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第一章 偶然と必然 5
悠は食欲をそそる匂いに目が覚めた。日はすでに高く昇っている。
台所の方で物音がして、悠は飛び起きた。
「あぁ、おはよう」
瞬がフライパンを振るっている。
「そろそろ起こそうかと思ってたんだ。朝ご飯、出来たよ」
久しぶりに見る、明るい日の光の中の瞬に、悠は眩しそうに目を細めた。
「どうした? 具合悪い?」
夕べ雨に濡れたから……と慌てる瞬に、悠は笑って手を振った。
「ゴメン、大丈夫だよ。寝起きでちょっとぼーっとしてただけ。ちょっと待っててね、顔洗ってくる」
「……今日、仕事は?」
朝食の後、後片付けをしながら悠が聞くと、瞬が苦笑した。
「風邪でぼんやりしてたから、怒られてクビになった」
体調管理ぐらいしっかりしなきゃなぁ、と笑いながら言う。悠は何も言えず手元に視線を落とした。
「だから、次のバイトが見つかるまで、仕事は夜だけ」
「……」
静かになってしまった後ろを振り向くと、悠はうつむいて固まっていた。
瞬は、数少ない皿を洗い終わると手を拭いて、悠の手を取った。
そのまま日当たりの良い窓際に連れて行く。
瞬は畳んだ布団に凭れるように座ると、悠の手を引いた。なぜか戸惑いを見せる悠を強引に引き寄せる。
「悠」
低音で囁かれたら、もう抵抗できない。
悠は顔を伏せたまま瞬の腕の中に収まった。
「悠」
「……うん」
「東城さんが、自分のマンションに引っ越して来いって」
「……うん」
悠の体のわずかな強張りを感じる。
「どう思う?」
「……いいと、思うよ」
「そうか?」
「うん、東城さん、顔は怖いけど、とても親切……」
「そうだな」
そう言いつつ、なおも顔を上げない悠の顎に手を添えた。
「どうした?」
温かい手に導かれるように、悠が顔を上げた。いつになく近い距離に瞬の顔がある。
悠は必死に平静を保つと、笑顔を作って見せた。
「なんでもない」
そして、ゆっくりと瞬の胸を押して、その身を少し離した。
「瞬は働き過ぎたんだよ。だから、助けてくれる人がいて、ほっとしてる」
「俺より苦労してる人なんて、いっぱいいる」
「……うん、それは、そうだけど……でも、他の人と比べてじゃなくて……」
瞬をまっすぐに見ることが出来なくて、つい俯いてしまいそうになる自分を叱咤する。
「瞬が、暁のお金のことすごく気にしてるみたいだから。僕が、言っていいことじゃ、無いけど……」
「……」
「瞬の気持ち、とってもよく分かるけど、でもそれで瞬が身体を壊したら、暁は悲しむと、思う」
「……うん」
「僕も……そんな瞬見てるの、……辛い」
「……うん」
瞬が、じっと悠を見た。反射的に悠が目を逸らす。瞬の胸がわずかに痛んだ。
「あ、あのさ、柴浦さんもとても良くしてくれたよ。ヤクザさんってもっと怖い人かと思ってたけど、そんなことないんだね」
悠が笑う。その笑顔を見ると、胸の痛みがさらに強くなった。
「そんな人ばっかりじゃない」
瞬が苛ついたように言った。
「危険な奴だってたくさんいるんだ。東城さんも柴浦さんも、どんなに親切でもやっぱりヤクザだ。頼るのは良いが心を許すのはまだ早い。悠は……もっと危機感持てよ」
思ったよりも強い声が出てしまって、瞬は自分で驚き内心酷く狼狽えた。
「あ……、うん、そうだね。ごめん、僕――」
「……いや」
胸の棘がなかなか抜けない。
悠はもう一度小さく「ごめん」と呟くと、瞬から身体を離してしまった。途端に、瞬の胸がすぅっと冷えた。
「とにかく」
悠が努めて明るく言う。
「東城さんたちのお世話になることは、賛成だよ。お世話になりっぱなしは心苦しいから、僕も出来ることをする」
「ん……」
瞬は、悠を見つめながらなんと言葉を返そうか迷った。そのときだった。
「柘植でーす! おはよーございまーす!」
部屋のドアが暢気に叩かれた。
*
「柴の兄貴のご命令ですー。電話契約に行って、あと、今、瞬さんが行ってるバイト辞めてきましょう!」
「……」
「瞬さん寝起きッスか? 機嫌悪いッスねー」
夕べ柴浦が乗った軽自動車だが、今日は柘植がハンドルを握っている。
なぜか先ほどから機嫌の悪い瞬を尻目に、まるで学校の友人にでも話しかけるような気安さで、柘植は陽気に喋り続けていた。
「瞬さんの仕事の件なんですけど、若頭の姐さんがやってるクラブの黒服なんかどうかって。夜の仕事だけど、上がりは良いッスよー」
案外に運転は丁寧だなと、悠は話を聞きながら思う。
「瞬さん、昼も夜も働いてたんですって? それじゃ体壊しますよ! 若頭の世話なら確かですしねー。いいなー、俺も何か副業やろっかなー」
「えっと、やくざさんも、お給料制、なんですか?」
どこまで聞いて良い物かと少々心配しながら、悠が尋ねると、柘植はあっけらかんと答えた。
「違いますよー。兄貴や若頭のお手伝いで小遣い貰ったりはありますけど、基本は自分で稼ぐんです。最近は株で稼いでる奴も多いですねー」
「……柘植さんって、ホントにやくざさんですか?」
おずおずと問われて、柘植は吹き出した。
「それ、よく言われます。でも俺、組に入る前はメチャ荒れてたんスよ。ヤクまで手ぇ出しかけて、今思い出してみて、自分でも別人みたいって思いますもん」
柘植はへらりと笑った。
「それが、組に拾われて、柴の兄貴のお手伝いについたらなんつーかこう、吹っ切れたっつーか、出会っちゃったつーか」
「……出会った?」
「うーんと、柴の兄貴カッコイイじゃないッスか」
「そうですね」
そう答えると隣から何か妙な気配がしたが、悠がそちらを見る前に柘植が続けた。
「極道もんってまぁ、おっきいことから小さいことまで、悪さばっかりしてんすけどね。でもその中でも、兄貴や若頭って、筋だけは通ってるっつーか何でもバカやるわけじゃなくて……うーん」
柘植は言葉を引っ張り出そうと悪戦苦闘している。そんな様子がなぜかほほえましくて、悠は笑った。
「俺たちの生き死にって、結構軽いんすよ。俺のダチも、喧嘩やって刺されてころっと逝っちまったし。俺も最期はそうだろーなって思ってたんすけどね。今じゃ、兄貴のためにタマ張ろうって。つまんねーことでは死ねねーなって」
柘植はバックミラー越しに、照れたように笑った。
「あー、俺、なんかマジに語っちまって、スミマセン」
「……分かる」
不意に、瞬が言った。
「へ?」
「分かるよ。それ」
機嫌の悪いのはそのままで、外を眺めながらぽつりと言う。
「命かけて、守りたいよな……」
「……ハイ!」
柘植が大きく頷いた。
*
柘植に連れて行かれた電話屋では、きらきらしい機械の山に放り込また。柘植に「どんな機能が要りますか?」と聞かれたが、二人とももちろんのこと分かるはずもなく。
店員と柘植との間で繰り広げられる謎の呪文を効いている内に、悠は頭がくらくらしてきた。
だが、今更「やっぱり要りません」などと口を挟める雰囲気でもない。
せめてもの助けとに、隣に立つ瞬を見上げてみたが、瞬は遠くをぼんやりと見つめたまま悠には一瞥もくれない。
悠は小さくため息をついた。
電話屋の用事が済むと次は瞬のアルバイト先の居酒屋だった。
あちこちで名前をよく見る、中堅どころのチェーン店だ。
ここでも交渉は柘植が取り仕切った。店長に「あまりに急すぎる。穴が空くから困る」と引き留められたが、柘植は半ば脅すように話をまとめた。人当たり良さそうに見えたが、やはり極道の世界に身を置く者だ。脅し方も堂に入ったものだった。
それで解放されると思ったのだが、すぐに柘植に車に押し込められ、続いて家具屋を何店か廻らされた。
「姐さんがいくつか家具も持って行っちまったんで、足りない分を選ぶようにって兄貴に言われました!」
と、柘植は明るく言ってのけたが、そもそも、家具という物自体をほとんど使ったことのない二人には、店に並ぶ巨大な物体にただ呆然とするばかりだった。
しかも、この巨大な家具が入るだけの部屋の広さを思うと、それはもう二人の想像を超えていた。
それでも何とか家具を選び――実際に全てを差配したのは柘植だったが――終えて、これでようやくお終いかと思ったところに、柘植の携帯電話が鳴った。
相手は……聞くまでもない。
「若頭のお時間が取れたそうなんで、事務所にお連れします!」
満面の笑みで言われれば、抗う術も気力も、もう持ち合わせていなかった。
「どうした、坊。ヤケに険しい顔だが」
東城に言われて、瞬はハッと我に返った。慌てて表情を繕う。
それを見て東城が呆れたように笑った。
「おいおい、そう済ました顔を作るな。警戒されてるようであまり好かんぞ」
「好かん、って……」
「可愛くない」
「はぁ……」
「悠坊が心配か」
「……いえ」
事務所に着くと、悠は瞬く間に組の若い衆に連れ去られてしまった。柘植の連絡で皆待ち構えていたらしい。
強面の若い衆が、下心すらなさそうな満面の笑みで出迎えたので、瞬は内心呆れた。
――こんな具合で、ヤクザが勤まるんだろうか?
「安心しろ、うちの組はそっちのシノギにはうるさいからな」
そう言われて瞬は首を傾げた。柴浦が後を受けた。
「子供を使った売春や人身売買で稼ぎを上げる組もあるのですよ」
「うちは代々、ヤクとガキには手を出さんというのが不文律でな。どっちも実入りは良いが……」
柴浦は、言い止した主を見やった。児童売春など、子供好きの東城にしてみたら外道中の外道だろう。
「その手のシノギに目の色を変えている組もある。悠坊のような見目の良いガキがふらふらしてると、目を付けられるぞ」
つい昨日の出来事を思い出したのだろう。東城が厳しい口調で言うと、瞬は緊張した面持ちで頷いた。
「――時に、坊」
「はい」
「引っ越しの件は捗ってるか」
東城が、空気を変えるように明るく言った。この男なりに気を遣っているのだろう。瞬は苦笑した。
「さっき柘植さんに、家具屋に引っ張っていかれました」
「選んできたか」
「柘植さんが。俺たちにはもう何が何だかさっぱりでした」
「そうか」
「あのベッド二つだけで、俺のアパートの部屋が埋まるくらいありましたよ」
東城は声を上げて笑ったが、冗談を抜きにして、柘植が選んだのは実際それくらいの大きさのベッドだった。
「柘植はあぁ見えてセンスが良くてな。前にも選ばせたんだ」
よくよく聞けば、そのマンションの前の住人――笙子という名の東城の恋人だそうだ――の入居の際にも柘植の才能が買われたという。それで、部屋の大きさから家具のサイズまでも把握していたのだと瞬は合点がいった。
「……笙子さんは服のセンスはいいんですけどねぇ」
柴浦が含み笑いを漏らした。
「あいつの選んだ壁紙とカーテンの部屋は……ひどかったぜ」
東城も笑った。
「引っ越しが終わったら、引越祝いをするからな」
「祝い? わざわざ?」
「まぁそういうな。この世界は……特にうちのような古参組は縁起担ぎと儀礼が欠かせん」
東城はそう言って、顎に手を当てた。
「組長がお前さんたちに会いたがってたしな。この折にちょうど良いだろう」
「組長……ってどんな方なんですか」
「年は……40代だったかな。確か俺よりそこそこ上のはずだ」
「はい」
柴浦が頷いた。
「一言で申し上げれば……得体の知れない方、でしょうか」
「ホントになぁ。黙って立ってればエリートサラリーマンでも通るような人だぜ」
東城はにやりと笑った。
「まぁ、会えば分かる。つーか、会ってみないとあの人のことは分からん」
「……はぁ」
ますます首を傾げる瞬に、東城は笑って手で制した。
「お前さんたちは組の客人だ。そう大々的にやるわけじゃねぇから安心しろ。あと、悠坊に言ったら逃げられそうだ。黙っておくんだな」
さすがに東城は、悠の性格をすでに見抜いていたようだ。瞬は黙って頷いた。
「今日はあまり時間が無いから、今後の事だけ話しておく。明日一日で荷造りしておけ。荷物は多いか?」
「いえ、ほとんどありません」
「それなら早く済むな。引っ越しの後に一席設けよう。オヤジの方は大丈夫か」
「話は通してあります」
「よし。……明日荷造りの後に、一度新居の方を見ておくといい。柘植に言っておく」
「はい」
「それから、通いでよければ家政婦を雇うが」
「かせいふ?」
「あー、食事や掃除洗濯の世話をする人間のことだ」
どうにも瞬の理解が追いつかない。先ほどから首を傾げてばかりの瞬を見て東城が言った。
「先走りすぎた。すまん。細かいことはゆっくり決めていこう」
そして、疲労の色の濃い瞬の顔を見やった。
以前からの疲労に加えて、ここ数日の急な変化に気持ちが付いていかないのだろう。
「今日はゆっくり休め」
そう言って東城が席を立とうとしたとき、瞬が遮るように口を開いた。
「東城さん」
「……なんだ?」
「超能力、って、信じますか?」
突然突拍子もない方向へ話を振られて、東城は珍しく戸惑いを見せた。
「超能力、か?」
立ち上がり掛けた腰を、もう一度椅子に戻す。東城は注意深く瞬を見つめた。
瞬は至極真面目な顔だった。先ほどまでの戸惑うような表情は影を潜め、挑みかかるようなきらきらとした目が東城を見つめ返している。
口元をぐっと引き締めた瞬の顔は、何ものにも侵されない気高さと意志の強さを感じさせた。
いい男だ、と東城は思った。
「スプーン曲げ、とか」
東城が言うと、脇から呆れた声が先に答えた。
「いつの時代の話ですか」
「いや、俺たちの世代じゃ、もうその手の話はマスコミも飛びつかなかったからな」
肩をすくめる東城に、瞬が笑った。ため息のような笑みだった。
「胡散臭い、夢物語、インチキ……そんなところですね」
「ま、ぁな」
東城は未だ瞬の真意が掴めず、慎重に相づちを打った。柴浦は黙って瞬を見ている。
瞬が言った。
「ところで、俺と悠の話は、どこまで伝わりますか?」
「……オヤジまでだ。下の者に伝えるつもりはない」
東城が目を細めて瞬を見た。
「だが、オヤジは良識ある人間だ。どんな話であれ闇雲に騒ぎ立てるようなことはない」
「……分かりました」
そう言うと瞬は立ち上がった。そのまままっすぐ柴浦の前へと歩み寄る。
「柴浦さん、電話、貸して下さい」
柴浦はちらりと東城を見た。東城が黙って頷く。柴浦は懐から電話を取りだした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
瞬は電話を受け取ると、手のひらの上に載せた。そしてもう片方の手で、電話の尻――ケーブルの接続口に指を這わせ目を閉じた。そして少しの間があって、瞬が口を開いた。
「相川、090-85……」
「おい」
「青垣、090-63……、明石080-47……」
瞬は、名前と電話番号とおぼしき数字を羅列して行く。
すぐに柴浦の顔色が変わった。
「電話の、……メモリの内容です」
「井関、090-32……」
「おい、坊!」
よどみなく数字を並べる瞬を、東城が遮った。
「手品……じゃぁなさそうだな」
「あなたたちを、小細工でからかっても仕方ないでしょう」
「その電話、坊には――」
「瞬さんの前では、出したこともありません」
柴浦の言葉に、瞬はにっこりと笑った。
「これが、俺の力、です」
「……超能力……?」
「まぁ、世間ではそう呼ぶんでしょう」
言いながら瞬は電話を柴浦に返す。柴浦は受け取りながらも、瞬の顔から視線を外すことができなかった。
「大丈夫、俺の力は、テレパシーじゃありません。あなたたちの考えを読むようなことは出来ない」
柴浦の表情を警戒と取ったのだろう。瞬は少し二人から離れた。
「俺が出来るのは、電気とそれにまつわる物を操ることです。電気を使って動く物の中に侵入して、データを読み取ったり、動かしたり、壊したり……まぁ、そんなとこです」
さすがの東城も、二の句が継げず瞬を見つめるばかりだ。
瞬はゆっくりと扉へ向かった。そのまま振り返ることなくノブに手を掛ける。そして、扉を開ける前に言った。
「俺のこと、気味が悪いと思ったんなら、……すみません。東城さんにお世話になるお話も、白紙に戻して下さって結構です」
そして後は何も言うことなく、部屋を出て行った。
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