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第一章 偶然と必然 3
心地よい振動を感じる。時折額をかすめる冷たい何かがある。
「シートを濡らしてしまって、すみません」
聞き慣れた声が言う。
「構いません。お気になさらず」
もう一つ聞こえた声には覚えがない。少し年嵩の男だ。やけに丁寧な口ぶりが耳慣れない。
「あの僕たちこれから……」
「途中で着替えを買って行きましょう。お二人のサイズはいくつですか?」
男は相手の問いをはぐらかした。
悠が押し黙ると、男は少し笑いを含んで言った。
「緊張するなと言う方が無理でしょうが、まぁ悪いようにはならないと思いますよ。若頭は堅気の方にはお優しいですからね」
悠の戸惑う気配が伝わって、瞬は頭を動かした。だが目が開かない。
「大丈夫だよ、瞬。眠って……」
悠が耳元で囁いた。瞬はもう一度、滑るように闇に落ちた。
*
まず最初に、見たことのない照明器具や内装が視界に入って、瞬は混乱した。
――ここは、どこだ?
頭を動かすと、冷たい革が頬に触れた。それが革張りのソファである事にさらに混乱する。
もう一度目を閉じ、手で目頭を強く押すと、上から悠の声が降ってきた。
「大丈夫? 頭痛い?」
慌てて目を開けると、気遣わしげに覗き込む悠の顔がそこにある。
瞬は、がばと身を起こした。そのまま悠の腕を掴んで揺すぶる。
「悠!」
「え、なに、落ち着――」
「大丈夫か!? 刺されたのか!?」
「大、大丈夫、大丈夫、なんともな――」
「刺したきゃ刺せって、あれどういうつもりだよ!」
「……だって、僕なら平気だし」
「何が平気だよ! バカ!」
「バカってなんだよ! 僕なら死なないし、瞬が怪我したらと思ったら、僕――」
「だからそれがバカだってんだ!」
瞬の息が切れた。それでようやく瞬も落ち着きを取り戻した。大きく一つ息を吐くと、悠を離し改めて抱きしめた。悠の肩口に顔を埋める。
「また君に痛い思いさせたかと……」
「……瞬」
「俺は、大事なときにいつも動けないな」
「そんなこと――」
「そういえば悠、さっき変なこと言ってたよな。俺が――」
「おい」
二人の言い合いは、ふいに横から掛けられた野太い声によって中断した。
「いい加減周りを見ろ」
呆れたように言われて、二人同時に声の方を見た。
二人が腰掛けているソファの向かいに、同じくソファに座って、こちらを見ている厳つい男がいた。
「え」
「あ」
呆然とする瞬を横目に、悠はさっと頬を赤らめて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
「お前さん、俺のこと忘れてただろう」
「すみません……」
「――あんた、誰?」
脇から瞬が言った。悠の腕を握る手に力を込める。
「あんたが俺たちを連れてきたのか」
「違うよ、僕らを連れてきたのは、あちらの人」
悠の視線の先にいる男が、軽く頭を下げた。
瞬は少し目を細める。部屋には目の前の恰幅の良い男が一人と、その脇に背の高い男が一人。二人とも、一目で堅気ではないと分かる。部屋の中にいるのはこの二人だけだ。だが部屋の外には複数の人の気配がある。殺気は感じないが、安心は出来ない。
扉は瞬の背後だ。前方にあるのはブラインドの降りた窓。目の前の男の様子と車中の会話のおぼろげな記憶から察するに、ここはヤクザの事務所で、目の前の男は組の若頭。と言う事は、目の前の窓ガラスはおそらく防弾仕様だろう。
実戦慣れした男二人相手に勝てるとは思えない。悠を連れての最も効率的な逃避経路を頭の中で組み立て始めたとき、目の前の男がにやりと笑った。
「なかなか良い心がけだ」
瞬の顔が強ばる。
「逃げる算段をするときは、視線を動かさないこと。後は顔に出さないようにすることだな」
瞬は無言で男を見つめた。からかうような口調の中には、侮蔑も害意も感じられない。探るような目で男を見ると、相手は豪快に笑った。
「いやすまん。堅気の坊主相手に気張りすぎた。許してくれ」
そして男は名乗った。
「俺は伊佐山組の若頭を務めさせてもらっている、東城って者だ。こいつは柴浦。もう名乗ったか」
「はい。先刻悠さんには」
柴浦は律儀に頭を下げて言った。
「悠――。嬢ちゃんかと思ったが、まさか坊主とはなぁ」
悠は少し首を傾げて曖昧な笑みを返した。
「んで、そっちが瞬か。年は……十四と十九――いや、もうあれから一年以上経つのか」
東城が独りごちるように言う。それを瞬が聞きとがめた。
「あれから? あんた……東城さん、俺たちのこと前から知ってるのか」
「あぁ」
「なぜ? 俺たちもまっとうな暮らしはしてこなかったけど、あんたらのお世話になったことはないぞ」
「お前さんたち、小野寺を知ってるだろう」
その名を聞いたとき、悠の体が震えた。震えはすぐに大きくなる。
「悠」
瞬がすぐに気づいた。
「大丈夫だ。大丈夫」
真っ青な顔が瞬を見上げる。瞬は二人の目も構わず悠の頭を抱え、言った。
「小野寺さんには、お世話になりました」
「世話、ねぇ。そっちの坊の様子じゃそうは思えないが」
「小野寺さんがいなかったら、俺たちは今ここにいない――」
それを遮って、悠が声を絞り出した。
「小野寺さんは、無事ですか……っ!」
「無事? どういうことだ」
「小野寺さん、助けてくれて、僕が、逃げたから! 所長が、所長が――」
「悠っ!」
研究所の恐怖は未だに悠を苛み続けている。震え続ける身体を抱えながら、瞬は唇を噛んだ。
すると、それまで部屋の脇で黙っていた柴浦が音も無く動いた。ソファの傍らに跪いて、悠の顔を伺う。
「悠さん、隣の部屋へ行きましょう。温かい飲み物でも、いかがですか?」
そして瞬に言った。
「悠さんを傷つけることは決してありません。お約束します」
「……こいつの約束は、俺よりも信用できる」
不思議なことに、東城の声には優しさがあった。
瞬はわずかな躊躇いの後、掴んでいた悠の腕を離した。揺れる悠の目を見て、瞬は微笑んで見せた。
「行っておいで。俺は、大丈夫だ。東城さんと話をするだけだから」
二人を完全に信用したわけではない。だが、ここに来るまでに自分たちを引き離そうと思えば、いくらでも出来たはずだ。
それを今になってどうこうする事も無いだろうと、瞬は踏んだ。それにこの柴浦という男は、悠の警戒心を解くことが出来るようだ。
悠が立ち上がろうとすると、柴浦は恭しくその手を取った。
そして、
「失礼します」
と一言言い置いて部屋を出て行った。
「――気にいらないか」
「え? あ、……いや」
知らず知らず、二人の消えた方を睨んでいたようで、慌てて瞬は視線を戻した。
椅子から身を起こし、改めて居住まいを正す。そして、名乗った。
「俺は、瞬、です。あの子は悠。名字は知らない。年――」
瞬は一瞬口ごもったが、すぐに続けた。
「たぶん戸籍はない。小さいときに捨てられたから」
「そうか」
東城は頷くと身を乗り出した。
「さて」
東城は、愉快そうに口火を切った。
「どっちから手の内を晒す?」
*
「どうぞ」
柴浦は、ココアの入ったカップを悠に手渡した。
「ありがとう、ございます」
震えは止まったが、まだ指先がかじかんだように言うことを聞かない。悠は、渡されたカップをきつく握った。
――なるほど、庇護欲をそそるな。
目の前の小動物めいた少年を眺めながら、柴浦は思った。
柴浦が仕える東城という男は、女子供に甘い。特にこの悠のようなタイプに滅法弱い。
結婚して子供でも持てば変わるのかもしれないが、今のところそのつもりはないらしい主は、自分の隠れた父性愛を金銭に替えて、あちこちの養護施設に多額の寄付をしている。
東城の主、真田も、そんな彼の性癖を半ば呆れつつも容認していた。
柴浦が見たところ、もう一人の青年も、どことなく子供っぽい面影を残してはいたが、その一方でひどく疲れた顔をしていたのが気になった。
年若い二人が生きていくには、この世は苦労も多かろう。
悠は栄養状態が悪いのか、先ほど聞いた年齢よりも小さく、幼く見える。
「甘い物はお好きですか?」
柴浦が、出来るだけ怖がらせないよう優しく言った。
悠はぼんやりとしていて、返事が遅れた。
「……え?」
「甘い物、好きですか?」
「甘い物……」
悠が繰り返す。柴浦が苦笑しながら言った。
「うちの配下の者にケーキ好きがいましてね。最初は店売りのケーキをちょくちょく買ってきてたんですが、最近では自分で焼くようにまでなってしまって」
甘い物好き菓子作り好きの極道というのも滑稽だが、当の本人は周囲のからかいも意に介さず、暇を見つけては食べ歩き研究までしているらしい。
おかげで、この事務所に来る客人には茶請けに結構な好評を得ている。それもまた妙な話だが。
柴浦はドアを細く開けて、外に控えている部下に一言二言声を掛けた。すぐに幾人かが駆け出し、皿に可愛らしい菓子を載せて戻ってきた。
やはりその様子には苦笑を漏らさずにはおれないようで、柴浦は含み笑いと共に皿を悠の前に置いた。
「どうぞ」
だが悠は、困ったような顔を彼に向けた。
「あの」
「……はい」
「これ、どうやって……」
その様子に柴浦は、と胸を衝かれた。
「召し上がるのは、初めてですか?」
「見たことは、あります……」
悠は小さな声でつぶやくと、うつむいてしまった。
幼い頃、まだ研究所に拾われる前に、店先で見たことはあった。けれど、美しいガラスケースに並ぶ儚げな菓子は、悠にとってまったく別の世界のものだった。昔、真が買ってきてくれた菓子のような味なのだろうかと想像してはみたが、こんな白くて柔らかそうな物、いったいどうやって食べれば良いのかと思案にくれる。
柴浦は、そんな悠を見て二人の過去を思った。
そして悠の傍らにもう一度跪くと、フォークを手に取った。目の前の皿から小さくクリームを掬ってみせる。
自分にも、主と同じ感情が残っていたことに驚きながら、そのフォークを悠に握らせた。
「後で、部下に感想を聞かせてやって下さい。泣いて喜びますよ」
悠がようやく、笑った。
*
「小野寺の特徴は?」
東城が問う。瞬がよどみなく身体的な特徴を挙げると、東城は頷いた。
「念のためだ。――間違いない」
今度は瞬が頷く。東城は、瞬の警戒を解きほぐすように親しげな口調で話し始めた。
「小野寺は、俺の高校時代の悪友だ。俺が悪さする度にかばってくれてな。まぁ、有り体に言えば、俺はあいつに頭が上がらん」
言いながら東城は懐を探る。が、すぐに気づいて手を止めた。やけに礼儀をわきまえたヤクザに、瞬が笑った。
「どうぞ」
そう言ってテーブルの上の灰皿を押し出す。だが東城は手を上げて懐から空手を出した。
「その小野寺に、お前さんらのことを頼まれた。一昨年の秋……だったな」
瞬はその頃のことを思い出した。ちょうど研究所から逃げる直前だろう。瞬は頷いた。
「妙な頼みだった。お前さんとあの坊を頼むと言う割には、連れてくるわけでもなく探せというわけでもなく。ただ、分かったと言うだけで良いだと」
東城は肩をすくめた。
「俺たちの出会いは必然になるとあいつは言った」
瞬はその意味が分かった。小野寺は、瞬の持つ力が互いを引き寄せることを確信していたのだ。
瞬が求める幸せのため、その助けが必要になったとき……。
「……東城さんが、俺たちの救いの手というわけなんだな」
瞬がぽつりと言うと、東城は胡乱げな目を向けた。
「俺は言われた通り何の行動もせず、お前さんたちのことは放っておいた。放っておいたがこうしてお前さんたちはここへ来た」
鋭い眼光が瞬を刺す。
「これはどういう事なんだ」
瞬は臆さず受けて立った。
「東城さん、小野寺さんがどこで働いているか、調べましたね?」
「……あぁ。調べた」
旧友が突然妙な依頼をしてきたのだ。調べる手段を持つ東城なら、調べずにはいられなかっただろう。
「何か分かりましたか」
「……」
「所属ぐらいなら……いや、それも無理かな」
「脳科学研究所、だ」
東城がその名を出したとき、瞬の身体が少し震えたように見えた。
「人間の脳の働きを研究している、と言う名目の私的な研究所に勤務していることは分かった」
東城は、ぐっと身を乗り出した。
「だがそこまでだ。そこから先は、当たり障りのない情報しか探れなかった。――なんなんだ、その『研究所』は」
あの日、小野寺は警戒していた。話が漏れるのを恐れ、話もそこそこに席を立った。尾けられていないかと周囲を気にしていた。
そして、最前の悠の態度。あの怯え方は――。
「そこはヤバイことでもしているのか」
その言葉にも、瞬の表情は変わらない。ただ静かに東城の顔を見つめている。
「――言うつもりはないか?」
落胆したように東城が言うと、瞬は首を振った。
「そうじゃない。ただ……あんたを巻き込んで良いのかどうか、俺には判断できない」
「巻き込む?」
「東城さんは組の幹部だろう? 組長さんとか、部下を守らなきゃならないんだろう?」
瞬の言葉に東城が頷く。
「俺も研究所のことは一部しか知らない。俺や悠がされたこと。仲間が所長にやらされたことなら知ってるけど、奴の企みを全部知ってるわけじゃない。だから、もしかしたらとんでもない事がまだ裏にあるかもしれないんだ」
研究所を逃げ出したときから、ずっと考え続けていた。
所長の思惑。研究所の存在。執拗に悠を使って行われた実験。そして研究所から逃げたあの日。不気味なほどに所長は静かだった。
「俺たちに関わる人は少ない方が良い。だから――」
「舐めるなよ」
東城が低く唸った。眦がぐいと上がる。途端に目の前の男の顔が獰猛なものに豹変した。
「これは俺と小野寺の約定だ。俺は奴の頼みを受けた。受けたからには、終いまで筋を通す。オヤジ……組長にも話は通してある。もう、これは俺の一存じゃねぇ。お前さんたちの面倒を見るのは、組の総意だ」
瞬は目を見開いたまま東城を見つめている。
「小野寺は、危険も分かっていたんだろう。それを押して俺に頼み込んできた。つまり俺の方の危険も織り込み済みって事だ」
瞬は、大きく二度三度と瞬きを繰り返すと、目を伏せた。
「……ホントに、俺の周りは馬鹿ばっかりだ」
その言葉を褒め言葉と受け取ったのか、東城は牙を収めて笑った。
「極道に囲われるのは不本意だろうが――」
「……俺の方が、外道かもしれませんよ」
そう呟いた瞬の声は小さく、東城の耳には届かなかった。
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