーブルを囲んでいるからか、他の住人達の目も気にならない。他愛ない話をしたり、冗談を言ったり、笑ったり。いつもと同じ楽しい食事の時間。
そんな中、悠は時折暁の視線を感じた。そちらを見ると、何か物言いたげな、けれど何も聞くなと戒められているような不可思議な表情とぶつかる。そんなことが数回続いたが、悠は何も言わなかった。
部屋に戻り、学校へ行く三人と仕事へ行く暁は支度を始める。だがそのとき、真がその手を止めて言った。
「ねぇ、僕なんだか熱っぽい」
そしてふぅと溜息をつく。横から敬が手を伸ばして真の額に触れた。
「そうだな、ちょっとあるようだ」
「今日は学校休んだ方が良いかな」
そう言って真は暁を見上げた。暁はすぐに頷いた。
「悠」
「あ、はい」
「真を見ててやってくれるか」
「うん、もちろん」
悠は真面目な顔で頷いた。――まただ。暁が、またあの表情で悠を見ている。
その目を見ながら悠は答えた。
「大丈夫だよ、まかせて」
午前十時。時計がその時刻を指すと、悠の傍らで勉強していた瞬が本を片付けて立ち上がった。
「ちょっと図書館に行ってくるよ」
「うん?」
悠が手元の本から顔を上げた。
「すぐ帰ってくる?」
「いや……探したい本があるから少し時間が掛かるかも」
ちょっと困ったように笑って瞬が言う。悠は何かを言おうとして、やめた。そして黙って頷いた。
瞬は手早く荷物をまとめるとすぐに部屋を後にした。後には悠と真が残された。
十時半。横になっていた真が、布団の中から悠を呼んだ。
「ユウー」
「はいはい」
悠がにじり寄ると、真は布団から手だけを出している。顔は布団の中だ。
「どうしたの? 辛い? 何か飲む?」
「ユウー、手握ってて……」
そんなに身体が辛いのかと、慌てて真の手を握る。だが、予想に反して真の手は冷たかった。
「マコ……」
――悠。
頭の中で声がして、悠ははっと言葉を飲み込んだ。
――適当に誤魔化して、僕の側に来て。
「マコ、大丈夫?」
悠は真の手を握ったままさらに彼の側に寄る。真の手に力が入った。
――今日、ここから逃げるよ。
「に」
――しッ!!
真が遮る。悠は視線だけで謝った。
――段取りはみんながするから。
真の顔が布団の陰から覗いた。優しく笑っている。けれど悠の視線が不安そうに揺らいだ。
――マコ。
――なぁに?
――逃げる……の?
――そうだよ。
ますます、悠の目が泳いだ。
――どうしたの?
――みんなで、逃げるんだよね? ……僕も?
悠の考えていることがようやく分かって、真は溜息を吐いた。
――バカだねぇ。
――……。
――ほんっとに、バカだ。大バカだ。
――マコ……。
――君を一人残してゆくはずがないでしょう?
布団の中で呆れたように笑うのが分かって、悠は赤面した。
――悠のおばかさん。みんなで逃げて、みんなで幸せになるんだよ。もう誰にも君をいじめさせない。
目の奥が、つんと痛くなった。慌てて唇を噛み締める。
――泣くのは後だよ。
――うん。
悠と真はしっかり手を握り合った。
そして、十一時。その時は来た。
*
敬、涼、瞬、暁の四人は、研究所からやや離れた地点で落ち合った。
「所長は?」
「出発したのを確認した。今なら確実に不在だ」
「タダシは残った。奴はテレポーテーションを使うから気をつけろ。手順は良いか?」
暁の言葉に三人は頷く事で答えた。
「よし」
暁が手を差し出した。他の三人が手を重ねる。
「……行こう」
その言葉を合図に、四人は研究所の心臓部へと跳んだ。
*
最初に跳んだ先は、研究所最下層の配電盤の前だった。事前に見た設計図と合致している。
瞬が最初に皆から手を離した。
高圧電流注意のシールがあちこちに貼ってある。瞬は大きく息を吐くと眼前の扉を開けた。今までの経験から、感電することはないと分かってはいるものの、やはり極度に緊張する。絶縁体に覆われたコードの端、本来なら決して触ってはならない部分にそっと指を這わせる。
――大丈夫だ。
瞬の後ろでは三人が息を呑んで見守っている。その緊張まで伝わってきて瞬はふっと笑った。
――大丈夫だ。
――電流は俺の血液。電気は、俺の意志。さぁ、探すぞ。
瞬の指先に、ぴり、と小さな刺激が走った。彼でなければ大事故になっているはずだ。
瞬は研究所内部を流れる電流に身を任せた。
まず探すのは監視カメラの管理システムだ。カメラをシャットダウンして、他の三人が自由に動けるようにする。
だが闇雲にシステムを壊してしまうのもいけないと、暁に事前に言われていた。
逃げるために必要な部分だけを壊せ、と。
なぜかと問うと、暁は言った。
「所長の怒りを抑えるためだ」
「俺たちが逃げたら同じ事じゃないか」
敬が言うと、暁は首を振った。
「俺たちが逃げたとしても、所長は『また捕まえればいい』程度にしか思わないだろう。だが保管しているデータや実験サンプルを破壊したら、所長は確実に俺たちを殺す。地の果てだろうが追ってくる」
静かに話す暁の声に、全員の背筋がぞくりと冷えた。
「だから瞬、お前が壊すのは監視システムと外部との通信照明他一般システムだ。データ保管庫はたぶん別電源を採っていると思う。そこには今回は手を出すな。監視システムの後、エレベーターと照明を壊して職員の足を止めろ。一度電源が切れると予備電源に切り替わるからそいつも止めろ。それから……」
――監視、通信、エレベーター管理、照明管理……。
瞬は電気の奔流を感じながら、枝分かれする情報を探っていく。
何度か経験はしたがやはり不思議な感覚だった。こんな専門分野、文字で書かれた物を読んでも全く理解できないはずなのに、瞬はこの流れの中にあって感覚でシステムを理解し始めていた。
扉を開けて部屋を覗くように捜し物を追う。
そして見つけた。
「あった」
繊細なその仕組みを内側から壊すのはとても簡単だ。負荷を掛けてやればいい。
瞬の指先一つでシステムは再起不能になった。
「監視カメラはこれで止まった」
瞬が振り向いた。
「行って」
暁が頷く。
「また後で」
そして瞬を残し三人は再び跳んだ。
*
ふと悠は建物が震えるのを感じた。顔を上げる。真と目が合った。
――始まった。
どちらからともなく発した思考は、続いて鳴り響いたサイレンによって中断された。
「警報?」
「これは……火災警報機だね」
そのけたたましい音もすぐに止まる。
涼が火災を起こしたことはすぐに分かった。打ち合わせ通りだ。
真は布団をはね除けると悠の手を引いた。
「行こう」
「うん」
二人が部屋を出ると、遠くの方でバタバタと走り回る足音が聞こえた。上の居住区担当の職員が情報収集に駆けずり回っているのだろう。出来るだけ見咎められないよう注意を払って進む。
「……悠」
「分かってる」
真が気遣うように悠を見た。おそらく一番の難関がこの先に待っている。
あの四人にも止める事は出来ないだろう、悠の苦しみ。
悠は自分の胸に手を当てた。
この心臓を苛む信号が届かない距離まで逃れられるか、それとも心臓が止まるのが先か。
――それでも、僕は皆と生きることを選ぶ。
「マコ」
悠が真の目を見つめて言った。
「僕が動けなくなったら、一人で逃げて」
「……バカ言わないでよ」
「僕も全力で逃げるから。動けなくなっても、ちゃんと逃げるから。だから……」
「あのね、君を置いていったら瞬にどんな目に遭わされるか!」
真は笑った。
「僕はそっちの方が怖いよ」
「マコ」
「僕は君の手を離さないからね」
「……ゴメン」
「謝るとこじゃないでしょう?」
真が優しく悠の手を引いた。
「うん。ありがとう」
「うん……さぁ、いくよ」
*
暁は地下二階を伺っていた。煙は充満しているが火の気はない。元々人の少ないフロアだったようで、今は人気もない。少々の息苦しさはあったがそれだけだ。涼は十分な役目を果たした。邪魔する者はいない――、そう思ったとき。かすかな足音が耳に届いた。
「――来ると思ったぜ」
暁が言った。
煙の向こうから現れたのはタダシだった。
「さすがだねぇ」
「匂うからな」
所長と同じ匂い。
「タダシ」
「なんだ?」
相変わらずの調子でタダシはへらりと笑う。
「お前に一つ聞きたいことがある」
「へぇ今? ここで?」
「――お前と所長、もしかして……親子か」
タダシが黙る。だがすぐに笑い声がフロアに響いた。
「よく分かったな」
「勘、だ」
何となく違和感はあった。確かにタダシの力は強い。所長が便利に使うのも分かる。だがそれ以上にタダシの気まぐれはマイナス要素だ。曖昧を嫌う所長がタダシを使い続けるわけが分からなかった。
「息子だったとはな」
「まぁ、な。戸籍の上ではそう言うことになるんだろう」
タダシは笑うのをやめない。
「俺の名前、知ってるか?」
「――タダシ、だろう」
「漢字。チュウギの、チュウって書くんだと。で、前に俺がチュウギって何かって聞いたら、『俺に尽くせ従え』ってことだとさ」
くくく、とタダシ――忠は含み笑いを漏らす。
「俺のこの力を知って、あの男は俺を、自分が捨てた女から引き取った。まぁそう言うことだ」
忠はそう言うと肩を竦め、暁に向き直った。
「お前らには関係ないことだがな」
「そうだな。ここから逃げる俺たちには関係ない」
「なんだ、逃げるのか」
「あぁ」
「つまらねぇなぁ。あの野郎を殺すつもりなのかと思ったのによ」
その言葉と同時に忠が床を蹴った。回し蹴りで暁の頭を狙う。
暁はそれを予想していた。軽く腰を落として躱すと、忠が着地した隙を突く。後ろから足払いを仕掛ける。
忠は足を引いて堪えると、よろけた振りで暁の腕を取った。身体ごと引き寄せ、頭突きを食らわせようとする。
暁は仰け反った。すかさず、忠が引きから押しへ力を転じる。床に仰向けに倒され、後頭部を強かに打ち付ける寸前、暁は背を丸めた。一瞬息が詰まる。だが暁は忠の腕を引いたまま足で相手の身体を蹴り上げた。
「ぐぅっ」
油断したのだろうか。暁の足が忠の腹部を強烈に抉る。忠はそのまま宙を浮いて床に落ちた。
すぐに起き上がった暁は、忠から少し離れて立つ。
「くっそ……、やっぱ、お前には勝てねぇままか」
忠は寝転がったまま暁を見遣った。忠の身体から戦意が失われてゆくのを感じる。
「――お前とは飽きるほど殴り合っただろうが」
暁が呆れたように言うと、忠はにやりと笑った。
「んじゃ勝てる相手の所へ行ってくるか」
そう言うやいなや、忠の姿がかき消えた。
「――おい!」
「結局お前は甘いんだよ!」
遠くから嘲笑と共に声が響いた。
「あいつ、まさか悠と真を――」
辺りを見回す。煙のせいで階段の場所も判然としない。自力で上のフロアへ向かうのは時間が掛かりすぎる。
「敬! 敬! 聞こえたら返事してくれ! 二人が危ない!」
答える声は、ない。
「ケイ――!!」
*
瞬の背中を、冷や汗が流れ落ちた。
警報は切った。スプリンクラーも作動していない。空調も止まった。外部との通信は不能。
涼があちこちで起こして廻っている小規模の火災も消す術はない。
職員達も今はただ右往左往するばかりだろうが、そのうち誰か気付いた者がここへやってくる。
瞬の仕事は終わったはずだった。じきに敬が自分を回収しに来る。
だが瞬は最後の障壁を探し出せずにいた。
――悠の足枷を外す鍵が見つからない。どこを探しても、悠の心臓へ信号を送るはずのシステムが見つからないのだ。
焦りと苛立ちを堪えるようぐっと手を握りしめたとき、背後に人の気配がした。
はっと振り向く。
「瞬」
そこに立っていたのは敬と涼だった。瞬が安堵の息を吐いた。
「こっちは終わった。そっちは?」
問われて、瞬は首を振った。
「ダメだ。最後のが見つからない」
「暁の言った通りか……」
暁は既にこの事態を予期していた。
「たぶんこれも別電源なんだろう」
そう口にして瞬は唇を噛んだ。
他の電源を探して侵入して破壊するか? もしデータ保管システムに紛れていたら、自分は手が出せない。
こうして考えている間にも悠が苦しんでいるかと思うと、瞬は身が千切られるような苦しさを覚えた。
「時間がない」
敬が言う。瞬が顔を上げた。
「ケイ――」
「ダメだ、瞬。お前も一緒に行くんだ」
瞬の考えなどお見通しだ。
「悠はお前を待ってるんだぞ」
「でも悠の胸には……!」
「分かってる。だがそれは悠も承知の上だ。悠を……信じろ」
瞬はきつく目を閉じた。こうしてまた、悠の苦痛を取り除いてやれない。
だが自分の不甲斐なさを嘆くのは今ではない。
瞬は壁を一つ殴ると、配電盤から手を離した。
*
建物の入り口から出て十歩ほど離れたとき、その恐怖は過たず悠に襲いかかった。
心臓が鼓動をやめ、でたらめな収縮と拡張を繰り返す。心臓を強い力で握り潰されるような激痛。
悠の膝が、がくりと折れた。
「……はぁッ……はぁッ……!」
「悠っ!」
真が叫んだ。繋いだ手が、痛いほど強く握りしめられる。
「歩いて! 止まっちゃダメ!」
真は悠の腕を引いて無理に立ち上がらせた。
酷い痙攣が悠の四肢を襲う。呼吸すらままならず、悠は酸素を求めて喘いだ。
「ぐぅぅっ……!」
苦痛から逃れようと藻掻き、胸を掻き毟る。
「僕に掴まってっ!」
真がその小さな身体を悠の下に潜り込ませた。精一杯の力で悠を持ち上げ、肩に腕を廻した。
早く、一刻も早くこの場を逃れねば悠は死んでしまう。
一歩足を踏み出す毎によろけて倒れ込みそうになる。真は堪えた。汗と涙が顔を汚す。
「頑張って……頑張って……」
呪文のように繰り返す。
「瞬が……待ってる!」
だがどれだけ行けば、悠はこの苦痛から逃れられるのだろう? 電波が届かない距離がどれほどなのか、真には見当もつかない。
先が見えないことに挫けそうになるのを叱咤し、真は先に進んだ。
「……置い、て……って……」
かすかな呻きと共に声が届く。真は思わず声を張り上げた。
「それだけは、しないって、言ったで、しょッ!!」
真の息も荒い。悠は辛うじて意識をつなぎ止めている。痙攣し、力の入らない足が、それでも先を求めて歩もうとする。
けれど真にも、悠の限界が近いことは分かっていた。
――だれか、早く! 早く来て!!
真が助けを求めた、そのとき。
「お前を逃がすわけには、いかねぇんだよなぁ」
現れたのは助けではなかった。
真が喉の奥で悲鳴を上げた。
「ずいぶん辛そうだな」
忠は、ゆっくりと悠に近づいてくる。
「おまえ、ここに残った方が良いんじゃないの?」
そう言って、苦痛に耐える悠の髪を掴んだ。
「悠にさわるなぁっ!」
真が叫ぶ。だが忠は全く意に介することなく、髪を掴んだまま悠を真から引きはがした。
支えを失って、悠は地面に倒れた。
「お前、こんな所にいたら死ぬぜ」
「だから今、悠を外に連れていくんだろっ!」
真がもう一度悠の腕を取る。忠がその真の頭を小突いた。
「ひゃん!」
真は簡単に転がってしまう。
「おまえ、邪魔。こいつはここにいた方が楽だろうがよ」
「なにが!」
真はすぐに起き上がって、忠に噛みついた。
「ここのなにが悠のためになるって言うんだよ!」
「はぁ? だってそうだろうが。ちょっと周りに尻尾振って、ハイハイ言うこと聞いてりゃぁ、何も命まで取ろうって訳じゃねぇし」
忠は、からかうわけでもなく至極真顔でそう言った。
「そうやって我慢して、自由を奪われて、痛い思いしても平気な顔して、人形みたいになって、それが楽って事?」
真が叫んだ。
「僕はそんなのいやだ。悠がそんなになるのはいやだ!」
「ガキが知った風なこと言いやがって」
忠が、真の襟首を掴んでねじり上げた。
「楽な方について何が悪い。これも生きるためだ」
「いやなものはいやだ!!」
真が絶叫した、そのとき。
真を掴む腕に悠の腕が伸びた。いつの間に立ち上がったのだろう。足が縺れ、真に倒れかかりながらタダシの腕を掴む。
「……マコに、触るな」
悠が呟いた瞬間、真は、ぶわりと総毛だった。なぜだかは分からない。ただ、何か危険な気配を全身で感じる。
と、ミシミシと何かが潰れるような音がした。
「う……ぐあぁぁぁぁ!!」
忠が悲鳴を上げた。
「汚い、言葉を、聞かせ、るな」
悠が手を離した。忠が、骨が砕けた激痛にしゃがみ込む。
「く……そ、なんだ、その力……」
忠が言った。以前見た悠の力では、扉を開けるのがやっとだったはずだ。骨を砕くことなど出来ようはずが無い。
悠は薄く笑った。その額から、こめかみから、妙な汗がぼたぼたと滴り落ちている。
真は本能的に身を震わせた。悠に触れている箇所がびりびりと痺れるように痛む。
怖い。圧倒的なエネルギーが、真のすぐ横で膨れあがってゆくのを感じる。
「……も、だめだ」
箍の外れた力が暴走を始めていた。肉体の薄い殻を食い破ろうとしている。
鼓動を正常に戻そうとする力と、異常信号を送り続けるものとで、悠の心臓は既に限界に来ていた。
「悠っ!!」
真が懸命に名を呼ぶが、悠の耳にはそれも届かない。
――シュン……。
悠の意識が途切れるその瞬間。
悠と真はその場から攫われるように、消えた。
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