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第二章 熱情と劣情 5
悠がいない。
瞬は、離れの外に出て周りを見回した。
柴浦が悠の後を追ったのだから、一人でいると言うことはないだろう。
そう分かってはいたが、妙に落ち着かない。
駆け出したいのをぐっと堪えて、瞬は悠の姿を探し、離れの周りを回る。
と、奥の竹林の傍らに立つ長身の男の姿を見つけた。柴浦だ。
悠を見なかったか、と駆け寄ろうとして、瞬はその腕の中に抱かれる影を認めた。
悠は、柴浦の中で一層小さく見える。その表情は、すっかり隠れていて伺うことは出来ない。
ひどくショックを受けて、瞬はその場に立ち尽くした。
悠が、自分以外の人間と一緒にいる。悠が、自分の手の届かないところにいる。
灯篭の明かりで、柴浦の顔が闇の中で浮かび上がって見えた。
悠を見下ろすその顔は、とても優しい。
欲にまみれた自分とは大違いだ。
やがて悠が柴浦から離れた。しきりに目を擦っている。
眠いのか、それとも涙のせいか。
すると柴浦が、悠を抱き上げた。小さな子供を抱き上げるように、肩に担ぐ。
悠はしばらく抵抗を見せていたが、すぐにおとなしくなった。柴浦の首に、血だらけの腕を回す。
柴浦は、料亭の門の方へと歩き出した。
瞬の立っていたところは、明かりの届かない死角だった。
二人は、瞬に気づくことなく行ってしまう。
だが瞬は声を掛けることが出来なかった。
二人の姿が建物の影に隠れてしまっても、長い時間そこに棒立ちになっていた。
いつも瞬の前で心細げにうつむいていた、悠の姿を思い出す。
そしてつい先ほどの一件で、声を荒げた悠。
悠は懸命に、瞬を守ろうとした。
自分は悠にとってみれば、未だに守らなければならない存在なのだろう。
いつの間にか悠が、自分の前で泣かなくなったことに、瞬は気付いていた。
――俺は、いつまで経っても頼りにならない子供、なのか?
自分がどんなに背伸びしても、腕を広げて悠を捕まえておこうとしても、大人たちはあっさりと悠を攫って行く。
――悠に必要なのは、俺じゃないのか。
瞬は急に、自分のなすべき事が分からなくなった。
悠が欲しいだけなのに。とても簡単なことのはずなのに。
「坊」
不意に声を掛けられ、瞬は慌てて振り返った。
「どうした、こんなところで」
東城だった。穏やかな声で、瞬の様子を窺うように話しかける。
「……いえ、何でもありません」
「悠坊はどうした。いたか」
「柴浦さんに、お任せしています」
「……お前さんは、悠坊のことになるとここに皺が寄るな」
東城が、瞬の眉間を突いた。
「場所を変えよう。ここじゃ落ち着いて話も出来ないからな」
「でも真田さんを放っておいたら――」
「気にするな。しばらく一人で反省させる」
「反省って……」
「たまには良い薬だ」
そう言うと、東城は瞬を先へ促した。
東城が案内したのは、先の離れから少し行った所にある、小さな四阿だった。
「少し寒いが、まぁいいだろう」
三方を壁に囲まれたそこは、四隅の柱にオレンジ色の照明が入り、互いの表情が分かるほどには明るい。
人が四、五人も入ればいっぱいになってしまいそうな広さだが、圧迫感はない。
二人が丸木のテーブルに着くと、外の暗闇から、コーヒーの載った盆と共に給仕の女性が現れた。
女性は、無言でコーヒーを置くと、一礼してまた闇に消えた。
「ここは、政界のお偉いさんも使う料亭だ。とにかく、秘密厳守に関しては徹底している。……金だろうが、血だろうが、な」
瞬は黙って頷いた。コーヒーは一体どこから運ばれてきたのか、淹れ立ての温度と香りを保っている。
二人は無言のままコーヒーを口に含んだ。そして先に東城が口を開いた。
「なぁ、瞬坊」
「はい」
「……さっきはすまなかった」
「……いえ」
「俺たちには俺たちの事情があってな。不安定なヤクザ稼業だ、平和に見えるうちのシマでも、小競り合いは多い。敵対する組も片手では足りん」
瞬は、東城をじっと見つめた。
「派手な抗争ならまだ良い。だが内側から突かれると、立て直すには時間が掛かる。警戒するに越したことはない」
「分かります」
「そう言ってくれると助かる。だが今回の件はやり過ぎた。すまん。後で組長も詫びを入れると言っている」
瞬は静かに首を振った。
「俺たちも過剰反応しすぎました」
「なぁ、瞬。お前さんたちのいた研究所だが」
瞬の肩が、ぴくりと動く。東城は敢えて訊いた。
「何をやってたんだ。お前さんたちのその不思議な力を調べていたのか」
瞬は手元のカップを握りしめた。
東城は黙って待つ。
ややあって、瞬は小さな声で話し始めた。
「その研究所では、俺たち六人と、他に何人かの子供がいました。みんな、それぞれが何かしら特殊な力を持っていて、その研究をするというのが、研究所の名目でした」
瞬の目が遠くを見つめた。
「……所長は、悠のあの力に目を付けて、実験を繰り返した……」
*
マンションの地下駐車場からは、部屋まで直接上がることが出来る。
柴浦は助手席の悠を揺り動かした。だが、どんなに揺すぶっても眼を開けない。
少し妙な気もしたが、その割には寝息は穏やかで苦しそうな様子もない。
柴浦は起こすのを諦めて車を降り、助手席から悠を抱き上げた。
悠の胸ポケットからカードキーを出すと、エレベーターに乗り込む。
エレベーターが上昇する間、ふと、その磨かれた壁に映る己の姿が目に入った。
その緩んだ顔に内心呆れる。
悠が自分の腕の中で、安心しきって眠っている。
それが嬉しいようないたたまれないような、落ち着かない気持ちで、柴浦はエレベーターを降りた。
そのまま部屋の鍵を開けて中へ入る。
まっすぐ寝室へ行き、悠を下ろした。やはり悠は目を覚まさない。
ここへ来てようやく、柴浦は悠の左手を見た。
血が拭われたような跡のある、その手のひらに傷を見つける。薄く皮膚の張ったそこはしかし、ついさっき流血のあった傷とは思えなかった。
柴浦は悠のジャケットのボタンを外した。血が固まって、シャツに張り付いている。
シャツの血は、肘の辺りまで染みて、真っ黒に変色していた。
「なんなんだこれは……」
相当深い傷でなければ、こんな血液の量になるはずがない。
だが、これが他人の返り血だとも考えにくい。擦れた跡もない。
柴浦はふと躊躇った。躊躇った後、シャツのボタンを外す。
――なんで躊躇うんだ。
たかが子供の服だろうに、と自分を嘲笑う。
シャツの前を広げると、不健康な白い肌が現れた。そして、柴浦は息を呑んだ。
喉のやや下の辺りから臍までまっすぐに、太い傷痕が走っていたのだ。
肉色のケロイドが、巨大なミミズのように悠の身体に横たわっている。
柴浦はそれが、術創でないことに気付き、愕然とした。
これは縫合の痕ではない。切り裂かれた傷が、処置を受けぬまま癒着したものだ。
柴浦はその傷痕をゆっくりと撫でた。
薄い皮膚が、盛り上がった肉を辛うじて覆っている。
偽の傷ではなかった。間違いなく本物の傷痕だ。
柴浦はその傷痕から視線を引きはがすと、悠のシャツを脱がせた。その場を離れ、クローゼットを開ける。
隅の方に小さく折りたたんで置いてあるTシャツを手に取ると、昏々と眠り続ける悠に無理矢理着せた。
一刻も早く、この傷痕を隠したかった。
*
東城もまた、言葉を失っていた。
中国を筆頭にマフィアの人身売買や臓器売買は世界を席巻している。海外勢力が日本に触手を伸ばしている事も事実だ。
真田をはじめ、南雲会でも危機感を持って動向を注視している。
だが、逆に言えば東城にとっては未だ対岸の火事だ。
甘いと言われればそれまでだろうが、堅気の女子供をどうこうしようという、その考え自体に虫酸が走る。
それゆえ、瞬の告白を聞きながら浮かんだ表情は、純粋な嫌悪だった。
「……人体実験……」
東城が呟く。
「目的は、何なんだ」
瞬はそれを口にするのを躊躇った。言えば、悠の受けた恥辱に触れなければならない。
だがどうあっても、避けられる道ではなかった。
「おそらく、治癒能力を持った人間を作り出すこと、だろうと思います。悠の……精子を使って……」
瞬は、ずっと考えていた。
悠の精子をあれほどまでに欲しがった理由は何か。
小野寺の予想通り、所長は繰り返し悠の精子を採取した。ただの検査目的ではないだろう。
悠の精子と、所長が選んだ卵子とを掛け合わせて、悠の治癒力を持つ第二世代を作り出そうという計画なのではないか。
どんなに打ち消そうとしても、その可能性ばかりが頭に浮かんでくる。
所長は、人の手で、人の描いた設計図通りの人間を生み出そうというのだろうか。
「しかし……それは学会やらが黙っていないだろう。それに、そんな途方もない研究には莫大な金が必要だ」
「所長は政界の方にも恩を売って、後ろ盾を作っているようでした。何かあっても、……きっと表には出ない」
暁が言っていたことを思い出す。
要人の女や金絡みのトラブルを、暁が内々に処理していた、と。それをネタに、強請まがいのことをしていたのだろう。
「俺は研究所を潰すと誓いました。研究所にはまだ、俺たちの大事な仲間が捕まったまま、助けを待っているんだ」
暁のことを思うと瞬の胸は激しく痛んだ。
早く助け出したい。それは紛れもない自分の心なのに、時折悪魔の声が囁くのだ。
――このまま……。
「坊」
東城の声に、ハッと瞬は我に返った。
「そう思い詰めるな」
大きな硬い手が、瞬の肩に置かれた。
「行動を起こすには、それぞれ好機がある。闇雲に突っ込んでも事は成らない。そういうもんだ」
ずしりと温かい重みを感じ、瞬は目を閉じた。
「お前さんたちは今、足場を固める時期だ。地に足をつけて生きることを考えろ。それから力を付けるんだ」
やらねばならないこと、考えねばならないことが多すぎて瞬の頭はパンクしそうだ。
「俺みたいなヤクザが説教垂れるのもどうかと思うがな。まぁ年寄りの言うことは聞いておけ」
殊更にふざけてみせると、瞬がようやく緊張を解いて笑顔を覗かせた。
「そう言えばお前さん達、今日笙子に会ったそうだな」
がらりと話が変わって、瞬が返答に窮した。今日の――特に午前中の――あの騒ぎはどこまで東城に伝わっているのだろう?
瞬は東城の様子を窺いつつ、慎重に返事をした。
「今日、マンションに忘れ物があったとかでお会いしました」
「何か言われたか」
「なっ……にも」
変に引っかかってしまった瞬に、東城が笑った。
「隠すな。大方の予想は付いている。あいつは妙なところで鋭くて鈍いからな。敢えて誤解を解いておかなかった俺にも責任はある」
愉快そうに言う。と言うことは、笙子がマンションに押しかけることを半ば予想していたのだろうか。
瞬が物問いたげな視線を向けると、もう一度東城が笑った。
「そんな顔をするなよ。嫉妬も時には良いスパイスになるのさ」
「俺たちは巻き込まれたわけですか」
「許せ許せ」
豪快に笑い飛ばされては、瞬も笑うしかなかった。
「詫びと言っては何だが、笙子の店で働けるよう話を付けておいた。笙子もいたく乗り気でなぁ。明日から来てくれと」
「ありがとうございます。助かります」
「……金の心配は要らんと言うのに。お前さんも義理堅いぜ」
「……ご恩は、返させて下さい」
真剣な瞬の顔の前で、東城が鷹揚に手を振った。東城なりの照れ隠しなのだろう。彼は話題を変えた。
「……お前さん、付き合ってる女はいるのか」
新たな爆弾を落とされて、また瞬が黙る。
東城はいつの間にかコーヒーを飲み終え、煙草に火を付けていた。
「……付き合って、は、いない……です」
「なんだその中途半端な」
「片思い、みたいなものです」
「……若いってのはめんどくせぇなぁ。さっさとヤっちまえばいいだろう」
「そ……っ!?」
それが出来ないから苦しんでいるというのに。
「お前さんなら、靡かねぇ女はいないだろう」
東城は、ふぅっと長く煙を吐き出した。
「それとも、とんでもねぇ高嶺の花か」
「花というか……タンポポの綿毛みたいだ」
ため息一つで、どこかへ飛んで行ってしまいそうな、あの危うい笑顔を思う。
一体悠は、どこを、誰を見ているのだろう。離ればなれになってしまった暁だろうか? それとも側に居る柴浦だろうか?
嫉妬と羨望は、ふとした拍子に突然顔を出してくる。
御しきれない自分の黒い感情に、瞬はため息をついた。
その様子を横目に見ながら、東城が愉快そうに言った。
「こういう相談ならいつでも乗るぜ」
「面白がっているだけでしょう」
「そりゃあな、ヤクザ同士の喧嘩よりよっぽど面白い」
瞬はもう一度、盛大にため息をついた。
*
東城からの連絡があったそのとき、柴浦は、瞬たちのマンションのベランダにいた。
煙草を吸う気も起こらず、さりとて眠る悠の傍らにいることも躊躇われ、台所を拝借してインスタントコーヒーを淹れてから、ベランダへと逃げ出したのだった。
小さな電子音が聞こえてきたとき、一瞬そのありかが分からず慌てる。
電話が、ベランダの隅に放り出してあったジャケットの中だったことを思い出し、ポケットから電話を探り出した。
呼び出しが切れる前に、辛うじて間に合った。
「は、い」
『柴、お前今どこだ』
「……悠さんのマンションです」
『坊はどうした』
「眠っていらっしゃいます」
そう答えると主の気配が遠のく。傍らの人物と話しているようだ。かすかに聞こえる声は瞬のものだろう。
『起きそうか』
「いえ……そのような感じは……」
悠は何をしても起きなかった。おそらくまだしばらくは眠り続けるだろう。
そう言うと、東城はそこで待機するよう言った。
『俺と瞬坊はタクでそっちへ行く』
「しかしそれでは何かあったら――」
『大丈夫だ。お前がこっちへ来る方が手間だ』
「……分かりました。お待ちしています」
『あぁ――っと、そうだ、羽仁さん、捕まえておけ』
「本部長ですか? 何か問題が」
『いや、オヤジがポカやってな。少々調整が必要になっただけだ。電話で済む』
「はい。それでは、すぐに」
柴浦は一旦電話を切ると、二、三の通話の後、電話を置いた。
今しばらくここに留まる口実が出来てしまった。
柴浦は室内を見遣る。ベランダから、照明を落とした寝室が見えた。
あの傷痕と白い肌の色が目の前にちらつく。
アルコールに逃げるわけにも行かず、柴浦は渋々、ジャケットの中の潰れた箱に手を伸ばした。
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