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第一章 偶然と必然 6

 次の日二人は、荷造りを終えた。  と言っても、処分できる物を片付けてしまうと、残ったのは大きめの段ボール一箱分の荷物と、布団一組だけだった。 「引っ越しトラックも必要ないな」  瞬が小さく笑って言った。 「なぁ、悠」 「……なぁに?」  台所でシンクを磨いていた悠に、後ろから瞬が声を掛けた。 「昨日、東城さんに話した」 「……何を?」 「俺の、……力のこと」  途端に、作業の音がやんだ。  振り返ってこちらを見る悠の目が、やけに大きく感じられる。 「そ……う」 「あぁ。話すなら、引っ越す前にと思って」 「うん」  悠は頷くと、手元の泡を流した。そして手を拭くと、瞬の前に来て正座した。 「東城さん、なんて?」 「なにも。何を言って良いか分からないって感じだった」 「……そうだよね。それが、普通だ」  悠が手元に視線を落とした。 「でも、ちょっと安心した」 「なにが?」 「瞬がひどいこと言われなくて。あと東城さんが、ひどいこと言うような人じゃなくて」  そう言って、悠は笑った。 「……」  きっと悠は、何度もそんな言葉を投げつけられてきたのだろう。瞬の知らない悠の過去を思うと瞬の胸はひどく軋んだ。 「……ありがとう」  思わず伸ばしかけた手を理性で押さえ込んで、瞬が言う。悠は黙って首を振った。 「あ、それじゃ、引っ越しは……」 「うん、たぶん立ち消えになったと思う。やっぱり気味悪いだろうしな。……ごめん、悠に楽させてやれなくなった」 「そんな、そんなの……」  悠が唇を噛んだ。言葉が見つからない。 「でもまぁ、ここも引き払う事になってたし、どっちにしろ引っ越そう」  このアパートの解約はすでに済ませてあった。東城のマンションがだめになるであろう今、一番の問題は新居をどうするかだったが、最悪、東城の事務所に二三日寝泊まりさせてもらって探すことになるかもしれない。  ――それくらいは何とか大目に見てもらおう。  瞬が考えている間、悠はなぜか落ち着かない様子で、そわそわと指を動かしていた。その様子に気づいた瞬が怪訝な顔で悠に問うた。 「どうした? 何か気になることでも?」 「あ……、う、ん」  相変わらず、瞬と目が合うとおびえたようにさっと目をそらされる。  急に、瞬の中で苛立ちと腹立たしさが膨れあがった。 「悠」  さっと手を伸ばすと、悠の細い腕を乱暴に掴む。そのまま上へとねじり上げた。 「……い、たい」 「俺を、見ろよ」  きつい言葉に、悠の目が揺れ動いた。 「言いたいことがあるなら、はっきり言え」  脅すような、けれどどこか縋り付くような瞬の様子に悠は戸惑う。  なぜ瞬がこんな顔をするのだろう? 「僕……僕、君の邪魔に、なりたくない」  悠が震える声で言葉を押し出した。 「それ、どういう意味――」  悠の表情に看過できない物を感じて、瞬が問い糺したその時。 「おはよーございまーす!」  部屋の扉が暢気に叩かれた。  大事なところで邪魔が入ることにはもう慣れっこだったが、今日の邪魔には瞬も相当頭にきた。彼は荒々しく扉を開けた。  だが、その目の前に柘植ともう一人、柴浦の姿を認めて絶句した。 「こんにちは」  いつもと変わらぬ丁寧な物腰で、柴浦が言った。  瞬はただ黙って目の前の長身を見上げるばかりだ。 「おはようございます! 今日は新居にご案内しますよ!」  柴浦の後ろで柘植が明るく言う。そちらと柴浦の顔とを交互に見ていると、柴浦が笑った。 「柘植、ちょっと車で待ってろ」 「ハイ!」  柴浦に命じられるのが嬉しくて仕方がない様子で、柘植が弾むように階段を駆け下りていく。錆びた階段が今にも踏み抜かれそうな悲鳴を上げた。 「少しお話ししても構いませんか」 「……どうぞ」  柴浦は一礼すると部屋へ上がった。そして奥の段ボール箱一つと、その脇にいる悠に目を留めた。 「お邪魔します」  悠は赤い目元を隠すように慌てて頭を下げると、玄関から死角になる部屋の隅に逃げ込んでしまった。  柴浦はいつもと違うその様子に気づいたが、何も言わずに瞬と向き合った。 「今日は新居の方へお連れするよう、若頭に言われて参りました」  そして奥を見て言った。 「お荷物はあれだけですか? 今日はすこし大きい車で参りましたから、なんでしたら運んでしまい――」 「柴浦さん」  瞬が相手を遮った。 「昨日の話、覚えてますか?」 「昨日……、えぇ、覚えています」  あっけないほど簡単に言われて、瞬はもう一度黙った。 「ちゃんと、覚えていますよ」  柴浦は重ねて言う。その声はあくまでも穏やかだ。 「――それだけ、ですか?」 「それだけです」 「……」 「私がここへ来たこと。それが若頭の答えです……悠さん」 「は、……はい」  柴浦が声を投げかけると、壁の後ろから悠が顔を出した。 「新しい家へ参りましょう」  悠は大きく目を見開いたまま、柴浦と瞬を代わる代わるに見た。  長身の二人から見下ろすように見つめ返されて、悠はこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。 「悠」  瞬が先に口を開いた。 「おいで」  その声に、悠の目が切なげに揺れた。そして少しの躊躇いの後、悠は小さく頷いた。 *  そのマンションは、人工的な緑に囲まれていた。  高層ではない。三、四階建てほどだろうか。その代わり……。 「な、んですか、ここ」  瞬が絞り出すように言った。  二人が立っているのはマンションのエントランス前。まだマンション内には足を踏み入れてもいない。  柘植に地下駐車場に回るよう指示してから、柴浦は二人を車から降ろした。続いて自分も降り、二人を建物の方へ促す。  だがそのエントランスにまず、二人は度肝を抜かれた。黒光りする御影石が、ゆったりとしたスロープを形作って正面玄関へと続いている。  広い。とにかく広い。  飴色の扉の脇には紺の制服のドアマンがにこやかに立ってこちらを見ていた。  二人の後ろから来た柴浦がドアマンに手を上げると、彼は心得たようにさっと正面の扉を開けた。 「お帰りなさいませ」  慇懃と親密さとを絶妙に配合した笑顔で出迎えられると、その中はさらに別世界だった。  エントランスホール中央は、瑞々しい緑や花で彩られている。水音がする方を見れば、小さなせせらぎがホールを取り囲むように流れていた。  その奥には広い階段と、両脇に二基のエスカレーターがある。まるで贅沢なホテルのようだ。  ホール脇のフロントデスクには、管理人――ホテルの支配人にしか見えない貫禄の男だ――が、笑顔で控えていた。 「相模さん、こんにちは」  柴浦が先に声を掛けた。相模と呼ばれた管理人は、低く腰を折って返礼する。 「こちらが、先日お話しした瞬さんと悠さんです。瞬さん、こちらはコンシェルジュの相模さんです」  瞬と悠は慌てて頭を下げたが、聞き慣れない単語が引っかかって上の空の挨拶になってしまった。 「コン……って、なんですか?」  瞬が尋ねると、相模が穏やかな声で答えた。 「元は『管理人』の意味の肩書きだそうですが、現在では住人の方のあらゆるお手伝いをさせて頂くために、私と後もう二人、三人交代でこちらに二十四時間常駐しております」 「何かあったら、相模さんたちが飛んできてくれますよ」 「……よろしくお願いします」  少し躊躇いを見せつつも瞬が挨拶をすると、相模も先ほどと同じ丁寧な礼を返した。 「細かい説明は後でいたしましょう。まずはお部屋へ」  柴浦が言うと、相模は手にしていたカードキーを柴浦に渡した。 「エレベーターは奥の物をお使い下さい。手前はペット専用エレベーターになっております」  こんな低層の建物で階段は使わないのかと、瞬は妙な気持ちになる。だが言葉には出さず粛々と柴浦の後に続いた。  エレベーターに乗り込むと、柴浦はカードキーをエレベーター内の差し込み口に入れ、3のボタンを押した。 「エレベーターはキーこのがないと動きません。部屋は、ワンフロアに一室だけです」 「……はぁ」  ぴかぴかに磨き上げられたエレベーター内に、所在なげな自分たちの姿が映って、いたたまれない気持ちになる。  エレベーターは物音一つ立てずに目的のフロアに着くと、物音一つ立てずにドアを開けた。  臙脂の絨毯張りのそこは専有の廊下で、前方に視線を移すと、突き当たりに重厚な木製の両開き扉があった。 「あちらです」  柴浦が先を促す。だが、悠はエレベーターから降りた所に立ち尽くしたまま動こうとしない。  先に柴浦が気づいて悠の顔を伺うと、そこにあったのは今にも泣き出しそうな悠の顔だった。緊張からか、その顔からは血の気が引いている。  ――無理もない、か。  彼の送ってきた人生の中で、このような場所があることなど想像したこともなかっただろう。  柴浦は気遣うように優しくその手を取った。 「大丈夫ですよ、ちょっと広くてびっくりしますが、すぐに慣れます」  幼い子供にするように、ゆっくりと手を引く。ところが。 「悠」  固い声と共に、二人の間に瞬が割って入った。その手を奪い取るかのように荒々しく握ると、そのままの勢いで悠を扉の前まで引っ張って行く。 「……シュ――」 「怖がるな」  瞬が言った。きつく言い放たれて悠の身が竦む。だがすぐに優しい声が追いかけてきた。 「俺がいる。……俺が、側にいる」  悠が見上げると、言葉と同じ優しい目が彼を見ていた。 「約束、しただろう?」  研究所から逃れた時に交わした、あの約束。  当の瞬がそれを違えようとしているのではないか、と悠の心に黒い物が過ぎる。  けれどそれを顔には出さず、悠はうつむいて頷いた。  今、この手を離すべきなのだと、悠は思った。  瞬の重荷にはなりたくない。瞬の邪魔はしたくない。  健気なふりでそう思いつつも、己の手は未練がましく彼に縋り付いたままだ。 「……お願いします」  瞬が柴浦に言った。――言いつつも、含み笑いをする柴浦を睨めつける。  瞬の子供っぽい悋気などお見通しなのだろう。柴浦は何も言わず涼しい顔で鍵を開け、扉を引き開けた。 「どうぞ、お入り下さい」    その眼前に開けた光景に、二人は絶句した。

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