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第二章 熱情と劣情 1

 冷たい空気に晒されて、彼は身じろぎした。  寒い。布団から出ていた肩や鼻の頭が冷たく強ばっている。  瞬は布団を手繰り、冷えた箇所を布団に埋めようとして、傍らのひどく温かい存在に気づいた。  身体をこれ以上無いほど密着させて、瞬は彼を抱え込んでいた。  カーテンの間から差し込む、朝の淡い光が瞬の視界を照らす。  彼の顔のすぐ下に柔らかな栗色の髪がある。ふわふわと吐息に揺れる毛が顎をくすぐって、ようやく瞬は覚醒した。  と同時に緊張が走った。  何か悠にとんでもないことを仕掛けたのではないかと、必死に記憶を辿る。  ――確か、柴浦さんに夕飯をご馳走になって、ここに戻ってきて、疲れたから寝るってことになって……。  荷物はアパートから運び入れたが新居にはまだベッドはなく、寝室だと説明されただだっ広い部屋の隅に布団を敷いて眠ることにした、  ……そこまでは覚えている。  酒は飲まなかった。アルコールで前後不覚になるなど、恐ろしい。とんでもない。  いつもなら、一組の布団に背中合わせになっておとなしく眠るのだが、寒さと、何よりも心細さとでこんな事になったのだろう。  悠の腕は瞬の背中に廻されている。しっかりシャツを掴んでいるのだろう。少しくらい動いたところでその手が離れることはなかった。  しかも。  ――こ、この状況は、ちょっと……。  徐々に胸の鼓動が早くなる。呼吸をする度に、安いシャンプーの香りに混じる悠の匂いが、鼻から入って瞬の脳髄をとろかしてゆく。  たまらなくいい。そして、やばい。  寝返りを打つ振りをして身体を離してしまおう、と足を動かしたが、意に反して瞬の下半身は動かなかった。悠の足が絡みついているのだ。  互いに足を挟むように絡まっていて、容易には解けそうにない。  悠の足は骨張って細く、不健康な青白さで必要最低限の筋肉しか付いていない。  走ったことがあるのかと本気で疑いたくなるような、そんな色気もなにもない足に欲情するなんて、本当にどうかしている。  一生懸命気を散らそうとして、逆にそちらにばかり気を取られ、挙げ句に一番反応して欲しくない部分が首をもたげ始めてしまった。  ――まずい。まずい。  悠を起こさないよう、じりじりと動いてみたがやはり腕も足も解けない。少し無理をして引きはがそうとしたら、却って拘束が強くなった。  甘えるように顔を胸にすりつけられて、瞬はますます動けなくなってしまった。  その可愛らしい仕草に、愛しさがこみ上げてくる。が、その思いの裏で膨れ上がる不埒な衝動が煩わしい。純粋に悠を慈しみ愛したいのに。この気持ちに嘘はないのに、どんどん固くなる性器が己の本性を暴き立てる。柔らかい悠の鼠径部に性器を押しつけると、腰全体にじわりとぬるい快感が広がった。思わず吐息を漏らしてしまい、瞬ははっと自分を叱咤した。  ――流されるな。我慢しろ。我慢だ。耐えろ!  けれどその一方で悠を蹂躙したいという欲望が抑えられない。  簡単だ。少し身体をずらして、下半身の着衣をはぎ取ってやればいい。抵抗されたところで、悠の力などたかがしれている。  足首を押さえつけて、思い切り身体を割り開いて、この楔を打ち込めば良い。  果てを知らない妄想に、瞬は震えるため息を零す。  ――そんな事、出来るはずがない。  瞬は、唯一自由になる手を、ゆっくりと上掛けの中に忍ばせた。  ――悠を怖がらせたくない。傷つけたくない。  自分の下着の中へ手を入れると、どうしようもなく張り詰めた自分の性器に触れた。  薄い布を隔てたすぐ向こうに悠の身体があると思うと、ひどく興奮して息が上がる。  数回見たことがあるばかりの悠の裸体を脳裏に描き出すと、妄想の彼はしどけなく瞬を誘った。  ――ねぇ、瞬。僕のこと、好き?  ――好きだよ、好きだ。  押し倒して、服を剥ぐ。柔らかな肉をしゃぶり、こぼれる汁を啜ると、早く中に入れてくれとねだられる。  無理矢理突き入れてやろうか。それとも、散々に焦らして泣かせて乱れさせようか。 「悠……」  ――瞬。  荒い息の下から、悠が切なげに名を呼ぶ。  ――いやだ、怖い。怖いよ。  自分から足を開いたくせに、悠は泣いて抗い始める。  ――どうして、あの男と同じコトするの?  涙を流しながら、悠が言う。  ――信じてたのに。……瞬を信じてたのに! 「……っ」  今まで、自慰は何度もした。この身体になってから、訳の分からない衝動をやり過ごす術はいくつも覚えた。  だが、今このときの、目眩がするほどの絶頂を瞬は知らなかった。  固い先端を悠にこすりつけるように動かすと、甘いしびれが背筋を駆け上がり、次の瞬間にはぬるい液体が堰を切って溢れ出た。 「……!」  声を堪えるのだけで精一杯だ。ビクビクと腰が跳ねるのを止められない。  絶頂は容易には引かず、波が次々と押し寄せるように瞬を襲う。その度に、新たな精液が瞬を汚した。 *  水が出て良かった、と瞬は先住者のいい加減さに感謝した。  柘植から聞いた話では、先住の女性は引っ越しが済んだ後も、「面倒だから」という理由だけで、ガスも電気も水道も止めることなくほったらかしにしていたらしい。  定期的に部屋の掃除がされていたようで、今瞬がいる洗面所も、家中どこもかしこも埃一つ無く清潔だ。  洗面所で下着と部屋着の汚れを洗い流していると、瞬は己の情けなさに泣けてきた。  悠に欲情して、その身を抱きしめながら行為に及んだこともだが、それ以上に自分の身勝手さが許せなかった。 「なにが……傷つけたくない、だよ」  悠を抱いて、自分を拒絶されるのが怖い。あの優しい瞳に嫌悪の色が浮かぶなど耐えられない。  結局自分が傷つきたくないだけだ。  ごしごしと布を擦ると、濁った水が排水溝へ消えていった。  そういえば、と、この家には洗濯機はないのだと柘植が言っていたのを思い出す。  こういう超高級マンションの住人は、自分で洗濯などせず人任せにするか、外のクリーニングに出すのだと言われた。  そのため、地階に何台かの洗濯機――柘植は《ランドリースペース》と言ったが――があるらしい。  こんな下着一枚洗うのに、地下まで下りて行くのかと、瞬はさらに情けなくなった。 「……あぁ……」  我知らず、ため息が漏れる。 「どっかに、逃げたい」  思わずため息と共に言葉がこぼれた。まったくどんなひどい顔をしているのかと顔を上げる。と、鏡の向こうに見慣れた顔があった。  瞬は、飛び上がらんばかりに驚いた。 「……ユ――」  まだ寝起きの気怠さを引きずったままの悠は、少しとろんとしたまなざしで瞬を見ている。  それがまるで情事の後のように見えて、瞬は邪すぎる自分の頭に舌打ちした。  だが、そんな瞬の様子を他の意味に受け取って、悠は慌てて謝った。 「ご、ごめん。驚かせて」 「あ、いや、ちが――」  言い掛けたが、自分の言動を上手く説明できず瞬は押し黙った。 「どうかしたの? それ」  悠の視線が瞬の手元へ落ちる。  何が、と自分の手を見て、出しっ放しだった水と、手の中の惨めな布きれの存在を思い出した。慌てて水を止める。 「起きたら姿が見えないし、水の音がしたから……」 「あー、う、うん」  と言う事は、悠は瞬のしたことに気づかなかったのだ。  瞬はまずそのことに安堵した。そして、何とか上手い言い訳をと、起き抜けの回らない頭を捻った。 「よご……汚し……あ、そ、コーヒーだ。コーヒーを零したんだ――」 「コーヒー? やけどしなかった?」  悠が顔色を変えて近づこうとする。瞬はそれを慌てて遮った。 「あ、だ、大丈夫! ……ぬる……そうだ、ぬるかったから!」  瞬は今、Tシャツに下着一枚という状態なのだ。こんな状況で悠に近づかれて、その上また勃起までしてしまったらもうごまかしようがない。  だが飲んでもいないコーヒーの痕跡を何とか作らねばならなくなってしまって、さらに瞬は内心頭を抱えた。 「あの、悠。悪いんだけど、俺の着替え、箱に入ってるから持ってきてくれないか」 「う、ん、いいよ」  悠は返事をした。しかし、すぐには動こうとしない。 「悠?」 「もう、起きちゃう?」 「え?」  その意味が分からず、瞬は悠を見返した。 「まだ、時間早いよ」  そう言われて、瞬は窓を見やった。西側に位置するこの洗面所からは、まだ薄暗い外が見えるばかりだ。 「あー、うん、目が覚めたし、もう起きるよ」  覚めたと言おうか、冴えたと言おうか。  とにかく胸も股間もざわついて、もう布団には潜り込めそうにない。  この状態では、今度はトイレに籠もってもう一度抜かねばならないだろうかと、陰鬱な気持ちになる。  悠は、どこか暗い表情の瞬にそれ以上声を掛けることも出来ず、「そう」と小さく呟いた。  けれど自分のことで精一杯の瞬には、その声は届かなかった。

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