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第一章 偶然と必然 4

「瞬!」  瞬が部屋を出ると、その音を聞きつけて隣の部屋から悠が飛び出してきた。 「具合は?」  そう問われて、瞬は自分が風邪を引いてひっくり返っていたことを思い出した。 「平気。ちょっと話し疲れただけだから」  頬に触れる悠の手が気持ちいい。だいぶ楽にはなっていたが、多少の微熱は残っているのかもしれない。 「悠は? 落ち着いた?」 「うん。皆さんに、良くしてもらったよ」  そう言って後ろを振り返ると、隣のドアからは柴浦に続いて数人の強面が現れた。腕に彫り物のある者、傷のある者、派手なシャツの上から似合わないスーツを着ている者、一口には形容しがたい面々が皆、にこにこと締まりのない顔で悠を見ていた。中でも一人、瞬と同じくらいの年の青年が、感じ入った様子で悠に声を掛けた。ひょろりと背ばかりが妙に高く、頼りなげでとても組の構成員には見えない。 「悠さん、また美味しいの作りますから、食べに来て下さいね!」 「ありがとうございます」  悠がにこりと笑うと、青年は蕩けきった顔を返した。瞬が呆れたように笑った。  あの過酷な状況にあってなお、悠は人を信じ、人に信じられる美徳を失わなかった。これはきっと奇跡だ。  だが悠は、瞬の表情とは裏腹に目を伏せた。 「おい、誰か二人を家まで送ってやってくれ」  瞬の後から出てきた東城が言う。幾人かが意気込んで返事をする中、柴浦が苦笑して言った。 「私が行きます」  数分後には、瞬と悠は車中にあった。  柴浦がハンドルを握るのは、意外なことにシルバーの軽自動車だった。  地下の駐車場で瞬が車を凝視していることに気付いて、柴浦が答えた。 「黒塗りのセダンでは悪目立ちすることもあるので、状況に応じて乗り換えるんですよ」  確かに、これから住宅街の安アパートに赴くのに、鼻面の長い黒塗りではあまりに滑稽かもしれない。  深く納得しつつも、ヤクザ稼業というのも案外楽ではないのだと、瞬は思った。  車が走り出してからほとんど経たないうちに、瞬は眠ってしまった。  やはり疲れたのだろう。肩にのし掛かる重みが嬉しくて、悠は瞬の手を握りしめた。  と、柴浦が静かに言った。 「若頭はきっと、お二人の住まいから、全部ご用意なさるつもりでしょうから、準備をしておいて下さい」  瞬と東城の間にどんな話があったのか、柴浦が直接聞くことは出来なかったが、部屋から出てきたときの主の顔は何らかの確信に満ちていた。  ――あの様子ならば、当初の予定通りに事を進めて良いだろう。 「……住まい……」  悠が小声で言った。 「……どうかしましたか」  バックミラー越しに後部座席を見やると、悠が目を伏せているのが見えた。感情の揺れを必死に抑えようとしている姿が、好ましくも痛々しくもある。  柴浦は敢えて踏み込まず、話を変えた。 「柘植が――例のケーキの男ですが――、早速次作の計画を練っていましたよ。また事務所にいらして下さい」 「お邪魔じゃないですか?」 「私や若頭はあちこち顔を出さねばなりませんから、事務所にいるとは限りませんが、下の連中は特に事が無ければ暇にしています」  堅気の子供を事務所に招くなど前代未聞なのだが、今回に限ってはこちらの懐に入れてしまった方が楽だろう。いろいろな打算が働いていることは黙っておく。  だがそれを差し引いても、今日の若い連中の様子を見れば、悠を歓迎するのは目に見えていた。  不思議な子供だと思う。顔は小綺麗な方だが、さして特長があるわけでもない。それなのに笑顔を見ると、忘れていた感情を揺すぶられる。泣き顔を見ると、なんとしても助けてやりたくなる。 「また連絡を差し上げます」 「あ、それじゃ瞬に――」 「悠さんは、携帯電話の類は?」 「え? あ、いえ。僕は持ってません」  家から外に出ることもないし、瞬としか顔を合わせないのだから、連絡手段を持つ必要も無かった。悠がそう言うと、柴浦は頷いた。 「それでは、お二人の電話を契約しましょう。すぐに手配しておきます」  悠が顔を上げてミラー越しに柴浦を見た。だが今日一日で彼も相当に疲れたのだろう。遠慮の言葉も口に出来ず、深くため息をつくとシートに沈み込んだ。 「……はい」  そう悠が返事をしたきり、車内に沈黙が降りた。二人のアパートへ着くまで、会話は途切れたままだった。 * 「ただ今戻りました」  柴浦が事務所に戻ると、東城は先ほどの一室で、煙草を心ゆくまで満喫しているところだった。  紫煙を吐き出しながら頷いて答える。 「どうだった」 「かなりお疲れだったようで、すぐに休まれました」 「そうか」 「――今後の事ですが、予定通り進めてよろしいでしょうか」 「そうだな。俺のマンションに空きがあったろう」  いくつかある持ち家の中から東城が挙げた名前は、駅から離れた静かな場所に立つ高級マンションだった。 「ちょうど笙子が越して空いたところだ。人目もなくてちょうど良い」  柴浦は黙って頷く。 「それからな、俺がここに寄れる時間を作ってくれ」 「時間はどれほど必要でしょう」 「二時間」 「承知しました」  柴浦が返事を返すと、東城が笑った。 「お前は相変わらず何も聞かねぇな」 「瞬さんの話を聞くためでしょう」  懐から手帳を取り出しながら、柴浦が言う。 「……あぁ、長くなりそうなんでな」 「それにしても、気に入ったんですね」  柴浦や他の者に任せず、多忙な合間を縫ってまで自分で話を聞くという。 「あれは……お前に似てる」 「私、ですか」  東城はにやりと笑った。 「ちょうどお前に会ったのもあれくらいの年だったろう」 「もう忘れましたよ、そんな大昔のことは」 「小野寺の件がなかったらなぁ。お前の下でしごいてやれば、相当良いところまでいくだろうが……」  そう言って、それが詮無い仮定だと気づき、東城は話題を変えた。 「時に、あのデカイ方の坊主だが、年はいくつに見えた」 「……? 見たところ二十歳ほどかと。何かおかしなところでも?」 「うーむ。見た目はそうなんだが。いや、子供っぽいとかそういうことでも無いんだが……」  瞬の持つ違和感を、東城は説明できずにいた。 「世間ズレしていないと言うことでしょうか」  柴浦は、隣室での出来事を語った。 「小さい頃に家を出てから、碌な生活をしていなかったようですね」 「学校にも行ってないのか」 「そのようです」  会話の受け答えはしっかりしていたから、知能が劣っているわけではなさそうだ。 「家出の理由は」 「それについては上手く躱されました」  瞬についても同様だった。研究所については今度話すからと話を逸らされた。  二人とも何か秘密を抱えているのだろう。だがこうなったからには秘密は打ち明けてもらわねばならない。 「――時間は作れますが、その分のしわ寄せが」  柴浦が手帳を閉じて言った。 「分かった分かった。オヤジにも無理言ったんだ。馬車馬のように働かせてもらう」  そう言って、もう一度深く深く、煙を吸った。

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