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第三章 終点と起点 3
柴浦がマンションに着いたのは、連絡を受けてから三十分後だった。
玄関のチャイムを打ち鳴らすと、少しの間の後扉が開き、真っ青な瞬の顔に出迎えられた。
「容態は」
瞬は踵を返しながら、黙って首を振った。
「温めていますか」
「――はい」
二人は足早に寝室に向かった。
このマンションへ向かう途中で、柴浦は馴染みの医者を電話で叩き起こし、低体温症の対処法を聞き出すと、瞬に電話で伝えた。
「体温は?」
「舌下で35度ぎりぎりです」
「……何とか意識が戻れば……」
低体温症には、ゆっくり内部から温めるのが肝要だという。
「私が準備してきますから、瞬さんはここにいて下さい」
柴浦は台所へ行くと、買って来た数本のペットボトルの中身を流しに空けた。
そしてヤカンに湯を沸かす。
ある程度沸いたところで火を止めると、湯と水とを合わせてペットボトルに詰め直した。
ありったけの簡易湯たんぽを作ると、すぐに寝室へととって返す。
待ち受けていた瞬に、ペットボトルを渡した。
「これなら多少は長持ちするでしょう」
脇や首筋、鼠径部を温めるよう伝えると、柴浦は寝室を出た。
悠の様子は気になったが、側に付いていることは憚られた。
それは瞬の役目であって、自分ではない。
冷えた身体に熱を与えるのは、自分ではない。
……ふと、柴浦は自分の胸の内にわずかな苛つきを感じて、己の未熟さに苦笑した。
――俺は、何を拗ねているんだ。
柴浦が扉から離れようとした、その時。
寝室の中から鋭い声が聞こえた。
柴浦が再び中へ飛び込んだ時、悠は、毛布の中からぼんやりと瞬を見上げていた。
無防備なその顔は、ただ一人、瞬だけを見つめている。
瞬の指が悠の頬に触れた。
「俺が……分かる?」
問いかけに、瞬は小さく頷く。
瞬の緊張が解けた。
「……僕、ど、した?」
かすれた声が訊いた。
「今朝、風呂場に倒れてた。低体温症を起こしてたんだ」
悠は黙って記憶を辿っているようだった。
「どうしてあんな所にいた?」
「……夜中に、熱、出たから」
「熱!?」
瞬が呆れて言った。
「何で俺を起こさなかった」
「……ごめん」
「それじゃ、風呂場で――」
「熱くて、身体、冷やそうと……」
風呂場のタイルが冷たくて、気持ちよくて、横になったまま眠ってしまったらしい。
瞬が、大きくため息をついた。
「……一つ間違えたら、死んでたよ……」
もし蛇口を捻っていたら。身体が濡れたまま眠っていたら。
呆気なく命が失われていたかもしれない、と思うと、瞬の身体が恐怖で震えた。
悠の治癒力のせいで、瞬も、そしておそらく悠自身も、死に対して酷く鈍感だった。
どんな傷でも治る。死ぬことはない。どんな状況にあっても、死は他人事だと思っていた。……だが。
人の身体は思っていたよりもずっと脆い。
ほんの少し体温が下がっただけでも、死んでしまう。
人は脆い。脆くてはかない。
――失いそうになって初めて分かるなんて、滑稽だ。
瞬は悠を強く抱いた。毛布の中から震えが伝わってくる。
「寒い?」
「う、ん」
体温が上がってきて、ようやく身体が寒さを感じ始めたのだろう。小刻みに身体が震えている。
「何か温かい物、作ってくる」
「あ、私が――」
柴浦が動く前に、瞬が悠を離した。
「ここ、お願いします」
そしてすれ違いざま小さく言った。
「ちょっと頭、冷やしてきます」
柴浦が返事をする間もなく、瞬が部屋を出て行った。
後に残された柴浦が戸惑っていると、毛布の中の目が柴浦を見た。
「柴浦さん?」
呼ばれて、ようやく柴浦は悠の側へ寄った。
「ど、して?」
「瞬さんが、連絡を下さいました」
そう言って、悠の前髪を掻き分けた。
ふと、この行為が年下の客人に対して適切なのか、不適切なのかと判断に迷う。
十も年下の少年は、果たして子供として扱って良いのか、それとももっと対等になり得る存在なのか。
いや、迷うこと自体が、柴浦の人生で初めての経験だった。
組に入ることも東城の下で働くことも、何一つ迷うことなど無かったのに。
なぜ瞬と悠という、こんな二人にこうも心を掻き乱されるのだろう。
柴浦が黙り込んだまま、髪だけを撫でていると、悠が深いため息をついた。
「落ち着きましたか?」
「心配かけて、ごめんなさい」
「いいえ、良いんですよ……元はと言えば、引っ張り回した私どもが悪いのですから」
指を滑らすと、悠の冷たい頬に触れた。
「疲れが出たんでしょう」
「……」
「悠さん?」
「昨日みたいに、叱らないの?」
「叱って欲しいですか?」
悠は少し微笑むと、頷いた。
「叱られるのって、大事にされてる気がするから、好き」
「……気がするんじゃなく、大事にされてますよ」
「……瞬にも?」
思わぬ問いに、悠の顔を見返す。
だが、返事を求める代わりに悠は、毛布の中へ沈み込んだ。
「悠さ――」
「バカなこと言った……」
「悠」
「寝ます」
悠は毛布を抱き込むようにして横を向いてしまった。
柴浦は、黙ってもう一枚布団を掛けると、その耳元に顔を寄せた。
「ゆっくり休みなさい」
そして、静かに部屋を出た。
*
瞬は、キッチンのシンクの前にぼんやりと立っていた。
手にはマグカップが握られているが、中身は空だ。
柴浦が近づいても、瞬は気づかず考えに沈んでいるようだ。
「瞬さん」
柴浦が声を掛けると、驚いたように顔を上げた。
「あ……」
「悠さんは、眠られました。飲み物は、起きてからで良さそうです」
「……あ、うん……はい」
「大丈夫ですか」
「何が?」
「瞬さんですよ」
瞬は柴浦から顔を逸らすと、震えるため息をついた。
「こういうの、久しぶりで……忘れて、ました」
研究所では麻痺していた恐怖が、平穏な生活に慣れた今頃になって蘇ってくる。
「悠を、死なせていたかと思うと……」
瞬の手からマグカップが転がり落ちて、ゴトリと大きな音を立てた。
そのまま顔を覆う瞬に、柴浦が近づく。
「自分を責めることはありません。悠さんはちゃんと生きているんですよ」
激情に流されそうになるのを必死に堪える瞬に、柴浦は羨望を覚えた。
「今は無事だったことを喜べばいい。出来なかったことを一つ一つ拾い上げていては、瞬さんが参ってしまう」
一歩足を踏み出す毎に、後ろを振り返って、辿って来た道を確かめずにはいられない。
柴浦にも覚えがあった。その若さが、まっすぐな気性が眩しい。
柴浦が肩に手を置くと瞬が顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「柴浦さん」
「はい」
「お願いがあります」
「何でしょう」
「今日から俺、笙子さんの店で働くことになりました」
言われて、夕べ東城から同じ事を伝えられていたことを思い出した。
「あぁ、その件は私も伺っております」
すぐに、柴浦は瞬の頼みを察した。
「悠さんですね? 誰か組の手空きの者をこちらに寄越しましょう」
「ありがとうございます。二三日で良いので……。すみません、無理言って」
「いいえ、構いませんよ。皆喜んで来たがるでしょう」
困ったものです、と柴浦が言うと、瞬も笑った。
「午後からですか」
「えぇ、笙子さんが色々一通り教えて下さるそうなので、今日は早めに」
「それでしたら、すぐに手配させていただきますので、これでお暇いたします」
「よろしくお願いします」
瞬が頭を下げると、柴浦は軽く会釈してマンションを辞した。
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