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第二章 熱情と劣情 3

「笙子さん」  それは二人が初めて耳にした声だった。  静かな、ひどく感情を抑えた声だ。だが、そこには確かな怒りがあった。 「勝手なことをされては困ります」 「私は忘れ物を取りに戻っただけよ」  笙子は澄まして言った。二人に会いに来た、と言わないところを見ると、押しかけたことを悪いとは思っているのだろう。  柴浦の後ろから、柘植が心配そうにこちらを覗いている。  柴浦はこれ見よがしなため息をついた。 「今回のことは若頭にご報告させて頂きます」 「ちょっと!」 「……何か不都合でも?」 「だから私は忘れ物を――」 「取りに戻っただけなら、報告されても構わないでしょう」  さすがの笙子も押し黙る。柘植から一連の言動を聞かされていたのだろう。柴浦の追究は鋭かった。 「いつもの悋気なら、何も言いません。ただ、このお二人は組の大事な客人です。その客人に無礼を働かれたとあっては、見過ごすわけには参りません」 「……だって」  笙子が口を尖らせた。 「だってあの人、嬉しそうに言うんだもの」  その顔が、急に幼い表情に変わった。 「可愛い奴を世話することになった、って。滅多にそんなこと言わないのに。妬けるでしょ!? 気になるでしょ!?」  最後の言葉は、瞬に向けられた。勢いに押されて頷く。  だが黙ったままの柴浦に見つめられて、笙子は言葉を切った。 「――ごめんなさい」  そう言って頭を下げる。それでもなお怒りを収めず口を開こうとする柴浦に、横から悠が言った。 「あの、大丈夫です。なにもひどいこと、言われてませんから。そんなに怒らないで下さい」 「しかし……」  悠はにっこりと笑うと、首を振った。 「いいんです」  穏やかな悠の表情に、柴浦もここは引くことにした。 「笙子さん」 「分かってる」  そう言うと、笙子は立ち上がって二人に向き直った。 「本当に、ごめんなさい」  そして深く頭を下げた。 *  生来の社交的な性格故だろう。最初の騒ぎが一段落すると、笙子はすぐに二人と打ち解けた。 「それじゃ今日、家具の搬入なのね?」  カップを片付けながら笙子が言った。  柘植はと言うと、出来るだけ笙子の視界から外れるようにしているらしく、今は姿が見えない。 「私が持っていった物よね。ベッドと、ローボードと……」  笙子が指を折って数えた。点数は少ないが、どれも大物ばかりだ。 「何時に?」 「えぇと」  瞬が時計を見た。 「十一時の予定です」 「そう、それじゃぁお昼にかかるわね。冷蔵庫……は、私が持って行っちゃったからないか。悠君、好き嫌いは?」  話を振られて、悠はかぶりを振った。 「ありません」 「偉いわー。東城はね、ニンジンが苦手なのよ。あの顔で!」  そう言って笑った。 「もし良かったら、お昼を一緒にいかが? 二人さえよければ、ケータリングを頼むわ」 「ケー……?」 「ケータリング、ね。食事を持ってきて貰うサービスよ」  ――まったく、この世の中は知らないことが多すぎる。  瞬は苦笑して、頷いた。 「お任せしたいんですが、俺たち、あまり手持ちがなくて」 「あぁ! そんな事良いのよ! お近づきの印に受け取ってちょうだい」  両手を広げて、笙子が言う。 「それに、もっと二人と話がしたいわ」  厚意を重く感じさせないのはさすがだ。 「ありがとうございます。今日は甘えさせてもらいます」  搬入は、笙子に柴浦と柘植も手伝って速やかに終えることが出来た。  台所に冷蔵庫が入ると、住まいはそれなりに人の住む場所らしく見える。  何が嬉しいのか、柘植がにこにこと笑いながら、台所を眺めていた。 「どうかしたんですか?」  その上機嫌な様子に悠が尋ねる。柘植は笑顔を絶やすことなく、悠に言った。 「いやー、俺が選ばせてもらった物だし、こうして見てみて、ちゃんと周りに合ってるのが嬉しいッス!」  言われて、なるほどと悠も周りを眺める。  柘植が選んだ家具はどれも主張しすぎることなく、それでいて部屋を居心地の良い物に変えていた。 「こんなに良くして頂いて、申し訳ないです」  悠がぽつりと言った。小野寺のつないでくれた縁で、このような贅沢を許されるのがなんだかいたたまれない。 「柘植さん」 「はい?」 「柴浦さん、どちらにいらっしゃいますか?」  柴浦は一人玄関にいた。 「――はい。そのように手配します。……はい」  静かな声が一人言葉を紡ぐ。電話中だと分かって悠は踵を返したが、ちょうどその時、通話は終わったらしい。  悠の背後から、柴浦が声を掛けた。 「悠さん?」 「お電話中にごめんなさい」 「いえ、ちょうど終わりました。なにかご用でしたか?」  悠は、間近に立つ長身を見上げた。瞬よりもさらに十センチは高い。長話をしたら首が痛くなりそうだなと思ったら、悠の目の前に膝を突かれた。  目線が合う。ヤクザの幹部補佐、という肩書きなど信じられないほど、穏やかな目が悠を見つめている。 「何か?」 「……あの、仕事」  余りじっと見つめられると、少し居心地の悪さを感じてしまうのは、悠の生い立ちのせいだろうか。 「仕事……」  柴浦は口を挟まず、悠の言葉が終わるのをじっと待つ。 「僕にできるような仕事って、ありますか?」 「……なぜですか?」  柴浦にまっすぐに問い返されて、悠は一瞬口ごもった。だが悠は必死に言葉を探した。 「瞬はいつも、あんなに頑張って働いてくれてます。それに、東城さんにもとてもよくして頂いて。それなのに……」  悠は我知らず手を握りしめていた。 「僕は、何も返すことが出来ない。甘えてばかりで、なにも……」 「悠さん」 「……はい」 「あなたのお気持ちはよく分かります。でも、あなたはまだ未成年だ」 「それは――!」  悠は何ごとかを口にしかけて、思いとどまる。 「年長者として、瞬さんがあなたの面倒を見るのは当然なのではありませんか?」  柴浦はその時、悠が泣き出すのかと思った。  激情が悠の表情を覆う。だがそれは瞬く間に消えた。 「僕は、瞬の重荷になりたくない、です」 「重荷、ですか」  柴浦は改めて、目の前の子供を見た。  この少年は……、いや、瞬と悠は二人とも、何か大きな物を胸に抱えている。  未だそれは二人の口から語られていないが、いつも緊張し張り詰めたまま綱渡りをしているような、そんな危うい様子が見て取れた。 「僕は瞬のためなら、何だってする」  柴浦を目の前にして、独白のように悠が言う。 「僕が瞬の邪魔になるなら……僕は……」  切なげにゆがむその顔に、ふと柴浦の心が動いた。  悠の頬に手を伸ばす。 「瞬さんは、決してそんな事はおっしゃいませんよ」  指に触れる肌の柔らかさは、まだ思春期を迎えたばかりの少年のものだ。 「皆、あなたを甘やかせるのが嬉しいんです」  納得できない様子で見つめる目は、その境遇にもかかわらず、曇り無く柴浦を見ている。 「笙子さんの言ったことは、本当です」 「……」 「若頭は、あなた方をお世話出来るのを、心から楽しんでいます。なんといっても極道ですから、自分の気に入ったことにしか動かないんですよ」  柴浦は微笑んで見せた。 「瞬さんも、悠さんが瞬さんに思うのと同じ事を、考えていると思いますよ」  何かを懸命に堪えるように、口元を引き結ぶ悠の顔は、年齢よりも幾分幼く見えた。  悠は黙って頭を下げると、くるりと背を向けて部屋へ駆け戻ってしまった。 「……一体何を隠しているのか……」  悠が消えた方を見ながら、柴浦が呟いた。

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