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第二章 熱情と劣情 2

 昨日買っておいた簡単な朝食をとると、もうやることはなくなってしまった。  まだ家具搬入にも時間がある。  ゆっくり時間を掛けてインスタントコーヒーを入れ、ゆっくり時間を掛けて啜ったが、それでも時間は三十分と経たない。  時計の針は、遅々として進まない。  瞬は、台所の隣にしつらえられたばかでかいテーブルの、遙か向こうに座る悠を見た。  まったく、何をするにも大回りしなくてはならない。ボロアパートにいた頃は大抵三歩で用は済んだが、ここでは悠に声を届けるのすら難しい。  悠は手元のカップを所在なげに見つめていた。  声を掛ければ、いつもの不安そうな視線が返ってくるだろう。  ただその後どうやって会話をつなげば良いのか。瞬が逡巡している内に悠が顔を上げた。 「なにか、音が――」  悠が言い終わらないうちに、激しく玄関チャイムが鳴らされた。  瞬が慌ててインターフォンのモニターを見た。画面には、赤い背景が映っている。だが誰の姿もない。  ――廊下? 正面玄関じゃない?  玄関のインターフォンを押した輩は、正面玄関を突破したことになる。  柘植や柴浦ではないだろう。あの二人なら手順を踏んで訪問する。  それなら東城だろうか。勝手知ったる家主なら、ここまでやってきても不思議はないだろう。  瞬がそう思いを巡らせた、その時だった。  モニターに見知らぬ女の顔が大写しになった。  思わず瞬は後ずさった。 「ちょっと、いるんでしょう!」 「……ね、姐さん! 落ち着いてくだ――」 「おだまり」  モニター越しに見える分だけでも相当な美人だ。もちろん、そんな美女に心当たりはない。  だが、その後ろにうろうろと見え隠れする姿には十分に見覚えがあった。 「柘植さん……」  柘植がいると言うことは、組の関係者なのだろう。ならばおそらくこの女性は。 「悠」  瞬が振り返ると、すぐ近くに悠が立っていた。女の声の剣幕に驚いて、モニターを凝視している。 「知ってる人?」 「いや、でもたぶん、この人ここの――」  その言葉に被さるように再びインターフォンが鳴らされる。 「あぁ、もう!」  瞬は玄関へと急いだ。  瞬がドアを開けると、女は何の躊躇いもなく中に入ってきた。女の後からは、小さく身体を折り曲げるようにして柘植が続く。  瞬と目が合うと、柘植は申し訳なさそうに首をすくめた。 「あの、瞬さん、こち――」 「柘植」 「ハイ……」  それは素晴らしく美しい女だった。  深い藍色のドレスシャツに白のロングタイトスカート、藍色のピンヒールを身につけている。大きく開いた胸元に光る大粒のダイヤのペンダントは、豊かな胸が揺れるのに合わせてきらめいていた。  肩の辺りで緩くカールした髪は明るい茶色で、形の良い輪郭を際立たせている。艶やかな、大輪の花のような女だ。年は若く見える。  気の強そうな、くっきりとした目が、睨むように瞬を見ていた。  ……いや違う、その目は瞬を通り越して悠を見ていた。 「後に人が入るって聞いたから、どんな女かと思ったら」  女が口を開いた。 「まさか子供とはね」 「姐さ――」  後ろからおどおどと言葉を挟む柘植を華麗に無視して、女は続けた。 「子供好きとは知ってたけど、こっちまで宗旨替えするとは思わなかったわ」  女は、口元をゆがめるように笑って言った。 「ロリ……」 「姐さん、違いますよ、悠さんは――」 「こっちのは、おちびさんの用心棒?」  女からかばうように悠の前に立つ瞬を、女は都合良く解釈したようだ。瞬は否定も肯定もせず、女に尋ねた。 「あんた、笙子さん?」 「そうよ」  一切悪びれることなく、笙子が答えた。 「東城がやけにあれこれ世話を焼いている子がいるって聞いたから、一度会いに来てみたの」  そう言って悠を見た。 「可愛いお嬢さんだこと」  どこまでが本心なのだろう。悠を見る笙子の目は、笑っていない。  と、瞬の後ろから悠が前に歩み出た。笙子とまっすぐに向き合う。 「あの、僕、男です」 「……」  笙子は、目をすがめて悠を見た。整えられた爪先を、その唇に宛がう。 「……お稚児趣味?」 「姐さんっ!」  柘植が抗議の声を上げた。だが、瞬も悠も言われた言葉の意味が分からない。 「悠さんはそう言うんじゃありませんって! とにかく帰り――」 「い・や・よ。柘植、お茶淹れて。私はこの二人と話がしたいの」  女王のごとく君臨する笙子に、柘植はなすすべ無く従うほかない。  笙子はさっさと、勝手知ったる旧居に上がり込んでしまった。 「すみません、瞬さん、悠さん。あの人、すげぇやきもち焼きなんス」 「あぁ、うん、やっぱりそうか」  上辺は飄々とした風を装ってはいたが、悠を見る目は尋常ではなかった。悠を東城の新しい恋人か何かと勘違いしているのだろう。 「柘植さん、あの」  悠が言う。 「『おちごしゅみ』って、なんですか?」  首を傾げて問われ、柘植は返答に窮した。 「そ、それはですねー」 「柘植!」  笙子の鋭い声が柘植を呼びつける。  これ幸いと、柘植は言葉を濁した。 「――はいっ、すぐいきます! 悠さん、あとで、柴の兄貴に聞いて下さい!」  バタバタとせわしなく、柘植が奥へと急ぐ。  後に残された二人は、どちらからともなく顔を見合わせた。 「うち、お茶っ葉、ないよね……」 「……あぁ。あの人、インスタントじゃ納得しないだろうな」 「どうするんだろ」 「……買いに走らされるかもな」 *  先ほどのダイニングテーブルに、瞬と悠、そしてその向かいに当の女が座っている。  女は、柘植が淹れた紅茶を静かに口にしていた。  おそらく、置き去りにされたままのティーポットなどがあったのだろう。  カップセットもどこから掘り出されたのか、一揃いがテーブルの上に並んでいる。  肝心の茶葉はと言うと、柘植が当然のごとく淹れているところを見ると、普段から持参でもしているのだろうか。  好みにうるさそうな笙子のことだ。慌てて買いに走るよりも、持ち歩いた方が話は早そうだ。  ゆったりとダイニングチェアに腰掛け、優雅にカップを持つ手は爪の先まで美しい。  見つめていると、きついまなざしを返されて、悠は慌てて手元のカップを手に取った。  甘い香りが鼻腔をくすぐる。  悠は少しだけ、気持ちを落ち着かせることが出来た。が。 「ところで」  笙子が攻勢に出た。 「東城とはもう寝た?」  瞬が噎せた。 「この意味は分かるのね」  笙子がからかうように言った。瞬が笙子を睨む。 「寝る?」  だが、悠がまだ分からない様子で尋ねた。 「どうして東城さんがここで寝るんですか? 東城さん、他の所に住んでいるんでしょう? それにここ、小さい布団一つしか無いですし、東城さんが寝たらはみ出しますよ?」  笙子が、悠を見た。わざとらしく惚けているのだと思ったのだ。だが、悠が本心から言っていることが分かったのだろう。さすがの笙子も眉をひそめた。 「あなた、本気で言って……るのよね」 「本気?」  中々会話がかみ合わない。笙子が、にっこりと笑った。 「東城に抱かれた? セックスした? 突っ込まれた?」 「姐さんー!!」  キッチンに隠れていた柘植がひぃーっと悲鳴を上げる。笙子は今度も無視した。 「これなら分かる?」  言われた悠は、少しあってようやく意味が分かったのだろう。みるみるうちに真っ赤になった。 「と、と、とう、じょ、さん――」 「そう、その東城さんと」  笙子はその様子を面白そうに眺めている。  悠は思い切り首を振った。 「そ、んなこと、してない、です、絶対、絶対、絶対――」 「悠」  真っ赤を通り越して真っ青になりながら否定する悠に、瞬が優しく声を掛けた。 「大丈夫だ」  テーブルの下で手を握ってやる。と、悠は瞬へと顔を向けた。 「僕、してないっ!」 「悠……?」 「信じて! 僕、誰ともそんな事してない……っ!」  あまりの真剣さに、瞬は返事が出来なかった。  信じるも何も、東城と知り合ってから今日まで、悠が東城と二人きりになった時間など五分も無い。 「……分かってる。俺も、この人も、分かってる」  落ち着かせるようにその背を撫でてやると、悠の喉がひゅっと鳴った。 「なんだ、そういうこと」  瞬が笙子に目を向けると、彼女は今度は一転、砕けた様子でテーブルに肘を突いて悠を見ていた。 「そうね、東城は、坊やみたいなタイプには絶対手は出さないか」  笙子も、長いつきあいになる東城の事はよく分かっていた。  男だというだけならあり得たかもしれない。けれど、東城がこんな子供に対して抱くのは父性愛以外のなにものでも無いことを、笙子も十分に承知していた。 「つまんないわ」  笙子の虚勢を張った言葉に、瞬が思わず笑った。言葉とは裏腹に、先ほどまでの殺気めいた気配が消えている。  よっぽど東城の事を愛しているのだなと、瞬は思った。そして、ストレートに相手にぶつかって行ける笙子をうらやましいと思った。  悠は未だ少し目が泳いでいるものの、やはり空気が緩んだのを感じ取って、落ち着きを取り戻していた。 「笙子さん、ご挨拶が遅れました」  瞬が、先に頭を下げた。 「東城さんにお世話になっています。瞬と言います」  慌てて悠も頭を下げる。 「悠です。みっともないところをお見せして、すみませんでした」 「こちらこそ、誤解してごめんなさい」  そう言って、花が咲くように笑う。  悠はその顔をじっと見つめた。  彼は、こんなに美しく生気に溢れる女性を見たことがなかった。  ほっそりとした骨格に、柔らかな肉をまとい、きめ細かな皮膚に覆われている。  男とつがいになるべく生み出された存在。子を産み育てることが出来る性。  もちろん、女性の役割がそれだけでないことは、悠も知っている。  けれど原始に与えられたその役目は、悠にとってとても崇高なものだった。  何も生み出すことの出来ない自分とは、あまりかけ離れた存在。  初めて見るこの女性は、生命そのものに見えた。  悠は隣に座る瞬を見た。  そして唐突に、自分を支配し続けてきた不安の理由を悟った。  美しくたおやかな女と、端正で逞しい男。  一つの絵画のような完成された世界が、悠の目の前にあった。  そこは眩しすぎて羨望の気持ちすら沸かない。  瞬の傍らにあるべきなのは、きっとこんな人だ。  決して、自分ではない――。  不意に、悠は肩を掴まれて我に返った。  瞬が間近から、悠の顔を覗き込んでいる。 「どうした?」  一瞬、状況が分からず目が彷徨う。だが目の前に座る客の姿に我に返った。 「……ごめん、ちょっと考え事してた」  悠は笑って見せたが、瞬は何かおかしいと感じたのだろう。客の手前問い詰めることも出来ず、ただ心配そうに悠を見つめている。  もう一度悠が笑った。と。 「あ」  笙子の視線が、瞬の背後へと動いた。そして彼女は小さく舌打ちした。 「柘植め……」  そこに立っていたのは、柴浦だった。

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